1252年 (建長4年 壬子)
 
 

4月1日 甲寅 天晴、風静まる
  寅の一点親王関本の宿より御出で。未の一刻固瀬河の宿に着御す。御迎えの人々この
  所に参会す。小時立つ。
  行列
  先ず女房(各々乗輿。下臈先たり)
   美濃の局  別当の局  一條の局(大納言通方卿の女)
   西の御方(尼。土御門内大臣通親公の女なり。布衣の諸大夫・侍各一人共に在り。
        この外女房・雑色の外僮僕無し)
  次いで随兵(二行)
   足利の次郎顕氏     三浦の介盛時     武田の五郎三郎政綱
   小笠原の余一長澄    城の次郎頼景     下野の四郎景綱
   陸奥の七郎業時     尾張の次郎公時    相模右近大夫将監時定
   備前の前司時長
  次いで狩装束(二行、弓箭を帯す)
   大隅太郎左衛門の尉   伯耆太郎左衛門の尉  長門の守時朝
   遠江次郎左衛門の尉光盛 佐々木壱岐の前司泰綱 後藤壱岐の前司基政
   武石の次郎       武石の三郎朝胤    遠江の六郎教時
   越後の五郎時員     河内の守祐村     出羽次郎左衛門の尉行有
   甲斐の太郎時秀     城の九郎泰盛     陸奥の彌四郎時茂
   小山出羽の前司長村   足利の太郎家氏    北條の六郎時定
   尾張の前司時章     陸奥掃部の助實時   武蔵の守朝直
  次いで御輿(御簾を上ぐ。御服、顕文砂・萌黄の御狩衣、紅の御衣、紫の御奴袴、腹
        白を括らる。御力者三手)
  次いで公卿  土御門宰相中将(顕方卿、布衣)
  次いで殿上人 花山院中将長雅朝臣(布衣)
  次いで諸大夫 右馬権の助親家
  次いで医陰道 采女の正丹波忠茂  前の陰陽少允安倍晴宗
  次いで京より供奉の人々
   波多野出雲の前司義重  佐々木加賀の守親清(相並ぶ)
   長井左衛門大夫泰重
   左近大夫将監長時(已上狩装束元の如し。騎馬せられ済々たり)
  路次、稲村崎より由比浜鳥居の西を経て、下の馬橋に到る。暫く御輿を扣え、前後の
  供奉人各々下馬す。中下馬橋を東行、小町口を経て相州の御亭に入御す(時に申の一
  点なり)。奥州・相州・前の右馬権の頭政村・甲斐の前司泰秀・出羽の前司行義・下
  野の前司泰綱・秋田城の介義景等予め庭上に候す。御輿南門を入り寝殿に寄す。土御
  門宰相中将これに候せらる。その後椀飯の儀有り。奥州沙汰し給う。先ず出羽の前司
  行義時刻を申す。次いで親王南面に出御す。両国司廊の切妻戸下(敷皮に座す)に候
  せらる。相公羽林参進し、御簾三箇間(御座の間並びに東西)を上ぐ。次いで前の右
  馬権の頭政村御劔を持参す。南門を入り庭上を経て、寝殿沓脱より昇り、御座の傍ら
  に置き本座に帰着す。次いで御弓(これを張る)は前の陸奥左近大夫将監長時。次い
  で御行騰沓は後藤佐渡の前司基綱。
  次いで御馬(鞍を置く)
   一の御馬 備前の前司時長      遠江の六郎教時(これを引く)
   二の御馬 足利の太郎家氏      上総の三郎満氏
   三の御馬 遠江次郎左衛門の尉光盛  同六郎左衛門の尉時連
   四の御馬 大曽彌太郎左衛門の尉長泰 同次郎左衛門の尉盛経
   五の御馬 北條の六郎時定      工藤左衛門の尉高光
  また砂金百両・南庭十・羽一箱これを奉らる。この外兼ねて御塗籠に納めらるる物等、
  美精好絹五十疋・美絹二百疋・帖絹二百疋・紺絹二百端・紫五十端・絲千両・綿二千
  両・檀紙三百帖・厚紙二百帖・中紙千帖。次いで御厨子の中に納めらるる物、砂金百
  両・南庭十両。次いで御服、二重織物・御狩衣萌黄・二御衣白御単・二重織物御奴袴
  ・濃下袴・御直垂十具(織物村濃布五具)・御小袖十具・御大口一・唐織物御衣一領
  ・御明衣一・今木一。次いで女房三人分、上臈二人(一人別に巻絹十疋・帖絹十疋・
  紫十・染物十・色々)、下臈(巻絹十疋・紫十・染物十・色々)等なり。各々休所に
  置かると。

[保暦間記]
  後嵯峨院四宮中務卿宗尊親王と申を請下奉り、征夷将軍とす。宮の将軍にて下らせ給
  始なり。

[五代帝王物語]
  将軍三位中将頼嗣上洛の間、院の宮降らせ給べきに定て、第二宮宗尊親王(御母儀棟
  範朝臣の女、兵衛内侍、後准后)御下向なり。顕方卿・長雅卿以下御供にくだる。(略)
  今は世も武家もこれほどしづまりぬる上は、兎角の子細なく下しまいらせられける成
  べし。

[百錬抄]
  左大臣参入す。征夷将軍の事を宣下せらる(三品親王宗尊)。
 

4月2日 乙卯 天晴
  城の次郎頼景御使として上洛す。無為御下着の事奏聞せられんが為なり。今日椀飯(秋
  田城の介義景これを沙汰す)。和泉の前司行方刻限を申す。御劔は武蔵の守朝直、御
  弓箭は陸奥掃部の助實時、御行騰沓は秋田城の介義景。
  次いで御馬
   一の御馬 相模右近大夫将監時定  相模式部大夫時弘
   二の御馬 伊勢の前司行綱     信濃四郎左衛門の尉行胤
   三の御馬 出羽次郎左衛門の尉行有 同三郎行資
   四の御馬 和泉次郎左衛門の尉行章 同三郎行家
   五の御馬 越後の五郎時員     梶原左衛門の尉景俊
  次いで帖絹百疋(櫃十合に納め、長櫃三合に入る)内々台所に献ず。御塗籠に納めら
  ると。
 

4月3日 丙辰 天晴
  椀飯(足利左馬の頭入道正義これを沙汰す)。下野の前司泰綱刻限を申す。尾張の前
  司時章御劔を持参す。御調度は相模右近大夫将監時定、御行騰沓は出羽の前司行義。
  帖絹百疋進納の儀式例の如しと。
  今日前の将軍並びに若君御前・御母儀・二位殿等御上洛。而るに去る月二十二日(御
  所御出で)と云い、今日と云い重復たり。尤も憚り有るべきかの由、陰陽道これを申
  すと雖も、御許容に能わず。遂に以て御進発と。
  供奉人
   陸奥の七郎業時  相模の八郎時隆  縫殿の頭師連  越中の前司頼業
  路次の奉行
   筑前の前司行泰  河内の前司祐村  大隅の前司親員 大曽彌上総の介
   城の三郎        上野彌四郎左衛門の尉時光  出羽次郎左衛門の尉行有
   嶋津大隅修理の亮久時  大曽彌五郎兵衛の尉     小野澤の次郎時仲
   伊東八郎左衛門の尉   伊東の三郎         本間山城次郎兵衛の尉
   都築の九郎(催促人に非ずと雖も、若君の御時より奉公するの間、参らしむ)
  護持僧 法印成慧     権少僧都實暹
  医師  施薬院使廣長
  陰陽師 大舎人の助国継

  また御格子上下の事、人数を定めらると。その番帳和泉の前司行方これを清書せしむ。
   定め
     御格子番の事(次第不同)
   一番
    陸奥の彌四郎時茂    越後の五郎時員     足利の次郎顕氏
    大蔵権の少輔朝廣    下野の七郎経綱     那波右近大夫政茂
    城の次郎頼景      武藤左衛門の尉景頼   筑前次郎左衛門の尉行頼
    和泉五郎左衛門の尉政泰 足立三郎右衛門の尉光氏 伊豆太郎左衛門の尉實保
   二番
    北條の六郎時定     伊賀の前司時家     城の五郎重景
    駿河新大夫俊定     遠江次郎左衛門の尉光盛 大曽彌次郎左衛門の尉盛経
    土肥三郎左衛門の尉惟平 和泉次郎左衛門の尉行章 出羽の三郎行資
    佐々木四郎兵衛の尉泰信 河内の三郎祐氏     肥後四郎兵衛の尉行定
   三番
    相模式部大夫時弘    遠江の太郎清時     大隅の前司忠時
    梶原右衛門の尉景俊   能登右近蔵人忠時    信濃四郎左衛門の尉行胤
    肥後次郎左衛門の尉為時 式部兵衛太郎光政    武藤右近将監兼頼
    狩野五郎左衛門の尉為廣 加藤左衛門三郎景経   相馬次郎兵衛の尉胤継
   四番
    遠江の六郎教時     武蔵の太郎朝房     長井の太郎時秀
    肥後の前司為定     出羽次郎左衛門の尉行有 安藝右近蔵人重親
    小山の七郎宗光     彌次郎左衛門の尉親盛  筑前の三郎行實
    常陸次郎兵衛の尉行雄  土屋太郎左衛門の尉忠宗 武藤次郎兵衛の尉頼泰
   五番
    相模の八郎時隆     上総の三郎満氏     参河の前司頼氏
    城の九郎泰盛      長井蔵人泰元      隠岐三郎左衛門の尉行氏
    出雲六郎左衛門の尉宣時 伊賀次郎左衛門の尉光房 薩摩七郎左衛門の尉祐能
    大須賀次郎左衛門の尉胤氏 豊後三郎左衛門の尉忠直 山内新左衛門の尉成通
   六番
    越後右馬の助時親    壱岐の前司基政     同五郎左衛門の尉基隆
    大友式部大夫頼泰    上野五郎兵衛の尉重光  伊東六郎左衛門の尉祐盛
    伯耆三郎左衛門の尉時清 出羽籐次左衛門の尉頼平 小野寺四郎左衛門の尉通時
    長雅楽左衛門の尉朝連  平賀の新三郎惟時    鎌田兵衛三郎義長
   右結番の次第を守り、懈怠無く参勤すべし。但し上格子は、日の出以前各々参上せ
   しめ、晴向きに於いては左右無く参上すべし。御寝殿の近々に至りては、御定を相
   待つべし。下格子は、秉燭の刻限たるべし。翌朝に於いては当番衆参上の後退出す
   べし。当番衆もし悉く故障有るの時は、何箇日たりと雖も、先番衆参勤せしむべし。
   故無く不参の輩に至りては、殊にその沙汰有るべきなりてえり。仰せに依って定め
   る所件の如し。
     建長四年四月日
 

4月4日 丁巳 天晴
  相州に於いて、親王家の御浜出並びに御弓始め以下の日次等の事その定め有り。大蔵
  少輔泰房申して云く、十四日・二十日と。陰陽大允晴茂申して云く、十四日吉日たり。
  二十日頗る宜しからず。戊辰より遠行を忌む五離日なり。就中兵仗を用いらるること
  憚り有るべしと。泰房また申す。御的始め先々この日を用いらると。晴茂申す。御的
  始めは毎年の式なり。これは初度の儀、恒例に准えられ難しと。両儀猶落居せず。明
  日重ねて沙汰有るべしと。
 

4月5日 戊午 天晴、北風烈し。
  御浜出已下日時の事、為親・文元等を相州に召さる。また泰房・晴茂・晴宣・晴宗等
  同じく参加す。昨の相論の趣、晴茂の申す所その謂われ有るの由、各々これを勘じ申
  す。仍って来十四日たるべきの旨治定すと。晩に及び六波羅(留守)の飛脚(小林兵
  衛の尉)到着す。これ将軍宣旨の案文を持参する所なり。正文は来十一日請け取らる
  べし。官使権の少允すでに進発すべしと。奥州・相州参会せられ、これを披見せしめ
  給う。而るを彼の官使下向饗禄の事、先例を尋ねその沙汰有るべきの由、評議を経ら
  るるの処、建久の記分明ならざるの由、出羽の前司行義・民部大夫康連等これを申す
  と。宣旨状に云く、
    三品宗尊親王
   右左大臣宣べられて称く、件の親王、宜しく征夷大将軍たるべし。
    建長四年四月一日        大外記中原朝臣師兼(奉る)
 

4月7日 庚申 天霽
  陰陽道勘文を奉る。近日歳星光色を増し、色潤沢にして明らかなり。吉随たるに依っ
  て勘じ申すと。和泉の前司行方御所に持参し、上覧に備うと。
 

4月12日 乙丑
  鶴岡に御参有るべきに依って供奉人を催せらる。明後日(十四日)狩衣・上括り法の
  如し。後夜以前参勤せらるべきの状件の如してえり。散状の奥に載せらるる所なりと。
 

4月14日 丁卯 霽
  寅の一刻将軍家始めて鶴岡の八幡宮に御参り。前の陰陽権の大允晴茂朝臣(束帯)反
  閇に候す。花山院中将長雅朝臣陪膳に候せらる。尾張の前司時章朝臣役送たり。出御
  (御輿)。相州(帯劔の侍四十人を相具せらる)供奉せしめ給うなり。
  供奉人
  公卿  土御門宰相中将(顕方卿、直衣)
  殿上人
   花山院中将長雅朝臣   伊豫中将公直朝臣    坊門少将清基朝臣
   二條少将兼教朝臣(已上束帯)          陸奥の守重時朝臣
   相模の守(御劔役)   前の右馬権の頭政村   武蔵の守朝直
   尾張の前司時章     陸奥左近大夫将監長時  相模右近大夫将監時定
  この外
   後藤佐渡の前司基綱   出羽の前司行義     下野の前司泰綱
   前の太宰の少貳為佐   秋田城の介義景     和泉の前司行方
   後藤壱岐の前司基政   長門の守時朝      伊勢の前司時家
   出羽の前司長村     伊賀の前司行綱     那波左近大夫将監政茂
   参河の前司頼氏     能登右近大夫仲時    豊後四郎左衛門の尉忠綱
   和泉五郎左衛門の尉政泰 遠江次郎左衛門の尉光盛 同六郎左衛門の尉時連
   大曽彌次郎左衛門の尉盛経 武藤左衛門の尉景頼  隠岐三郎左衛門の尉行氏
   足立三郎左衛門の尉元氏 伊賀六郎左衛門の尉朝長 押垂左衛門の尉基時
   狩野五郎左衛門の尉為廣 長左衛門の尉朝連    信濃四郎左衛門の尉行忠
   伊東六郎左衛門の尉祐盛 薩摩七郎左衛門の尉祐能 伊豆太郎左衛門の尉宗保
   彌次郎左衛門の尉親盛  足立太郎左衛門の尉直元 梶原右衛門の尉景俊
   一宮善左衛門の尉康長  上野三郎兵衛の尉廣綱  東中務少輔胤重
  直垂を着し帯劔の輩(各々御輿の左右に候す)
   南部の又次郎時實    出雲五郎左衛門の尉定時 壱岐新左衛門の尉基頼
   三村新左衛門の尉時親  豊後四郎兵衛の尉忠綱  肥後四郎兵衛の尉行定
   小笠原の余一太郎    土肥の四郎實綱     加藤の三郎景綱
   武田の五郎七郎政平   伊豆の八郎景實       大泉の九郎長氏
   一宮右衛門次郎康有   大曽彌左衛門太郎長経  河内の三郎祐氏
   渋谷の次郎太郎武重   武藤の七郎兼頼     梶原右衛門太郎景綱
  随兵
   備前の前司時長     陸奥掃部の助實時    北條の六郎時定
   足利の太郎家氏     陸奥の彌四郎時氏    尾張の次郎公時
   越後の五郎時員     駿河の四郎兼時     城の九郎泰盛
   小笠原の余一長澄
    以上先陣
   長井の太郎時秀     下野の四郎景綱     三浦葦名遠江の守光盛
   三浦の介盛時      出羽の三郎行資     伯耆左衛門四郎清時
   和泉四郎左衛門の尉行章 田中右衛門の尉知継   結城上野の十郎朝村
   武石の三郎朝胤     武田の五郎政綱     阿曽沼の次郎光綱
    以上後陣
  検非違使
   佐々木近江大夫判官氏信 宇佐美大夫判官祐泰   同隠岐判官泰清
  随兵参進するの処、期に臨みこれを止めらる。陸奥掃部の助實時・遠江の守光盛は、
  着す鎧を布衣に改め供奉せしむと。右大将家より三位中将家に至るまで、将軍の威儀
  を整えられ、御出の度毎に一両人たりと雖も、勇士供奉せしめずと云うこと莫し。而
  るに親王の行啓に於いてはその儀強ち然るべからず。向後この事に依って随兵を召し
  具せらるべしと。凡そ御車等不具の間、今度の儀式はこれを刷わるるに及ばず。路次
  は小町大路を北行、政所を西行、鳥居の南に到り下り御う。日の出以前に御神拝、事
  終わり還御すと。辰の刻秋田城の介義景の奉行として、故に政所始め有るべきの由こ
  れを仰せ下さる。仍って両国司(布衣)政所に参られ、各々着座す(奥州は奥座。相
  州は端座)。当所執事前の伊勢の守行綱盃酒を儲け、三献の儀有りと。次いで御引出
  物(御馬・御劔)を進す。先ず奥州に献り、次いで相州に進すと。次いで両国司政所
  より帰参せしめ給う。次いで人々庭上の座に着す。将軍家(御直衣)寝殿南面に出御
  す。土御門宰相中将(顕方卿、直衣)西方より参進し、御座の間並びに左右二間の御
  簾を揚ぐ。次いで奥州御前の簀子に参らる。伊勢の前司行綱吉書(覧筥の蓋に納む)
  を持参す。奥州これを取り御前に置かる。御覧の後これを給わり、本座に帰着せしめ
  給う。次いで兵具を奉る。先ず御劔、武蔵の守朝直持参す。次いで御弓箭、尾張の前
  司時章これを役す。次いで御鎧(御甲・御鎧・直垂・御刀等辛櫃の蓋に盛る)、相模
  右近大夫将監時定・備前の前司時長。次いで御野矢、陸奥左近大夫将監長時。次いで
  御行騰沓、掃部の助實時。次いで御馬三疋
   一の御馬(鴾毛、鞍を置く、厚総鞦)陸奥の彌四郎時茂 浅間四郎左衛門の尉忠顕
   二の御馬(黒鴾毛、鞍を置く、楚鞦)長井の太郎時秀  綱嶋三郎左衛門の尉泰久
   三の御馬(鴾毛、鞍を置く、楚鞦) 城の九郎泰盛   同四郎時盛
  次いで御簾を垂る。次いで御弓始め、射手六人(立烏帽子・水干・葛袴・浅沓)南門
  を入り弓場の左右に候す。小選して廊に出御す(兼ねて大文高麗端座を敷く)。義景
  射手の記を持参し御前に置かる。退くの後、御旨を蒙り庭上に下り射手に触る。
  射手
   一番 二宮の彌次郎時元   早河の次郎太郎祐泰
   二番 河野左衛門四郎通時  桑原の平内盛時
   三番 武田の五郎七郎政平  眞板の五郎次郎経朝
  一五度射訖わるの後入御す。人々堂上に参り椀飯を行う。一に元三の儀の如し。次い
  で評定始め有るべきの旨仰せ出さる。秋田城の介奉行すと。奥州以下参上し、各々着
  座す。
  奥座
   陸奥の守   右馬権の頭政村  武蔵の守朝直  前の出羽の守行義
  端座
   相模の守   秋田城の介義景  民部大夫康連  前の尾張の守時章
   対馬の守倫長 清左衛門の尉清定
  大神宮・八幡宮已下の大社、神馬を奉らるべきの由定めらると。且つは御下向無為の
  上、将軍始めたるに依ってなり。評定訖わり、両国司事書を持参し給う。御覧の後こ
  れを施行せらる。御幣神馬奉献せらるべきの所、京都十八社、関東鶴岡宮・伊豆筥根
  ・三嶋・及び武蔵の国鷲宮已下諸国の惣社と。次いで晩に及び始めて直垂を着し御い、
  御乗馬始めの儀有り。小山出羽の前司長村・三浦の介盛時・秋田城の介義景等これを
  扶持し奉る。奥州・相州・武蔵の守・尾張の前司・陸奥掃部の助・出羽の前司等敷皮
  に列着す。鞠の御壺に於いてこの儀有り。御馬は相州の進せらるる所なり。
 

4月16日 己巳 天晴
  今年の鶴岡臨時祭の事、三月三日・四月三日、両度未だこれを行われず。三月は、前
  将軍三位中将家御軽服に依って延引す。四月は、当将軍の御下向近々たるの間これを
  閣かる。旁々その怖れ無きに非ず。早く遂行すべきの旨仰せ下さる。仍って今日陰陽
  道に仰せ日次を撰ばる。且つは臨時祭毎に、前々は将軍必ず御参宮有り。向後に於い
  てはその儀を止めらる。御奉幣は御使を用いらるべきの由治定す。これ親王の行啓輙
  かるべからざるの趣、その沙汰有るに依ってなり。
 

4月17日 庚午 天晴
  御所に於いて御鞠始めの儀有り。人数、
   土御門宰相中将(顕方卿)右馬の助親家    二條中将兼教朝臣(上鞠)
   相模の守        右馬権の頭政村朝臣 陸奥掃部の助實時
   城の九郎泰盛      上野の十郎朝村   工藤次郎左衛門の尉光泰
   所右衛門の尉行久    瀧口兵衛の尉行信  東中務少輔胤重
   三村左衛門の尉時親算え申す。三百を以て数と為す。
 

4月18日 [北條九代記]
  入洛。若松殿に入れ奉る。御送の武士二十人。

**[増鏡]
  頼嗣の三位中将は、その四月に、都にのぼり給ひぬ。いとほしげにぞ見え給ひける。

[百錬抄] 辛未
  前将軍三位中将頼嗣卿並びに若君已下関東より上洛す。
 

4月20日 癸酉
  引付番文を改めらるべきの旨その沙汰有り。今日評議の次いでを以て人数を加えらる。
  秋田城の介・大田民部大夫康連等これを奉行す。

[北條九代記]
  大納言入道御所七條殿に御同宿。
 

4月21日 甲戌 天霽、夜に入り雨降る
  今日御所造営の事評議有り。陰陽道の勘文を召さる。仍って晴茂・為親・以平等子細
  を一紙に書き載せ進上すと。和泉の前司行方奉行たり。
 

4月22日 乙亥 天晴
  難波刑部卿宗教参入す。去る比京都より参着す。御鞠会有るべきに依ってなり。相州
  人数已下の事を談らしめ給う。御問答三箇度に及ぶと。
 

4月24日 丁丑 天霽
  御鞠なり。将軍家出御す。土御門宰相中将簾を上ぐ。その後人々列立す。光泰懸かり
  の中央に進み出て、右の膝を突き御鞠を置く。
   難波刑部卿(上鞠一足)  土御門宰相中将(布衣)二條少将兼教朝臣(同)
   相州(同、錦革の韈)   右馬権の頭(同)   武蔵の守(同)
   出羽の前司行義(同)   紀瀧口行宣(同)
  この外
   結城上野三郎兵衛の尉廣綱 下野法橋仁俊     小山出羽の前司長村(布衣)
   城の九郎泰盛(同)    工藤次郎左衛門の尉光泰
  数三百。三村左衛門の尉これを計え申す。尾張の前司・佐渡の前司・秋田城の介義景
  ・前の太宰の少貳為佐(已上白の直垂)見證なり。晩に及び事をはんぬ。
 

4月29日 壬午 天晴
  相州に於いて、古御所を壊棄せらるべき事、五月は憚るや否やその沙汰有り。陰陽師
  等召しに依って参上す。所存を尋ねらるるの処、各々の申状一揆せず。所謂晴賢・晴
  茂憚るべきの由を申す。以平申して云く、壊棄せらるるに於いては更に憚り無し。ま
  た禁忌方これに同ずと。為親申して云く、家屋を壊す事、五月憚り有るは勿論なり。
  但しこれ棄て置くの儀たり。憚り有るべからずと。面々の申す詞に就いて評議を凝ら
  さる。相州仰せられて云く、古賢の云く、我が居宅壊すに於いては、大将軍王相凡て
  忌まずと。況や前将軍の幕下に於いてをやと。仍って五月と雖も破却せらるべきの由
  定めらると。
 

4月30日 癸未 天晴
  引付は二方を加え五方と為す。民部大夫藤原行盛法師を以て四番頭と為す。秋田城の
  介藤原義景を以て五番頭に定めらる。一二番頭人は元の如しと。
   引付
  一番(二日)
   前の右馬権の頭政村  佐渡の前司基綱  備後の前司康持  伊勢の前司行綱
   中山城の前司盛時   内記兵庫の允祐村 山名の次郎行直
  二番(七日)
   武蔵の守朝直     出羽の前司行義  伊賀式部入道光西 清左衛門の尉満定
   越前兵庫の助政宗   皆吉大炊の助文幸 対馬左衛門の尉仲康
  三番(十二日)
   尾張の前司時章    陸奥掃部の助實時 常陸入道行圓 大曽彌左衛門の尉長泰
   新江民部大夫以基   大田太郎兵衛の尉康守      長田兵衛太郎廣雅
  四番(二十三日)
   信濃民部大夫入道行然 和泉の前司行方  対馬の前司倫長 武藤左衛門の尉景頼
   深澤山城の前司俊平  甲斐の前司宗国  山名中務の丞俊行
  五番(二十七日)
   秋田城の介義景    筑前の前司行泰  参河の前司教隆 大田民部大夫康連
   進士次郎蔵人     明石左近将監兼綱 越前の四郎経朝