1257年 (康元2年、3月14日 改元 正嘉元年 丁巳)
 
 

12月6日 丙戌 天晴
  甲斐の太郎・大曽彌上総の前司等京都より帰参す。山門・園城寺等の事に依って、去
  る十月使節として上洛せしむ所なり。
 

12月12日 壬辰 天霽
  武蔵の国司の子息(宮王)聊か病患すと。
 

12月16日 丙申
  評定。明春の三嶋・伊豆・筥根御参詣の事その沙汰有り。仍って例に任せ、供奉の為
  惣人数を注し進覧すべきの旨、小侍所に仰せらる。和泉の前司行方仰せを伝うと。
 

12月17日 丁酉
  遠江十郎左衛門の尉頼連京都より帰参す。先日両使以前入洛せしむと雖も、彼の出京
  下向以後御返事を承る。仍って参着遅引すと。
 

12月18日 戊戌
  二所御参詣の供奉惣人数の記、陸奥掃部の助、和泉の前司行方に付け進覧せしむの処、
  件の人数、悉く催促を加うべきの由と。仍ってこれを以て散状に用いること仰せらる
  る所なり。先々は御点に就いてその衆を催す。今度の儀例を始めらるるに似たりと。
 

12月23日 癸卯 晴
  立春の御方違え。二棟の御所西端、御寝所より未申方に相当たると。
 

12月24日 甲辰 天霽
  当参の人数の中、或いは然るべきの仁、或いは要枢の輩を撰び、始めて庇衆を結番せ
  らる。この事仙洞の儀を以て潛かに関東に模せらるるの條、頗るその憚り有るべきか
  の由、相州禅室に仰せ合わさる。答え申さるるの篇に就いて、内蔵権の頭親家・遠江
  十郎左衛門の尉頼連等を以て御使と為し、内々叡慮を窺わるるの処、勅許有り。また
  侍の参昇何様たるべきやの趣同じくこれを問い申さる。その境に於いて嫌い思し食さ
  るる侍に至りては、人数定めて不足かの旨これを仰せ下さると。縡すでに厳重の間、
  近衛将以下等を以て番頭と為し、故に御宸筆を染め御簡を書かしめ御う。料紙は唐紙
  を用いらるる所なり。この間珍事有り。頼連使節として、名字を番頭脇に載せらるべ
  し。然らざれば所望無きの由、頻りにこれを訴え申す。沙汰有りこれを閣かる。次い
  で問見参結番の事これを定め置かるると雖も、この一両年その衆自然懈緩するの間、
  今日更に勤厚の族を撰ばれこれを定めらると。
  定め
   廂御所一日一夜結番の事
  一番(子午)
   一條少将       相模式部大夫     陸奥の六郎
   備前の三郎      上総の三郎      大隅修理の亮
   出羽次郎左衛門の尉  筑前三郎左衛門の尉  壱岐三郎右衛門の尉
   城の五郎
  二番(丑未)
   阿野少将       相模の三郎      武蔵の五郎
   後藤壱岐の前司    薩摩七郎左衛門の尉  式部太郎左衛門の尉
   小野寺新左衛門の尉  城四郎左衛門の尉   鎌田三郎左衛門の尉
   一宮次郎左衛門の尉
  三番(寅申)
   中御門少将      尾張左近大夫将監   遠江の七郎
   新田参河の前司    刑部権大輔      出羽三郎左衛門の尉
   和泉三郎左衛門の尉  常陸兵衛の尉     出羽の七郎
   平賀の新三郎
  四番(卯酉)
   冷泉少将       越後右馬の助     新相模の三郎
   武蔵の八郎      足利の三郎      佐渡五郎左衛門の尉
   壱岐新左衛門の尉   加藤左衛門の尉    城の六郎
   大泉の九郎
  五番(辰戌)
   二條侍従       陸奥の七郎      内蔵権の頭
   前の采女の正     武籐左衛門の尉    隠岐次郎左衛門の尉
   周防五郎左衛門の尉  上総三郎左衛門の尉  武蔵左近将監
   土肥の四郎
  六番(巳亥)
   刑部少輔       武蔵左近大夫将監   遠江の七郎
   秋田城の介      上野太郎左衛門の尉  伊勢次郎左衛門の尉
   肥後三郎左衛門の尉  駿河蔵人次郎     下野の四郎
   大曽彌左衛門太郎
  右結番の次第を守り、一日一夜懈怠無く勤仕すべきの状、仰せに依って定める所件の
  如し。
    正嘉元年十二月日

  定め
   問見参結番の事
  一番(子午)
   城四郎左衛門の尉   周防五郎左衛門の尉  塩谷周防四郎兵衛の尉(追加)
  二番(丑未)
   隠岐三郎左衛門の尉  上総太郎左衛門の尉  太宰肥後の三郎
   色部右衛門の尉(追加)
  三番(寅申)
   小山七郎左衛門の尉  押立蔵人大夫     土肥の四郎
  四番(卯酉)
   城の六郎       式部太郎左衛門の尉  薩摩の十郎
  五番(辰戌)
   後藤壱岐左衛門の尉  武藤左衛門の尉    狩野左衛門四郎
  六番(巳亥)
   幸嶋小三郎左衛門の尉 加地五郎左衛門の尉  牧左衛門次郎(追加)
   波多野兵衛次郎
  右結番の次第を守り、懈怠無く勤仕せしむべきの状、仰せに依って定める所件の如し。
    正嘉元年十二月日
 

12月29日 己酉
  那波刑部少輔・周防五郎左衛門の尉・善次郎左衛門の尉・平賀の新三郎等、二所御参
  詣の供奉に加えらる。散状の記先度書き漏らすに依ってなりと。今日御格子番を結番
  せらると。
  定め 
   御格子上下結番の事(次第不同)
  一番
   刑部少輔教時      武蔵左近大夫将監時仲  備前の三郎長頼
   内蔵権の頭親家     城の六郎顕盛      大隅修理の亮久時
   筑前次郎左衛門の尉行頼 出羽次郎左衛門の尉行有 隠岐次郎左衛門の尉行氏
   一宮次郎左衛門の尉康有
  二番
   相模式部大夫時廣    武蔵の五郎時忠     駿河左近大夫
   伊勢次郎左衛門の尉行経 和泉次郎左衛門の尉行章 城中六郎左衛門の尉時業
   出雲次郎左衛門の尉時光 梶原上野の三郎景氏   対馬の太郎頼氏
   鎌田三郎左衛門の尉義長
  三番
   尾張左近大夫将監公時  駿河の五郎通時     能登左近蔵人仲家
   下野の四郎景綱     壱岐新左衛門の尉基頼  筑前三郎左衛門の尉行實
   出羽三郎左衛門の尉行資 式部太郎左衛門の尉光政 大須賀新左衛門の尉頼氏
   平賀の新三郎維時
  四番
   遠江右馬の助清時    武蔵の八郎頼直     長井判官代泰元
   城の五郎重景      隠岐次郎左衛門の尉時清 常陸次郎兵衛の尉行雄
   上総三郎左衛門の尉義泰 加藤左衛門の尉景経   薩摩七郎左衛門の尉祐能
   大泉の九郎長氏
  五番
   越後右馬の助時親    遠江の次郎時通     小山出羽の四郎時朝
   美作兵衛蔵人長教    壱岐三郎左衛門の尉頼綱 遠江十郎左衛門の尉頼連
   武籐四郎左衛門の尉胤氏 肥後新左衛門の尉景茂  小野寺新左衛門の尉行通
   土肥の四郎實綱
  六番
   陸奥の六郎義政     同七郎業時       足利の三郎頼氏
   佐渡五郎左衛門の尉基隆 上野五郎兵衛の尉重光  氏家左衛門の尉経朝
   武藤三郎左衛門の尉頼泰 周防五郎左衛門の尉忠景 山内三郎左衛門の尉通廣
   鎌田次郎兵衛の尉行俊
  右次第を守り、各々懈怠無く参勤すべきの状、仰せに依って定める所件の如し。
    正嘉元年十二月日