1252年 (建長4年 壬子)
 
 

6月2日 甲寅 陰
  巳の刻御所事始めなり。前の佐渡の守基綱・前の出羽の守行義等これを奉行す。午の
  刻評定並びに五方引付を始行せらると。今日将軍家の御祈りとして、薬師護摩を修す
  べきの由仰せ下さると。
 

6月8日 庚申 [百錬抄]
  宣陽門院崩御す(去る月比より伏見に渡御す)。
 

6月10日 壬戌 天晴
  御所の築地以下の事、諸御家人に充て催せらると。
 

6月16日 戊辰 天霽
  将軍家聊か御悩。また炎旱日を渉るの間、御祈りとして赦を行わる。数十人に及ぶと。
 

6月17日 己巳 天晴
  大和の守従五位上藤原朝臣祐時卒す。
 

6月19日 辛未 天晴
  祈雨の事、鶴岡別当法印隆弁に仰せらる。清左衛門の尉満定その御教書を帯し、御使
  として彼の雪下の本坊に行き向かう。仍って領状を申す。申の刻に及び八幡宮東廊に
  於いて北斗法を始行す。晩天聊か陰ると。これ去る十日和泉の前司行方の奉行として
  仰せ下さるると雖も固辞す。昨日(十八日)相州御対面有り。親王家御下向の後、天
  下太平・関東静謐の処、旱魃の一事すでに人庶の愁歎たり。殊に祈請せらるべきの旨
  懇望せしめ給うと。今日六波羅の使者参着す。去る八日宣陽門院崩御すと。
 

6月20日 壬申 晴、夜に入り雨降る
  法験の至り比類無きの由沙汰有りと。
 

6月21日 癸酉 雨降る
  卯の刻小野寺四郎左衛門の尉通時使節として上洛す。女院御事に依ってなり。
 

6月23日 乙亥 半更より甚雨
  凡そ去る十九日若宮別当祈雨法を奉るの処、同二十日より昨日に至り、連日降雨の間、
  申の刻御馬・御劔を送らる。武藤左衛門の尉景頼御使たり。
 

6月25日 丁丑 天晴
  諸寺の仏供・灯油等、日を追って陵廃に及ぶの由、住持これを訴え申す。仍って今日
  その沙汰有り。御教書を下さると。その状に云く、
     諸堂寺用供米の事
   右、陵遅沙汰無きの間その訴え有り。就中大慈寺は、右大臣家の建立、他に異なる
   の間、御仏事を専らすべきの処、雑掌等疎略を存じ、緩怠を致すの儀、尤も以て不
   便なり。早く子細を尋ね明かし、申し沙汰せらるべきの状、仰せに依って執達件の
   如し。
     建長四年六月二十五日     相模の守
                    陸奥の守
     秋田城の介殿