1256年 (建長8年、10月5日 改元 年 丙辰)
 
 

11月2日 己丑 陰
  丑の刻六波羅の飛脚参着す。去る月二十七日遷化す(院の御妹)。将軍家御軽服。仍
  って政務を閣かるる所なり(七箇日)。
 

11月3日 庚寅
  相州赤痢病を煩わしめ給う。
 

11月11日 戊戌 晴
  戌の刻将軍家御除服の儀有り。天文博士為親朝臣(束帯)御祓いを勤む。六角侍従の
  陪膳たり。源式部大夫親行役送に候す。太宰権の少貳景頼これを奉行す。
 

11月18日 乙巳 陰
  申の刻雨降る。雷鳴数声。
 

11月22日 己酉
  相州赤痢病の事減気すと。今日執権を武州(長時)に譲らる。また武蔵の国務・侍別
  当並びに鎌倉第同じくこれを預け申さる。但し家督は幼稚の程の眼代なりと。

[保暦間記]
  時頼将軍家の執権を政村・長時(義時孫、陸奥の守重時二子)等に申付て出家す。出
  家の後も、凡そ世の事をば執行はれけり。
 

11月23日 庚戌 天晴
  寅の刻最明寺に於いて、相州落餝せしめ給う(年三十)。日来の素懐に依ってなり。
  御法名は覺了房道祟と。御戒師は宋朝の道隆禅師なり。この事に依って、宗たる兄弟
  三流すでに沙彌と為る。希代の珍事なり。所謂前の大蔵権の少輔朝廣(法名信佛)・
  上野四郎左衛門の尉時光(法名)・同十郎朝村(法名蓮忍、以上結城、各々兄弟)、
  遠江の守光盛(法名)・三浦の介盛時(法名)・大夫判官時連(法名観蓮、以上三浦、
  各々兄弟)、前の筑前の守行泰(法名行善)・前の伊勢の守行綱(法名行願)・信濃判
  官行忠(法名行一、以上信濃、各々兄弟)。彼の面々慕う所有り。年来貳無し。斯く
  の時名残を思うの余り、忽ちこの志を顕わすと。但し皆自由の過に行われ、出仕を止
  むべきの由と。
 

11月24日 辛亥
  武州執権の事を奉るの後始めて政所に参らる。奥州並びに評定衆等(各々布衣)参会
  す。
 

11月26日 癸丑 夕雨降る
  寅の刻名越焼亡す。備前の三郎長頼の亭災す。他所に及ばず。
 

11月28日 乙卯 陰、小雨灑ぐ
  今日の評定、武州始めて出仕し給う。申の刻前の佐渡の守正五位下藤原朝臣基綱卒す
  (年七十六)。
 

11月30日 丁巳 晴
  最明寺禅室逆修を始行せしめ給う。