9月4日 乙卯 小雨降る
申の刻地震。去る月二十三日の大動以後、今に至るまで小動休止せず。これに依って
為親朝臣天地災変祭を奉仕す。御使は伊賀の前司朝行と。
9月16日 丁卯 晴
勝長寿院の事始め十九日たるべきの由、御教書を下さる。縫殿の頭師連御使たり。陰
陽道の勘文を帯し、当院の別当宰相法印最信の宿坊に向かい相触る。造営の間の事、
一事以上寺家の沙汰たるべしと。その後寺奉行三位律師良明・師阿闍梨禅信等、奥州
禅門・相州・前の武州等の御亭に参り、諸堂支度の事等これを申し入る。
9月18日 己巳 晴
造営魔障無きの様祈念を致すべきの由、御教書を加賀法印に下さる。□□□造畢の期
供僧等何ぞ今日より供令日に至るまで本尊開白。勝長寿院造営事始め、対馬の前司倫
長参入す。基政病痾に依って障りを申す。諸堂雑掌、安東籐左衛門の尉光成・工藤三
郎右衛門の尉光泰(已上相州禅室の御方)、籐民部大夫入道道佛(奥州禅門の御方)、
四方田三郎左衛門の尉景綱(相州の御方)。□□□□募る匠等禄物の事これを沙汰す。
時刻に大工已下匠(布衣)参上す。釿始め事終わり禄物(御衣)を給う。戌の刻勝長
寿院に於いて大土公祭(牛一頭を引かる例の如し)を行う。晴茂朝臣これを奉仕す。
銀劔一腰を給う。対馬の前司倫長これを奉行す。
9月24日 乙亥 晴
地震に依って御所の南方・東方の築地壊れるなり。来月一日大慈寺供養以前に築地せ
らるべきや否や、その沙汰有り。陰陽師を召し方忌の事を問わる。その間彼の輩條々
の相論有り。為親・廣資等申して云く、南は御遊年方、辰の外憚り無し。東は大将軍
遊行の間、修補せらるるに憚り無し。本文の先例分明なりと。晴賢・晴茂・晴憲・以
平・文元等申して云く、これすでに大破なり。根より築上すべきの間、大犯土たるべ
し。大少を論ぜず憚り有るべしと。また光栄・有行・泰親等の朝臣の勘文を進す。泰
親は保元造内裏の時、築垣大将軍遊行の間修理せらるべきの由これを載す。而るに以
平申して云く、往代の例に用いられず。近来憚るべきの旨口伝有りと。奥州・武州・
前の武州・出羽の前司等評議有り。修復の儀を止めらる。
9月30日 辛巳 寅の刻より雨降り、終日休止せず
未の刻将軍家壱岐の前司泰綱の薬師堂谷の山庄に入御す。これ明日大慈寺供養の御出
有るべきの間、御方違えの為なり。晩に及び相州禅室修理の躰を覧んが為、大慈寺に
渡御す。常陸入道行日已下奉行人等参会す。而るに南面の河堰椙を用いるの間、禅室
仰せて云く、寺塔の修治如在の儀無きと雖も、河堰に椙を用いること頗る無念と。則
ち帰らしめ給う。爰に行日第に帰るに及ばず、寺門に留まり、行河の水を塞ぎ止め、
檜の材木(この木行日家に用意すと)を召し寄せ、百余人の匠等を招き聚め、椙の河
堰を改め、檜を以て造りをはんぬ。供養明日たるべきの間、松明を取りその功を成す
なり。