1255年 (建長7年 乙卯)
 
 

(吾妻鏡原闕)
 

2月10日 丁丑 [百錬抄]
  但馬宮(雅成親王。後鳥羽院皇子)配所(但馬の国)に於いて入滅せしめ給う。

2月21日 戊子 [百錬抄]
  大宮院去年閏五月御産御祈りに依って、院の御随身等八幡・賀茂上下社・北野社に於
  いて、五番競馬有るべき立願す。仍って今日賀茂上下に於いてこれ在り。

2月24日 辛卯 [百錬抄]
  院の御随身等北野社に於いて、五番競馬有り。
 

3月8日 乙巳 [百錬抄]
  太上皇並びに大宮院南山御進発なり。

3月29日 [鎌倉幕府法]
  一、問注難渋の輩の事、
   右、遠国に於いては、召文を下さるるの後、故無く五ヶ月(百五十日)に至り参対
   せずんば、訴人申状に就いて、その沙汰有るべし。近国に至りては、召文日限に随
   い沙汰有るべきなり。次いで両方参対の後、問注を遁避し、空しく二ヶ月(六十ヶ
   日)を過ぎ、その節を遂げざると雖も、直に御成敗有るべきなり。仍って執達件の
   如し。
     建長七 三 二十九      相模の守
                    陸奥の守
 

4月1日 丁卯 [百錬抄]
  上皇熊野より御還向。御軽服(去る二月比六條宮御事)に依って、稲荷社に参らしめ
  給わず。
 

6月15日 [皇年代略記]
  大流星。
 

8月9日 [鎌倉幕府法]
  一、人倫売買銭の事、大仏に寄進せられをはんぬ。而るに国々より運上の事、その煩
   い有るの由、小聖これを申す。然れば地頭の沙汰として、送進すべきの由、下知せ
   しめ給うべきの旨候なり。仍って執達件の如し。
    建長七年八月九日        實綱 判
                    勘甚 判
                    寂阿 判
   大田民部大夫殿

8月12日 [鎌倉幕府法]
  一、鎌倉中挙銭、近年無尽銭と号し、質物に入れざるの外、借用を許さざるに依って、
   甲乙人等衣装物具を以て、その質に置く。盗人また贓物を売買せしめば、所犯忽ち
   露顕せしむべきの間、竊に贓物を以て質物に入れ、借用せしむの処、盗まれ主質物
   を見付けるの時、銭主等世間の通例と称し、その仁並びに住所を知らざるの由これ
   を申すと。所存の旨、甚だ以て不当なり。自今以後に於いては、質物を入れ置くの
   日、負人の交名・住所を尋ね知らしむべし。もし沙汰出来の時、手次を引かざるに
   至らば、盗人に処せらるべきなり。この旨を以て面々奉行保内に相触るべきの状、
   仰せに依って執達件の如し。
    建長七年八月十二日       相模の守 判
                    陸奥の守 判
   伊勢の前司殿

8月28日 [皇年代略記]
  雷法勝寺の塔に落つ。
[百錬抄] 壬辰
  雷法勝寺九重塔の上に落ち懸く。雷火出来す。然れどもこれを打ち消す。
 

10月17日 庚寅 [百錬抄]
  春日行幸巡検なり。左中弁宗雅朝臣以下これに参る。春日行幸神宝御覧。
 

11月12日 [皇年代略記]
  地震。
 

12月14日 丁丑 [百錬抄]
  月蝕正現。