1252年 (建長4年 壬子)
 
 

8月1日 癸丑 天晴
  親王家征夷大将軍に任ぜしめ御うの間、鶴岡八幡宮に御拝賀有るべきの由、これを定
  めらるると雖も、儀有りて停めらるる所なり。但し供奉人の散状に於いては御所に召
  し置かると。陸奥掃部の助これを披覧すと。
  御拝賀供奉人(次第不同)
  布衣
   陸奥の守        相模の守
  御劔
   前の右馬権の頭     尾張の前司時章     武蔵の守朝直
   相模右近大夫将監時定  陸奥掃部の助實時    備前の前司時長
   陸奥の彌四郎時茂    武蔵の太郎朝房     遠江の太郎清時
   那波左近大夫政茂    参河の前司頼氏     佐渡の前司基綱
   小山出羽の前司長村   大蔵権の少輔朝廣    秋田城の介義景
   出羽の前司行義     和泉の前司行方     能登右近大夫仲時
   伊賀の前司時家     大隅の前司忠時     伊勢の前司行綱
   佐々木壱岐の前司泰綱  遠江次郎左衛門の尉光盛 城の次郎頼景
   梶原右衛門の尉景俊   出羽次郎左衛門の尉行有 豊後四郎左衛門の尉忠綱
   大曽彌左衛門の尉長泰  信濃四郎左衛門の尉行忠 武藤左衛門の尉景頼
   和泉五郎左衛門の尉政泰 足立三郎左衛門の尉元氏 常陸次郎兵衛の尉行雄
   狩野五郎左衛門の尉為廣 肥後次郎左衛門の尉為時
  随兵
   尾張の次郎公時     北條の六郎時定     足利の太郎家氏
   相模の八郎時隆     三浦の介盛時      城の九郎泰盛
   長井の太郎時秀     下野の七郎経綱     上野五郎兵衛の尉重光
   大曽彌次郎左衛門の尉盛経 阿波四郎兵衛の尉政氏 阿曽沼の小次郎光綱
   佐竹常陸の次郎長義   武田の三郎政綱     南部の次郎實光
   和泉次郎左衛門の尉行章 大須賀次郎左衛門の尉胤氏 武石の四郎胤氏
   越中四郎左衛門の尉時業 伊豆太郎左衛門の尉實保
  直垂着
   上野彌四郎左衛門の尉  同十郎         益戸三郎左衛門の尉
   城の三郎        出羽の三郎       壱岐新左衛門の尉
   佐々木四郎左衛門の尉  相馬次郎左衛門の尉   武藤次郎兵衛の尉
   平賀の新三郎      宇佐美五郎右衛門の尉  伊東の三郎
   渋谷左衛門の尉     色部左衛門の尉     小早河美作次郎兵衛の尉
   加藤の三郎       伊達の次郎       大須賀左衛門太郎
   鎌田次郎兵衛の尉    大泉の九郎
 

8月2日 甲寅 天晴、風静まる
  巳の刻新御所の立柱・上棟なり。奥州並びに評定衆・御家人等出仕済々焉たり。晩頭
  に及び大工已下の匠等禄物を給う。
 

8月4日 丙辰 天晴
  将軍家聊か御悩。医師忠茂朝臣・廣長・長世等参候し、御療治の事評議に及ぶと。
 

8月5日 丁巳 天晴
  将軍家御悩。御祈祷の事仰せ下さると。
 

8月6日 戊午 天晴
  今日また御方違え有るべきに依って、供奉の人々参進す。
            (御劔の役歩儀たるべし)
   式部大夫時弘      北條の六郎時定      尾張の次郎公時
   遠江の太郎清時     大隅の前司忠時      和泉の前司行方
   近江大夫判官氏信    大曽彌次郎左衛門の尉盛経 彌次郎左衛門の尉親盛
   武藤左衛門の尉景頼   出羽次郎左衛門の尉行有  隠岐三郎左衛門の尉行氏
   狩野五郎左衛門の尉為廣 伊豆太郎左衛門の尉實保  小野寺四郎左衛門の尉道時
   押垂左衛門の尉基時   信濃四郎左衛門の尉行忠  常陸兵衛の尉行雄
   足立三郎左衛門の尉元氏
    以上騎馬たるべし
   武藤次郎兵衛の尉頼泰  同七郎兼頼        平賀の新三郎惟時
   加藤の三郎景経     伊達の次郎        足立の三郎
    以上歩行たるべし
  御出有らんと欲するの処、御悩の間延引す。仍って御祈祷を行わる。泰山府君は晴茂、
  鬼気は為親、霊所七瀬は晴賢・文元・晴長・晴秀・以平・国高・重氏、土公は晴秀等
  と。凡そこの御不予の事、去る月上旬の比より時々発らしめ給う。今に於いては御膳
  を聞こし食されず。衆人驚騒し、歎息の外他事無し。仍って今日御祈祷・療治の事、
  御所に於いて評議に及ぶ。奥州・相州・前の右馬権の頭政村・前の武蔵の守朝直・前
  の尾張の守時章・前の出羽の守行義・秋田城の介義景等参候す。前の和泉の守行方・
  武藤左衛門の尉景頼これを奉行す。清左衛門の尉満定を以て使節と為し、鶴岡別当法
  印隆弁を廂御所に召し入る。城の介群議の趣を法印に伝えて云く、この君は仙洞御鍾
  愛の一宮なり。関東諸人の懇望等閑ならざるの間、三位中将殿の御替わりとして御下
  向す。武家の眉目に非ざらんや。而るに御悩日を渉るの間、顕密の御祈りその数を尽
  くさるると雖も、祈療術を失い、旬日空しく遷る。諸壇の御祈りに於いては、今朝皆
  結願せらるる所なり。御入営の始め、貴禅無為の御祈祷を致さる。今度は安全の事、
  同じく一身の懇丹を凝らさるべきの旨議定しをはんぬてえり。法印領状を申すと。
 

8月7日 己未 天晴
  法印隆弁御所中に於いて、初夜より御不予安寧の御祈り千手法・腹病を療す信読大般
  若経を始行すと。
 

8月10日 壬戌 天晴
  将軍家の御悩聊か御減、御粥を聞こし食さると。
 

8月13日 乙丑 天晴
  将軍家の御温気退散す。御膳を聞こし食さるるの間、諸人安堵の思いを成すと。
 

8月14日 丙寅
  放生会御参宮の供奉人の散状これを披覧す。御悩有りと雖もこれを召し出され、御点
  を下さると。
  (十五日御劔役たるべし)(十六日同役たるべし)
   前の右馬権の頭     武蔵の守朝直      遠江の守時直
   備前の前司時長     相模右近大夫将監時定  相模式部大夫時弘
   北條の六郎時定     駿河の四郎兼時     安藝の前司親光
   那波左近大夫政茂    能登右近大夫仲時    小山出羽の前司長村
   和泉の前司行方     大蔵権の少輔朝廣    参河の前司頼氏
   阿波の前司朝村     伊賀の前司時家     長門の守時朝
   伊勢の前司行綱     越中の前司頼業     遠江次郎左衛門の尉光盛
   同六郎左衛門の尉時連  梶原右衛門の尉景俊   大曽彌左衛門の尉長泰
   豊後左衛門の尉忠時   武藤左衛門の尉景頼   出羽次郎左衛門の尉行有
   足立三郎左衛門の尉元氏 土肥左衛門の尉惟時   佐渡五郎左衛門の尉基隆
   伯耆四郎左衛門の尉光清 肥後次郎左衛門の尉為時 信濃四郎左衛門の尉行忠
   狩野五郎左衛門の尉為廣 小野寺四郎左衛門の尉道時 和泉五郎左衛門の尉政泰
   彌善太左衛門の尉康義  肥後三郎左衛門の尉景氏 押垂左衛門の尉基時
   常陸次郎兵衛の尉行雄  長内左衛門の尉     長三郎左衛門の尉朝連
   長次郎左衛門の尉義連  壱岐新左衛門の尉基頼  大泉次郎兵衛の尉氏村
   陸奥掃部の助實時
 

8月15日 丁卯
  鶴岡八幡宮の放生会なり。将軍家御悩に依って御参宮無し。前の右馬権の頭政村奉幣
  の御使たり。
 

8月16日 戊辰
  同馬場の儀例の如し。
 

8月17日 己巳 晴
  将軍家の御悩猶以て不快の間、御祈祷の事懇祈を専らせらるべきの由、諸寺・諸社に
  仰せらる。また神馬を二所・三嶋社等に奉らるる事、鶴岡に於いて仁王会を行わるべ
  き事、御立願有りと。今日彼岸の第七日に当たり、深澤里の金銅八丈の釈迦如来像を
  鋳始め奉る。
 

8月21日 癸酉 晴
  奥州・前の典厩・武州・秋田城の介義景・出羽の前司行義已下数輩御所に参る。御悩
  に依って御方違え遅々するの間、御移徙延引すべき事沙汰を経らる。前の大膳の亮為
  親、御移徙は十一月十一日たるべきの由勘文を進す。また十二月四日・十六日吉日な
  り。但し皆以て次日なり。然れども遷幸以下、多く例を存し宥め用いらるるの條、何
  事か有らんやの旨これを申す。重ねて沙汰有り。十一月十一日上吉たり。彼の日を用
  いらるべし。その間何ぞ造畢せられざらんやの由、各々定め申さると。秋田城の介こ
  れを奉行す。
 

8月22日 甲戌 天晴
  法印隆弁御祈祷道場に於いて一寝するの間、霊夢を感得するの由、相州御所に言上せ
  らると。小童二人(各々唐装束を着し、その形師子の如し)面赤く衣青し。御所南面
  の唐墻より退くと。将軍家また御夢想有りと。童二人御所を追い奉る。而るに件の両
  童転経の声を聞き、忽ち逃げ去るの由と。
 

8月23日 乙亥 晴
  御悩の事に依って、四角四堺の鬼気祭を行わる。晴賢・晴茂・為親等の朝臣、晴秀・
  以平・晴尚・晴盛・廣氏等これを奉仕す。今日御平減と。
 

8月24日 丙子 天晴
  御悩の事温気悉く散ず。御心神復本、太だ快然と。
 

8月25日 丁丑 霽
  御祈りの為御劔・御馬を二所・三嶋社に奉らるるの上、件の三所に於いて大般若経を
  転読し奉る。また御神楽有るべきの由これを仰せ下さる。武藤左衛門の尉景頼御使と
  して進発す。
 

8月26日 戊寅 晴
  前の備前の守従五位下平朝臣時長卒去す。
 

8月27日 己卯 晴
  寅の刻三万六千神祭を行わる。前の大膳の亮為親朝臣これを奉仕す。御使は安藝左近
  蔵人。御悩御祈祷なり。