7月4日 丙戌 天晴
午の刻秋田城の介義景の妻女子平産すと。堀内殿と号すものなり。今日、小侍所の式
條これを定めらると。
7月6日 戊子
去る月二十三日の甘雨以後、炎旱また数日に及ぶ。仍って祈雨の事、勝長壽院・永福
寺明王院等に仰せらる。行方・景頼これを奉行すと。
7月8日 庚寅 陰、小雨間灑ぐ
申の刻将軍家御方違えの為、右兵衛の督教定朝臣の泉谷の第(日来新造す)仮座に入
御す。
御出の行列
先ず御輿(御簾を上げらる)
御劔の役人(折烏帽子)
相模右近大夫将監時定 上野の十郎朝村 加藤の三郎景経
武藤の七郎兼頼 武田の五郎七郎政平 式部兵衛太郎光政
南部の又太郎時實 豊後三郎左衛門の尉忠時 土肥の四郎實綱
大泉の九郎長氏 海上の彌次郎胤景
以上直垂・折烏帽子を着し、帯劔せしめ、御輿の左右に列歩す。
次いで御後
宰相中将顕方卿 右兵衛の督教定朝臣(以上布衣、騎馬)
陸奥掃部の助實時 城の九郎泰盛(以上御輿寄せ、立烏帽子)
遠江の守時直 足利の太郎家氏 陸奥の彌四郎時茂
前の出羽の守長村 大蔵権の少輔朝廣 前の和泉の守行方
前の壱岐の守泰綱 前の参河の守頼氏 前の越中の守頼業
前の伊勢の守行綱 遠江六郎左衛門の尉時連
遠江次郎左衛門の尉障りを申すの間、その為別の仰せに
依って供奉す。
武藤左衛門の尉景頼 大曽彌左衛門の尉長泰
以上折烏帽子・直衣、騎馬
次いで女房輿 東の御方
一條の局 別当の局
以上これを舁き連ぬ。各々侍二人(直垂・立烏帽子)扈従す。
次いで雑仕等
7月9日 辛卯 天晴
巳の刻将軍家泉谷より還御す。供奉人昨日に同じ。今日新御所の門々上棟。また当時
の御所(相州御亭)南面の平門を壊し、始めて門を新造せらる。これ相州御沙汰なり。
7月10日 壬辰 天晴、初夜より甚雨沃すが如し
近国旱魃の間、青苗悉く黄ばみ枯れ、民庶これを愁へざると云うこと莫し。仍って今
日秋田城の介の奉行として、重ねて丹祈を抽んずべきの旨、鶴岡別当法印隆弁に仰せ
らる。即ち領状を申し、当宮八幡宝前に於いて諸神供を修す。管絃等有り。また瑞籬
の内に於いて、手づから最勝王経を講せらる。その後程無く降雨すと。
7月14日 丙申
来月の放生会御参宮の供奉人の散状廻らすの処、悉く以て進奉有り。但し大蔵少輔朝
廣・阿波の前司朝村両人ばかり障りを申すと。また御拝賀供奉人の事、同じく以てこ
れを相催せらる。来八月御拝賀有るべし。各々法の如く卯の刻以前参勤せらるべきの
状、仰せに依って廻らす所件の如してえり。散状の奥に載せらるる所なり。
7月20日 壬寅
また御方違え有り。騎馬の供奉人は先度の儀に違うこと無し。歩行衆の中、上野七郎
左衛門の尉・出羽三郎左衛門の尉等障りを申す。越中四郎左衛門の尉始めは進奉し、
後また障りを申すの間、出御に臨むの時、加藤の三郎を召し具せらると。
7月21日 癸卯 天晴
御所の礎等を居ゆ。
7月23日 乙巳 天霽、夜に入り雨降る
寅の刻大地震。今日将軍家御方違え前の如し。
供奉人
御劔役 遠江の六郎教時
歩行
遠江の十郎頼連 土屋の新三郎光時 大曽彌の太郎長経
小野寺新左衛門の尉行通 武藤次郎兵衛の尉頼泰 進士三郎左衛門の尉宗長
鎌田の三郎義長 加藤の三郎景経
以上御駕の左右
次いで御後(騎馬)
武蔵の前司朝直 備前の前司時長 陸奥掃部の助實時
出羽の前司行義 壱岐の守基政 和泉の前司行方
伊賀の前司時家 筑前の前司行泰 能登右近蔵人仲時
隠岐判官泰清 小山五郎左衛門の尉時長 遠江次郎左衛門の尉光盛
和泉五郎左衛門の尉政泰 城の次郎頼景 阿曽沼の小次郎光綱
豊後四郎左衛門の尉忠綱 武藤左衛門の尉景頼 東中務少輔胤重
7月24日 丙午 雨降る
早旦奥州御方違えの御所に参らしめ給う。その外人々群参す。巳の刻晴に属く。則ち
還御の儀有り。
7月28日 庚戌
相州北斗供を修せらる。これ室家懐妊の御祈りなり。