1252年 (建長4年 壬子)
 
 

5月1日 甲申 天霽
  鶴岡宮恒例の御神楽なり。而るに上宮宝殿の御戸開かれざること、卯の刻より午の一
  点に及ぶ。神主子細を申すに依って、御占いを行わる。卯の刻の如きは不快、午の刻
  は吉兆たりと。御膳に於いては大床に備うべきの由、相州これを計り申さる。
 

5月2日 乙酉 天晴
  工等を召し、宮寺に於いて御戸を開かるるの処、鎖舌折れると。

[百錬抄]
  水天供等を始修せらる。近日の旱魃法に過ぎるに依ってなり。また祈雨の奉幣度々な
  り。
 

5月5日 戊子 天晴
  相州の御方に於いて、出羽の前司行義の奉行として、御所造営の将軍家御方違えの事
  その沙汰有り。陰陽道六人参入す。これを尋ね仰せらる。当時御本所を何方に儲けら
  るべきやと。為親申して云く、四十五日御連宿の所これ無し。然れば西乾方共以て憚
  り無し。また曰く、四十五日以後、秋節一度御方違え有るべくば、御本所を北に儲け
  ること宜しかるべし。且つは御下向の後、今に御行始めの儀無し。五月中聊か憚り有
  りと。廣資・以平これに同ず。晴賢・晴茂申して云く、四十五日以後と雖も、御本所
  を遊年方に儲ける事憚り無しと。文元申して云く、近代は一夜の方違え定めの事なり。
  西乾共以て憚り無しと。てえれば、秋節は御本所を北方に儲けらるべきの由評定しを
  はんぬ。また亀谷の方角に罷り向かいこれを見定め申すべきの由仰せ下さるるの間、
  行義・行方・景頼等彼の六人を引率せしめ、窟堂後山の上に登る。即ち帰参し、乾方
  に当たるの由一同これを申すと。
 

5月7日 庚寅 天霽
  巳の刻地震。今日より祈雨の御祈りを行わる。松殿法印良基・大臣法眼親源・加賀法
  印定清等これを奉仕す。また同御祈りとして霊所七瀬御祓いを行う。晴茂・宣賢・為
  親・廣資・晴憲・以平・晴秀等これを勤む。
 

5月8日 辛卯 終日微雨降る
  御祈祷の霊験炳焉するものか。
 

5月11日 甲午 天晴
  祈雨の賞を行わる。僧衆は砂金、陰陽道は御劔なり。伯耆の前司光平・小野澤修理の
  亮これを分け遣わすと。
 

5月15日 戊戌 [百錬抄]
  雨降り洪水。水天供二七日をはんぬ。
 

5月17日 庚子 陰
  奥州・相州並びに前の典厩・武州・前の尾州已下評定所に参会し、将軍御方違えの事
  評議を経らる。奥州の亭を以て御本所に用いらるべしと。而るに当御所(相州の御亭)
  より西方に当たり、大将軍方憚り有るべきの由、晴賢・晴茂・為親・廣資・晴憲・以
  平・晴宗等一同これを申す。仍って出羽の前司長村の車大路の亭を定めらると。当御
  所より正方の南なり。
 

5月19日 壬寅 天晴
  御本所の事、長村の宿所聊かその煩い有るに依って、また陰陽道に問わるるの処、晴
  賢已下申して云く、亀谷の泉谷右兵衛の督教定朝臣の亭、当時の御所より北方なり。
  御本所に用いらるるの條宜しかるべしと。仍って治定すと。
 

5月22日 乙巳 雨降る
  辰の刻従五位下行右近将監平朝臣時兼卒す。
 

5月26日 己酉 晴
  今日右兵衛の督の泉谷亭を壊さる。御方違えの本所として、新造の儀有るべきに依っ
  てなり。奉行人佐渡の前司基綱・出羽の前司行義・清左衛門の尉満定・安東籐内左衛
  門の尉光成・陰陽師前の大膳の亮為親・以平等、彼の所に行き向かいこれを沙汰す。