1252年 (建長4年 壬子)
 
 

9月1日 壬午 晴
  将軍家御悩御平愈の後、御手足を洗わしめ給う。
 

9月2日 癸未 天晴
  御不予平愈の事京都に申せらる。三浦遠江六郎左衛門の尉時連御使として上洛すと。
 

9月4日 乙酉 天晴
  千手法・信読大般若経等結願すと。
 

9月7日 戊子 陰
  午の刻御悩御平減の後、御沐浴の儀有り。而るに今日は没日なり。凡そ日次無きの由、
  陰陽道頻りに傾け申すと雖も、去る一日御手足を洗わしめ給うの間、その憚り有るべ
  からざるの旨、医家忠茂朝臣これを計り申す。若宮別当法印加持の為参候せらる。事
  訖わり退出すと。その後評定有り。御祈祷の賞を行わる。法印隆弁美濃の国岩瀧郷を
  拝領す。この上僧正に補せらるべしと。御教書に云く、
   今度御悩の事、御祈修中に当たり御平愈の條、法験厳重の由、殊に感じ思し食さる
   る所なり。仍って一村を進せらる。最も御自愛有るべきものなり。
 

9月16日 丁酉 天晴
  相州室家俄に病脳。仍って祈祷を修せらると。
 

9月17日 戊戌 天晴
  将軍家彼の不例の事を訪わしめ御う。薩摩七郎左衛門の尉御使たり。
 

9月18日 己亥 天晴
  相州室不例の事平減すと。
 

9月25日 丙午 天霽
  先日の御立願に依って、鶴岡宮に於いて仁王会を行わる。申の刻将軍家御方違え。右
  武衛泉谷の第に入御す。
  供奉人
  騎馬
   相模右近大夫将監時定  相模式部大夫時弘    同八郎時隆
   大蔵少輔朝廣      備後の前司康持     大隅の前司忠時
   伊勢の前司行綱     城の九郎泰盛      彌次郎左衛門の尉親盛
   隠岐三郎左衛門の尉行氏 足立三郎左衛門の尉道氏 武藤左衛門の尉景頼
   小野寺左衛門の尉通時  狩野五郎左衛門の尉為廣
  歩行
  御劔役人 北條の六郎時定
  次いで
   城の四郎時盛      南部の又次郎時實    和泉次郎左衛門の尉行章
   渋谷左衛門の尉武重   武藤次郎兵衛の尉頼景  土肥左衛門四郎實綱
   加藤の三郎景経     東中務少輔胤重
 

9月29日 庚戌 天霽
  下妻修理の亮藤原朝臣長政卒す。
 

9月30日 辛亥 天晴
  鎌倉中所々沽酒を禁制すべきの由、保の奉行人等に仰す。仍って鎌倉中所々の民家に
  於いて注す所の酒壺三万七千二百七十四口と。また諸国市の酒全分停止すべきの由と。