1256年 (建長8年、10月5日 改元 康元元年 丙辰)
 
 

7月3日 辛卯 [百錬抄]
  中納言資季卿参入す。太上皇大宮殿御移徙御幸召し仰せの事を行わる。上皇五條大宮
  新造御所に御移徙なり。大宮院御同車。一員を召し具せらる。
 

7月5日 癸巳
  尾張右衛門太郎・同子息五郎小侍の番帳に入るべきの由、景頼小侍に申し沙汰すと。
 

7月6日 甲午 朝雨、辰の刻晴に属く。夕また雨降る
  今日前の武蔵禅室の後室禅尼の為、一切経を供養せらる。導師は若宮別当僧正隆弁と。
  また六波羅大夫将監長時朝臣の室重病と。放生会御出の随兵、今日散状を廻らす。こ
  れ惣人数を注し御点を申し下すと。今度風記に載すと雖も、御点に漏れる人々、
   武蔵の太郎     同五郎    同八郎       遠江の次郎
   出羽三郎左衛門の尉 大隅修理の亮 周防三郎左衛門の尉 越中右衛門の尉
   阿曽沼の小太郎   武石の四郎
 

7月12日 庚子 晴
  去る六月十四日の光物、男山に見るの由別当これを申す。仙洞より御尋ね有るの処、
  司天等伺い見ざるの由を申すに依って、同じく石清水よりその図を注進せしむと。ま
  た大宮院新造御所(五條大宮)、今月三日御移徙。両院御同車、一員御幸と。
 

7月17日 乙巳 晴
  将軍家山内最明寺に御参り。この精舎建立の後、始めての御礼仏なり。相州御素懐を
  遂げらるべきの由内々その沙汰有り。彼の余波を思し食すに依ってか。殊に今日御出
  の儀を刷わる。
  御出の行列
  先ず随兵十二人(騎馬)
   足利の太郎兼氏     遠江三郎左衛門の尉泰盛 武田の八郎信経
   小笠原の三郎時直    城の次郎頼景      下野の四郎景綱
   河越の次郎経重     大須賀次郎左衛門の尉胤氏 小山出羽の前司長村
   佐々木対馬の守氏信   北條の六郎時定     武蔵の四郎時中
  次いで御車(網代庇)
   大隅修理の亮      出羽三郎左衛門の尉行資 相馬次郎兵衛の尉胤継
   武石の四郎胤氏     小野寺新左衛門の尉行通 隠岐次郎左衛門の尉時清
   山内籐内左衛門の尉通重 平賀の新三郎惟時    三浦の介六郎頼盛
   城の四郎時盛      周防五郎左衛門の尉忠景 出羽の七郎行頼
   肥後次郎左衛門の尉為時 南部の又次郎時實    大須賀左衛門四郎朝氏
   近江孫四郎左衛門の尉泰信 氏家の余三経朝    土肥の四郎實綱
   波多野の小次郎宣経   鎌田次郎兵衛の尉行俊
  次いで御劔役人 遠江の太郎清時
  次いで御調度役 小野寺四郎左衛門の尉通時
  次いで御後供奉二十二人(各々布衣・下括り。騎馬。武官は皆弓箭を帯す)
   越後の守實時      刑部少輔教時      足利の三郎利氏
   備前の三郎長頼     長井の太郎時秀     佐々木壱岐の前司泰綱
   新田参河の前司頼氏   和泉の前司行方     内蔵権の頭親家
   伊勢の前司行綱     上総の介長泰      武藤少卿景頼
   筑前次郎左衛門の尉行頼 河内三郎左衛門の尉祐氏 式部太郎左衛門の尉光政
   和泉三郎左衛門の尉行章 出羽次郎左衛門の尉行有 壱岐新左衛門の尉基頼
   上野五郎兵衛の尉重光  善左衛門の尉康長    小田左衛門の尉時知
   薩摩七郎左衛門の尉祐能
  次いで小侍所司
   平岡左衛門の尉實俊
  奥州・相州堂前に候せらる。また武蔵の守・遠江の前司・出羽の前司・佐渡の前司・
  三浦の介等同じく参候す。大夫の尉泰清・時連等予め門外の左右に候し、敷皮を構う。
  御礼仏の後相州の御亭に入御す。廷尉行忠(布衣・冠)この砌に参会す。御遊・和歌
  御会等有り。今日御逗留なり。
 

7月18日 丙午 晴、夜に入り雨降る
  将軍家山内より還御す。導師は左大臣法印厳恵。
 

7月20日 戊申
  将軍家御悩有りと。

[北條九代記]
  長時、武蔵の守に任ず。
 

7月26日 甲寅 晴
  度々の変異等の事、御祈祷を行わるべきの旨計り申すべきの由、和泉の前司行方・清
  左衛門の尉満定等の奉行して諸道に仰せらる。仍って陰陽師等群参す。前の陰陽権の
  大允晴茂朝臣雷公祭を行わるべきかの由これを申す。天文博士為親朝臣申して云く、
  この祭は公家の外行わるるの例を聞かず。去る寛喜三年、前の武州禅室の仰せに依っ
  て、亡父泰貞風伯祭を行い、翌日風休止す。その例に任せこの祭を行わるべきかと。
  晴茂朝臣重ねて申して云く、諸国受領の如き行うの例、親職の自筆状を進覧す。行方
  披露するの処、決断せられ難きの間、右京権大夫茂範朝臣・参河の守教隆等に問わる。
  茂範朝臣申して云く、去る寛喜三年彼の祭を興行せらるるの時、安賀両家に尋ねらる
  るの処、安家は覚悟せざるの由これを申す。陰陽頭賀茂在親朝臣、俊憲朝臣勤仕の例
  を以てこれを奉仕す。その外の例これを存知ずと。教隆真人申して云く、凡人勤仕す
  るの例更に以て所見無しと。これに依って行わるべからざるの由これを定めらると。
 

7月29日 丁巳
  放生会御参宮供奉人の事、散状を廻らす。その状両様なり。所謂一通方、各々布衣を
  着し供奉すべきの由と。一通方、直垂を着し供奉すべきの由と。その躰両様たりと雖
  も、散状に於いては数通これを書き分け相触れらると。日来また催促する所なり。そ
  の中障りを申すの輩相交る。所謂、
  随兵
   畠山上野の前司     三浦の介      小田左衛門の尉
   土肥三郎左衛門の尉   遠江十郎左衛門の尉(軽服)
  直垂
   出羽七郎左衛門の尉(所労の間鹿食の由申す)
   足立左衛門四郎(所労に依って七月十日帰国)
   周防三郎左衛門の尉(父周防の守布衣を着し供奉すべきの由進奉しをはんぬ。弟六
     郎また流鏑馬の射手たり。旁々了見沙汰せしむに依って、参り難きの由申す)
  神馬役の事
   上野太郎左衛門の尉(進奉)
   彌次郎左衛門の尉(内々の仰せと称し、子息新左衛門の尉を差し進すと)