1257年 (康元2年、3月14日 改元 正嘉元年 丁巳)
 
 

8月1日 癸未 晴
  戌の刻大地震。
 

8月12日 甲午 陰、夕小雨降る。南風
  大慈寺供養の間の事、肥前の前司・三井左衛門の尉・松葉入道等御旨を奉り、陰陽師
  を相伴い、惣奉行常陸入道行日の家に向かいこれを相談す。晴賢・晴茂・廣資・以平
  ・文元等、各々別紙を以て御方違え有るべきの由を勘じ申す。但し以平申して云く、
  日来の大犯土、偏に寺家の沙汰たるの由の上は、御聴聞の儀に依って、御方違え有る
  事、太だ以て甘心せずと。而るに供養に至りては、専ら御沙汰を為し、方違え無くし
  て御出有らん事、尤もその憚り有るべきの由、衆儀治定すと。
 

8月14日 丙申
  対馬の守氏信明日の放生会御参宮の供奉人数たるべきの由仰せ出さる。仍って相催す
  べきの旨、行方仰せを越州に伝うと。
 

8月15日 丁酉 晴、夕雨降る
  鶴岡の放生会、将軍家の御出已下例の如し。
  先陣の随兵
   河越の次郎経重     後藤壱岐左衛門の尉基頼 城四郎左衛門の尉時盛
   和泉三郎左衛門の尉行章 出羽三郎左衛門の尉行重 常陸次郎兵衛の尉行雄
   長井の太郎時秀     千葉の介頼胤      陸奥の七郎業時
   遠江の七郎時基
  次いで前駈
  次いで御車
   伊勢次郎左衛門の尉行経 隠岐次郎左衛門の尉時清 梶原上野の三郎景氏
   土肥の四郎實綱     肥後六郎左衛門の尉時景 善次郎左衛門の尉康有
   大曽彌の太郎長頼       肥後の三郎為成     善左衛門次郎盛村
   大須賀左衛門四郎    大曽彌上総の三郎義泰  平賀の新三郎維時
   小泉左衛門四郎頼行   鎌田次郎兵衛の尉行俊  肥後四郎左衛門の尉行定
    以上直垂・帯劔、御車の左右に候す。
  御劔役人 武蔵の守朝直
  御調度  武藤左衛門の尉頼泰
  次いで御後
  五位(布衣・下括り)
   遠江の前司時直     刑部少輔教時      遠江右馬の助清時
   尾張左近大夫将監公時  武藤左近大夫将監時仲  民部大輔時隆
   秋田城の介泰盛     下野の前司泰綱     長門の前司時朝
   和泉の前司行方     日向の守祐泰      上総の前司長経
   太宰権の少貳景頼    対馬の守氏信      石見の守宗朝
  六位(布衣・下括り)
   三浦式部太郎左衛門の尉光政 上野太郎左衛門の尉景綱 薩摩七郎左衛門の尉祐能
   三村新左衛門の尉時親  善右衛門の尉康長 (御笠手長)武藤右近将監兼頼
  後陣の随兵
   武蔵の五郎時忠     駿河の五郎通時     宇都宮下野の四郎景綱
   武籐三郎左衛門の尉朝胤 渋谷左衛門の尉武重   足立太郎左衛門の尉直元
   結城上野の十郎朝村   周防四郎兵衛の尉泰朝  千葉の七郎太郎師時
   大須賀新左衛門の尉朝氏
  廻廊に御座すの間、相模の守政村・武蔵の守長時・武蔵の前司朝直・大隅の前司親員
  ・下野の前司泰綱・前の太宰の少貳為佐・備後の前司康持・梶原上野の前司景俊等そ
  の所に候せらると。
 

8月16日 戊戌 甚雨
  将軍家鶴岡に御出で。未の刻聊か晴に属くの間、流鏑馬等無為にこれを遂行せらるる
  所なり。
 

8月17日 己亥 晴、夕雨降る
  評議有り。大慈寺供養の間、御方違え有るべし。御本所最明寺たるべきの由これを定
  めらる。陰陽道申して云く、大慈寺は、最明寺より東方に相当たり、然るべからずと。
  仍って日の出以前、陰陽の輩を相伴い山上に登り、方角を糺し左右を申すべきの旨、
  清左衛門の尉満定・安東左衛門の尉光成等に仰せらる。晩に及び内蔵権の頭親家京都
  より帰参す。
 

8月18日 庚子 晴
  未の刻満定・光成並びに晴茂・為親・廣資已下陰陽師等評定所に参る。各々申して云
  く、今朝未明、先ず西御門山に登る。時に残月西に在り。日東に出る。彼是方角を糺
  すに、最明寺より大慈寺を指し辰戌に相当たる。最明寺・永福寺卯酉に相当たる。次
  いで比企谷山に到り、御所と前の尾州時章の名越亭とこれを見るに、南北なり。先年
  辰方の由これを申すと。彼の度窮め見ざるかと。沙汰有り。壱岐の前司泰綱の薬師堂
  谷の山庄宜しかるべきの由これを定めらる。
 

8月21日 癸卯 霽
  大慈寺供養の曼陀羅供大阿闍梨等の事評議有り。人々の意見不同すと雖も、建長の例
  に任せ、三位僧正頼兼・安祥寺僧正良瑜・若宮別当僧正隆弁・松殿法印良基・大臣法
  印□家等なり。四人孔子の賦を以て定めらるべしと。彼の書六函は本願聖人右大臣家
  法華堂別当の許に遣わさる。七箇日護摩を修すの後、一合を執り進すべきの由仰せ下
  さる。清左衛門の尉奉行たり。次いで願文草の事、茂範朝臣その役たるべきの処、経
  範卿服暇中なり。而るに教隆眞人先規に任せ除服せしめ、書き進すべきかの由これを
  申すと雖も、子息秀才廣範すでに大業を遂げをはんぬ。彼の朝臣に仰せらるべきの旨、
  同じくこれを定めらると。
 

8月23日 乙巳 晴
  戌の刻大地震。音有り。神社仏閣一宇として全きこと無し。山岳頽崩し、人屋顛倒す。
  築地皆悉く破損し、所々の地裂け水湧き出る。中下馬橋の辺地裂け破れ、その中より
  火炎燃え出る。色青しと。今日大慈寺供養御布施の事沙汰を致すべきの由、御教書を
  御家人等に下さるるなり。
 

8月25日 丁未 雨降る
  地震小動五六度。筑前次郎左衛門の尉行頼の奉行として、地震に依って御祈祷を致す
  べきの由、御持僧並びに陰陽道の輩に仰せ下さる。また勝長寿院造営有るべきの由、
  同じく大行事縫殿の頭師連・壱岐の前司基政・備後の前司康持等に仰せらるるなり。
  また造営雑掌を定めらる。本堂(勝長寿院と号すこれなり)は最明寺禅室の御沙汰、
  弥勒堂は前の武州、五仏堂は奥州禅門、三重塔は相州。
 

8月28日 庚戌 晴
  法華堂の函の内一合これを取り進す。披覧するの処、三位僧正頼兼の名字なり。仍っ
  てその座より、和泉の前司行方・太宰権の少貳景頼等を以て、大慈寺供養の曼陀羅供
  大阿闍梨たるべし。平讃衆八口を相伴い参勤せらるべきの由、僧正に触れ遣わさると。