1253年 (建長5年 癸丑)
 
 

1月1日 庚辰 天霽
  椀飯(相州御沙汰)。奥州・相州以下人々(布衣)多く以て出仕す。時刻に将軍家南
  面に出御す。土御門宰相中将(顕方卿)御簾を上ぐ。進物の役人、御劔は前の右馬頭
  政村、御弓矢は武蔵の守朝直、御行騰は秋田城の介義景。
   一の御馬 遠江の六郎教時      同七郎時基
   二の御馬 遠江次郎左衛門の尉光盛  同十郎頼連
   三の御馬 薩摩七郎左衛門の尉祐能  同十郎祐廣
   四の御馬 大曽彌太郎左衛門の尉長泰 同次郎左衛門の尉盛経
   五の御馬 北條の六郎時定      工藤次郎左衛門の尉頼光
 

1月2日 辛巳 天晴
  椀飯(入道左馬の頭義氏朝臣沙汰)。宰相中将御簾を上ぐ。御劔は武蔵の守朝直、御
  弓箭は陸奥掃部の助實時、御行騰は和泉の前司行方。
   一の御馬 上野の三郎国氏      刑部次郎左衛門の尉国俊
   二の御馬 筑前次郎左衛門の尉行頼  伊勢の次郎行経
   三の御馬 平新左衛門の尉盛時    同四郎兵衛の尉
   四の御馬 足利の太郎家氏      同次郎兼氏
   五の御馬 三村新左衛門の尉時親   同三郎兵衛の尉親泰
  明日相州の御亭に御行始め有るべきに依って、今夕供奉人を催せらる。これ元日着庭
  の衆を以て撰ばるる所なり。小侍所司平岡左衛門の尉實俊、朝夕雑色等をしてその散
  状を廻らしむ。
 

1月3日 壬午 細雨下る
  椀飯(奥州御沙汰)。相公羽林御簾を上ぐ。御劔は前の右馬権の頭政村、御調度は尾
  張の守時章、御行騰は下野の前司泰綱。
   一の御馬 遠江の六郎教時      同七郎時基
   二の御馬 武蔵の四郎時仲      同五郎時忠
   三の御馬 遠江の太郎清時      同次郎時通
   四の御馬 城の九郎泰時       同四郎時盛
   五の御馬 陸奥の彌四郎時茂     同七郎業時
  椀飯の後、将軍家御行始めなり。南門(御車、御烏帽子・直衣)より出御す。供奉人
  (布衣)。
  御劔役
   前の右馬権の頭     尾張の前司時章     武蔵の守時直
   相模式部大夫時弘    陸奥掃部の助實時    越後右馬の助時親
   足利の太郎家氏     佐渡の前司基綱     出羽の前司行義
   秋田城の介義景     前の大蔵権の少輔朝廣  前の太宰の小貳為佐
   伊豆の前司頼定     遠山大蔵少輔景朝    和泉の前司行方
   大隅の前司忠時     参河の前司頼氏     安藝の前司親光
   日向右馬の助親家    薩摩の前司祐長     伊賀の前司時家
   伊勢の前司行綱     壱岐の守基政      三浦の介盛時
   彌次郎左衛門の尉親盛  梶原右衛門の尉景俊   大曽彌左衛門の尉長泰
   豊後四郎左衛門の尉忠綱
  昨日散状に入らずと雖も今朝これを進加す。
   武藤左衛門の尉景頼   壱岐三郎左衛門の尉行氏 和泉五郎左衛門の尉政泰
   小野寺四郎左衛門の尉通時 大須賀左衛門の尉胤氏 阿曽沼の小次郎光綱
   筑前次郎左衛門の尉行頼 常陸次郎兵衛の尉行雄  佐々木孫四郎左衛門の尉泰信
   加藤左衛門の尉景経   善五郎左衛門の尉康家  狩野五郎左衛門の尉為廣
   式部兵衛太郎光政    長次左衛門の尉義連   伯耆左衛門三郎清経
   鎌田兵衛三郎義長
  小町大路を経て相州の南門に入御す。奥州(布衣、下括り)等予め庭上に着せらる。
  土御門宰相中将(顕方卿)御車に寄す。寝殿妻戸の出居に於いて、予め菓子(八合・
  十二合)・瓶子・鯉(爼木に置き、刀箸を副ゆ)を置かる。また色革・羽等を積む。
  盃酒数巡の後御遊有り。次いで寝殿東向きに出御す。御簾を上げられ(役人前の如し)
  三献を供う。両国司並びに前の右典厩等陪膳に候せらる。次いで御引出物を進す。
  役人
   御劔 足利の太郎家氏  砂金 相模の八郎時隆  羽 伊勢の前司行綱
   一の御馬 陸奥の四郎時茂   同七郎業時
   二の御馬 尾張の次郎公時   諏方三郎左衛門の尉盛経
   三の御馬 城の九郎泰盛    同四郎時盛
  次いで相公羽林御簾を垂れ給う。御劔は役人に授け奉らる。則ち御車を寄せ還御す。
  路次松明を取る。

[百錬抄]
  主上御元服の儀なり(御年十一)。加冠は摂政太政大臣、理御鬢は左大臣、理髪は内
  蔵の頭資平朝臣。
 

1月8日 丁亥 晴
  恒例の心経会を行わる。奥州・相州西侍に着座せらる。将軍家(御直衣)二棟の御所
  に出御す。
 

1月9日 戊子
  前浜に於いて御的の射手を撰ばる。参向せしむと雖も、多く以て障りを申すの輩有り。
   武田の五郎七郎(弓場に参ると雖も、灸治を加うの由申す)
   二宮の彌次郎(難治の故障有りと)
   桑原の平内(弓場に参ると雖も、所労の後幾日数を歴ざるの間、難治の由申す)
   右近三郎(子細同前)     薩摩の十郎(所労の由申す)
   佐々宇左衛門三郎(在国)   横溝の七郎五郎(在国)
   平井の八郎(在国。但し今朝の間参るべきの由申す)
  残る所の人数を以てその儀有り。一五度これを射る。
   早河の次郎太郎  山城次郎左衛門の尉  佐々宇左衛門五郎
   海野の矢四郎   佐貫の彌四郎     眞板の五郎次郎
   佐貫の七郎    周枳兵衛四郎     多賀谷の彌五郎
  これを射訖わり、散状を撰び定む。奥書の様、
   右明後日十一日、御弓場始め有るべし。卯の刻以前参勤を致すべきの状、仰せに依
   って廻らす所件の如し。
     建長五年正月九日
 

1月11日 庚寅 雪降る、積もること四寸
  今日評定始めを行わる。その衆皆参る。
 

1月14日 癸巳
  御的始め有り。将軍家簾中に於いて御覧有り。射手十人、二五度これを射る。
   一番 平井の八郎     早河の次郎太郎
   二番 佐貫の彌四郎    眞板の五郎次郎
   三番 佐々宇左衛門五郎  海野の矢四郎
   四番 佐貫の七郎     須枳兵衛四郎
   五番 多賀谷の彌五郎   山城三郎左衛門の尉
 

1月16日 乙未
  来二十一日鶴岡八幡宮に御参有るべきに依って、供奉人を催促せらる。而るに太宰の
・ 小貳為佐・筑前の前司行泰は障りを申すと。御禊ぎ有り。これを奉行す。陪膳たり。
  能登右近大夫仲時役送に候すと。西門より若宮大路に出御す。
  行列
  御車
   三浦遠江の十郎頼連   伊賀式部兵衛太郎光政  梶原右衛門太郎景綱
   小野寺新左衛門の尉行通 海上の彌次郎胤景    大須賀左衛門次郎胤氏
   伊賀の四郎景家     武藤の七郎兼頼     土屋の新三郎光時
   大泉の九郎長氏     内藤肥後三郎左衛門の尉
  御劔役人(布衣)
   武蔵の守朝直      武藤左衛門の尉景頼
  御後(布衣)
   尾張の前司時章     遠江の前司時直     相模左近大夫将監時定
   相模式部大夫時弘    越後右馬の助時親    北條の六郎時定
   遠江の六郎教時     陸奥の彌四郎時茂    尾張の次郎公時
   越後の五郎時家     武蔵の太郎朝房     遠江の太郎清時
   足利の太郎家氏     伊豆の前司頼定     小山出羽の前司長村
   後藤佐渡の前司基綱   秋田城の介義景     宇都宮下野の前司泰綱
   和泉の前司行方     新田参河の前司頼氏   結城前の大蔵権の少輔朝廣
   後藤壱岐の守基政    能登右近大夫仲時    安藝の前司親光
   佐々木壱岐の前司泰綱  日向右馬の助親家    嶋津大隅の前司忠時
   伊勢の前司行綱     備後の前司廣持     小田伊賀の前司時家
   薩摩の前司祐長     城の九郎泰盛      三浦の介盛時
   三浦遠江次郎左衛門の尉光盛 梶原右衛門の尉景俊 出羽次郎左衛門の尉行有
   上野五郎兵衛の尉重光  豊後四郎左衛門の尉忠綱 伊賀次郎左衛門の尉光房
   大曽彌左衛門の尉長泰  隠岐三郎左衛門の尉行氏 大須賀左衛門の尉胤氏
   筑前次郎左衛門の尉行頼 和泉五郎左衛門の尉政泰 同六郎左衛門の尉景村
   伊豆太郎左衛門の尉實保 小野寺左衛門の尉時通  伯耆四郎左衛門の尉光清
   彌次郎左衛門の尉親盛  出羽籐次郎左衛門の尉頼平 足立太郎左衛門の尉直元
   押垂左衛門の尉基清   善右衛門の尉康長    紀伊次郎左衛門の尉為経
   薩摩七郎左衛門の尉祐能 渋谷左衛門の尉武重   加地七郎左衛門の尉氏綱
   常陸次郎兵衛の尉行雄  伯耆左衛門三郎清経
  以上供奉人の事、御点の交名に就いて催促を加うに依って参上するの処、佐々木壱岐
  の前司・足立左衛門の尉は推参す。而るに掃部の助實時小侍別当としてこれを知らず。
  供奉の路次に於いて、各々別の仰せを承り参らしめ給うかの由尋ね問うの処、分明の
  返答無しと。
 

1月26日 乙巳 晴
  将軍家二所の御精進始めなり。
 

1月28日 丁未 霽
  戌の刻相州室家男子を平産せしめ給う。加持は若宮別当僧正(隆弁)、験者は清尊僧
  都と。僧正参会す。清尊並びに医陰両道等は皆産以後馳参す。然れども各々禄物有り。
  御劔・衣・御馬なり。また奥州別禄等を施せらる。籐次左衛門の尉泰経御使たりと。
  彼の御産事蝕穢に依って、二所の御精進延引すべきの由定めらると。