1252年 (建長4年 壬子)
 
 

11月3日 癸未 天晴
  去る月二十三日の僧事の除書到来す。法印隆弁権僧正に補す。三品親王御祈りの賞の
  由尻付け有りと。
 

11月4日 甲申 天晴
  奥州・相州(已上布衣)政所に参らしめ給う。評定衆等参上せず。三献並びに御劔・
  御馬例の如し。これ新造せらるるに依ってなり。
 

11月9日 己丑
  新造御所に於いて鎮宅法を行わる。鶴岡別当新僧正隆弁これを奉仕す。
 

11月10日 庚寅 天晴
  新御所の持仏堂に御本尊釈迦像を安置せらる。
 

11月11日 辛卯 天顔快晴
  申の刻将軍家新御所の御移徙なり。時刻に御車(庇)を寝殿(相州御亭)南面妻戸の
  間に寄す。宰相中将(顕方卿、直衣)御簾所に候せらる。大膳の亮為親朝臣(束帯)
  日時勘文を持参す。御覧の後、車寄戸の内に参入し反閇を勤む。則ち御衣を給う。長
  井蔵人これを役す。その後出御す(御烏帽子・直衣)。
  供奉人
  前駈(衣冠)
   前の宮内大輔光度    駿河新大夫俊定     左近大夫将監政茂
   長井蔵人        能登右近蔵人仲時    安藝右近蔵人重親
  次いで殿上人(衣冠)
   花山院中将長雅朝臣   伊豫中将公直朝臣    右兵衛の督教定朝臣(束帯)
   尾張少輔清基朝臣    一條少将能清朝臣    阿野少将公仲朝臣
  御車
   城の四郎時盛      出羽の七郎行頼     和泉次郎左衛門の尉行章
   筑前の三郎行實     加藤の三郎景経     武藤次郎兵衛の尉頼泰
   遠江の十郎頼連     佐々木彌四郎左衛門の尉泰信
   渋谷の左衛門の尉武重  肥後四郎兵衛の尉行定  平賀の新三郎惟時
   鎌田兵衛三郎義長    大泉の九郎長氏     大曽彌左衛門太郎長頼
   海上の彌次郎胤景    土肥左衛門四郎實綱   武田の七郎政平
    (已上直垂を着し帯劔、御車の左右に候す)
  次いで御劔役 前の右馬権の頭
  次いで公卿  土御門宰相中将顕方卿
  次いで
   尾張の前司時章     同次郎公時       掃部の助實時
   遠江の六郎教時     足利の太郎家氏     同三郎利氏
   陸奥の彌四郎時茂    越後の五郎時家     遠江の太郎清時
   上総の三郎満氏     宇都宮下野の前司泰綱  秋田城の介義景
   同九郎泰盛       結城前の大蔵少輔朝廣  前の太宰の少貳為佐
   安藝の前司親光     新田参河の前司頼氏   佐々木壱岐の前司泰綱
   越中の前司頼業     嶋津大隅の前司忠時   後藤壱岐の守基政
   伊賀の前司時家     備後の前司康持     伊勢の前司行綱
   武藤左衛門の尉景頼   大曽彌左衛門の尉長泰  彌次郎左衛門の尉親盛
   梶原左衛門の尉景俊   和泉五郎左衛門の尉政泰 大曽彌次郎左衛門の尉盛経
   隠岐三郎左衛門の尉行氏 出羽次郎左衛門の尉行有 上野五郎兵衛の尉重光
   常陸次郎兵衛の尉行雄  小野寺四郎左衛門の尉道時 狩野五郎左衛門の尉為廣
   筑前次郎左衛門の尉行頼 大須賀次郎左衛門の尉胤氏 小田左衛門の尉時弘
   式部兵衛太郎元政    薩摩七郎左衛門の尉祐能 善右衛門の尉康長
   伯耆左衛門三郎清経   長雅楽左衛門の尉
    已上布衣下括り
  南門外に到り御駕を税く。為親朝臣この所に参会し、また反閇に候す。階の間より下
  り御う。為親禄を給う。役人同前。また黄牛を牽かる。和泉五郎左衛門の尉政泰これ
  を役す。奥州・相州(布衣)予め参候せらる。佐々木大夫判官氏信(布衣)・佐々木
  隠岐判官泰清(白襖)南門内東西の脇に候す。次いで人々庭上に着座す。その後将軍
  家出御す。土御門宰相中将御簾を上げらる。小時して相州座を起ち、御前の簀子に参
  り給う。伊勢の前司行綱堂下に立ち吉書を捧進す。相州これを取り御前に置かる。御
  覧の後行綱に返し下し、退下せしめ給う。次いで黄昏に及び評議始めを行わる。
 

11月12日 壬辰 天晴陰
  申の一刻始めて御馬を御覧ず。薩摩七郎左衛門の尉祐能奉行たり。鞠の御壺に引き立
  てしむ。また御簡衆を定めらる。小侍所に於いては未だ造畢せられざるの間、御厩侍
  に着到すべし。着到は二通たるべし。一通は、毎夜常御所の簀子に於いて読み申すの
  後、御前に進献すべし。一通は、相州の御方に進すべしと。また問見参の結番、同じ
  く定め下さる。掃部の助實時これを奉行す。
   定め
     問見参結番の事
   一番 卯酉
    梶原右衛門の尉 中山左衛門の尉   彌次郎左衛門の尉
   二番 辰戌
    城の次郎    肥後次郎左衛門の尉 信濃四郎左衛門の尉 渋谷左衛門の尉
   三番 巳亥
    和泉五郎左衛門の尉 武田の五郎次郎 小山の七郎
   四番 子午
    大曽彌次郎左衛門の尉 押垂蔵人   遠藤左衛門の尉
   五番 丑未
    後藤壱岐の守  同五郎左衛門の尉  式部兵衛太郎    平岡左衛門の尉
   六番 寅申
    伊賀次郎左衛門の尉 薩摩七郎左衛門の尉 武藤の七郎
 

11月13日 癸巳 天霽
  御家人等奉公の事、毎日これを勘じ、同じくその勤否に就いて、賞罰の沙汰有るべき
  の由仰せ下さると。
 

11月14日 甲午 天晴
  新御所の湯殿始めなり。相州出仕せしめ給う。医道は忠茂朝臣、陰陽師は為親朝臣な
  り。和泉の前司行方今日の奉行たり。
 

11月17日 丁酉 天晴
  前の大膳の亮為親御祈り始めの事を奉仕す。御霊社前の海辺に於いて七瀬祓いを勤行
  す。伊勢の前司行綱雑事を沙汰す。周防修理の亮御使としてその所に向かう。
 

11月18日 戊戌 雷鳴一声
  来二十一日新造御所に於いて御的始め有るべきに依って、今日その射手を催せらる。
  陸奥掃部の助實時これを奉行す。
   武田の五郎七郎  眞板の五郎次郎   早河の次郎太郎  佐々木左衛門四郎
   桑原の平内    山城三郎左衛門の尉 土肥左衛門四郎  工藤右近三郎
   二宮の彌次郎   佐貫の彌四郎    同七郎      藤澤の小四郎
   薩摩の十郎    平井の八郎     布施の三郎
   右、来二十一日御弓場始め有るべし。各々射手として参勤せらるべきの状、仰せに
   依って廻らす所件の如し。
 

11月20日 庚子 天晴
  将軍家新造御所御移徙の後、始めて奥州の亭に入御す。相州予め彼の所に候せしめ給
  うと。
  供奉人(布衣)
  御劔役
   前の右馬権の頭     尾張の前司時章     陸奥掃部の助實時
   相模式部大夫時弘    遠江の六郎教時     武蔵の四郎時仲
   遠江の太郎清時     足利の太郎家氏     同次郎兼氏
   秋田城の介義景     下野の前司泰綱     前の太宰の小貳為佐
   安藝の前司親光     参河の前司頼氏     和泉の前司行方
   前の大蔵権の少輔朝廣  壱岐の前司泰綱     大隅の前司忠時
   壱岐の守基政      伊賀の前司時家     越中の前司頼業
   伊勢の前司行綱     備後の前司康持     城の次郎頼景
   大曽彌左衛門の尉長泰  梶原左衛門の尉景俊   出羽次郎左衛門の尉行有
   筑前次郎左衛門の尉行頼 小野寺四郎左衛門の尉道時 大曽彌次郎左衛門の尉盛経
   豊後左衛門の尉忠時   相馬孫五郎左衛門の尉胤村 大須賀次郎左衛門の尉胤氏
   武藤左衛門の尉景頼   和泉五郎左衛門の尉政泰 小田左衛門の尉時知
   善左衛門の尉康長    長内左衛門の尉     長次郎右衛門の尉義連
   常陸次郎兵衛の尉行雄  狩野五郎左衛門の尉為廣 大泉次郎兵衛の尉氏村
   武石の四郎胤氏     伯耆左衛門三郎清経
 

11月21日 辛丑
  新造御所の弓場に於いて御的始め有り。両国司以下の出仕昨日の如し。射手十人、各
  々水干・葛袴・浅沓を着し、弓場の左右に相分かれ着座す。将軍家出御の後、和泉の
  前司行方射手を召す。二五度これを射る。事終わり退出すと。
   一番 武田の五郎七郎源政平    早河の次郎太郎藤原祐泰
   二番 眞板の五郎次郎大中臣経朝  薩摩の十郎藤原祐廣
   三番 平井の八郎源清頼      佐貫の彌四郎藤原廣信
   四番 山城三郎左衛門の尉源忠氏  桑原の平内平盛時
   五番 布施の三郎藤原行忠     佐貫の七郎藤原廣胤
 

11月22日 壬寅 天霽
  御所御持仏堂の供養。導師は左大臣法印厳慧。
 

11月23日 癸卯 天晴
  貢馬御覧。則ち浜稲名瀬河の辺に出門すと。