1253年 (建長5年 癸丑)
 
 

2月3日 辛亥 晴、子の刻大風甚雨、雷電両三声
  今日相州新誕の若公名字の事、若宮の僧正これを定め申す。福寿と。
 

2月25日 癸酉 霽、午の刻大地震(地神動く)
  先日評定の間御不審の事有り。法家に問われて云く、小童部二人諍論を致し打ち合わ
  しむの処、十二三歳の童部一方の方人として、保恵打ち以下の刃傷候なり。罪科有る
  べきや否やの事(保恵打ちは、大包丁・刀の如き物なり)、件の刃傷人咎に定めらる
  れば、諍論根本の童部は同罪たるべきや否やの事、式條の趣注し給うべく候。此の如
  き事、関東定め置かるる事候はぬなり。式目の外は法意ヲ守りて、また時儀によりて
  御計候なりてえり。今日彼の御返事評定の砌に披覧すと。法意に十六以下は贖を収む
  と。彼の刃傷の童は十二三歳と。科料に処せらるべし。その身を収せらるべからざる
  か。根本闘諍の童は、所犯の軽重に随い、同じく贖銅に処せらるべきか。同罪勿論て
  えり。
 

2月30日 戊寅 晴
  鶴岡林頭の桜花盛んなり。酉の刻将軍家彼の花を覧んが為、俄に以て出御す(御烏帽
  子・直衣、御車)。土御門宰相中将・花山院中将・相州・掃部の助實時・右馬の助親
  家等供奉す。前の右典厩・城の九郎泰盛等追って参加す。