3月1日 辛亥 晴
辰の刻将軍家二所御進発(初度)。浄衣を着す。人々の行列は和泉の前司行方奉行た
り。随兵の行列は平三郎左衛門の尉盛時これを奉行す。
行列
先陣の随兵十二騎(総鞦を懸く)
壱岐六郎左衛門の尉跡 三田の小太郎跡子息と
葛西の四郎太郎 三田の五郎
大胡の太郎跡 小林の小次郎跡子息と
大胡掃部の助太郎 小林の小三郎
木村の五郎跡子息と 佐貫左衛門の尉跡子息と
木村四郎左衛門の尉 安藝大炊の助
那須肥前の前司子息と 足利向田分と
肥前の七郎 向田の小太郎
河越掃部の助跡 足利木工の助跡
香山三郎左衛門の尉 瀧口左衛門の尉
千葉の介分六郎子息 相馬左衛門の尉跡
千葉太郎左衛門の尉 天野左衛門の尉
次いで御引馬 三疋
次いで御弓袋差し(腹巻を着す)丸嶋の弥太郎久経
次いで御甲着け 伊豆の籐三郎保経
次いで御冑持ち 門居の彌四郎行秀
次いで御小具足持ち 彌三郎守近
次いで御調度懸け 又鶴丸
次いで御油
次いで御先達 権少僧都善道
已上騎馬
次いで御駕(御浄衣)
周防五郎左衛門の尉忠景 薩摩七郎左衛門の尉祐能 武藤左衛門の尉頼泰
加藤左衛門の尉景経 肥後三郎左衛門の尉為成 山内三郎左衛門の尉通廉
小河新左衛門の尉 肥後四郎左衛門の尉行定 鎌田三郎左衛門の尉義長
同新左衛門の尉 渋谷太郎兵衛の尉 鎌田次郎兵衛の尉行俊
土肥の四郎實綱 平賀の新三郎維時 狩野の四郎景茂
已上歩行
御後騎(楚鞦)
土御門中納言顕方卿
武蔵の前司朝直 中務権大輔家氏 陸奥の七郎業時(相並ぶ)
越前の守時廣 備前の三郎長頼(相並ぶ)
内蔵権の頭親家 太宰の少貳景頼 参河の前司頼氏(相並ぶ)
筑前次郎左衛門の尉行頼 安藝左近大夫親継 肥後次郎左衛門の尉為時(相並ぶ)
阿曽沼の小次郎光綱 伊勢次郎左衛門の尉行経 山内籐内左衛門の尉通重
善五郎左衛門の尉康家(已上四騎相並ぶ)
采女の正忠茂朝臣 前の陰陽大允晴茂朝臣 参河の前司教隆
大隅修理の亮久時(已上四騎相並ぶ)
次いで小侍所司 平岡左衛門の尉實俊
次いで
武蔵の守長時 相模の太郎(相並ぶ)
次いで侍所司 平三郎左衛門の尉盛時
次いで後陣の随兵十二騎(二騎相並ぶ)
行方の太郎跡
行方中務五郎 眞壁の孫四郎
豊嶋兵衛の尉跡 中村甲斐の前司跡
豊嶋の四郎太郎 内匠蔵人太郎
大河戸兵衛の尉分子息と 伊北の三郎跡
大河戸兵衛太郎 伊北の小太郎
国分の五郎跡
大井品河の人々分
国分の彦五郎 品河右馬の允
多故宮納左衛門の尉跡 鬼窪左衛門入道跡民部太郎子と
多比良の小次郎 鬼窪の又太郎
永野刑部の丞跡 自身
永野の次郎太郎 忍の小太郎
3月3日 癸丑
鶴岡法会、舞楽例の如し。奉幣の御使無し。
3月6日 丙辰 甚雨、北風烈しく吹く
亥の刻将軍家二所より還御す。
3月10日 庚申 天晴
鶴岡三月会、舞童等召しに依って御所に参る。鞠の御壺に於いて舞曲これを施す。
3月19日 己巳
鶴岡の宝前に於いて諸神供を修せらると。
3月20日 庚午 終日甚雨
評定有り。将軍家明年御上洛有るべきに依って、供奉人以下の事群議を経らる。且つ
は用意を致し、且つは子細を御家人等に相触れしめんが為、御教書を諸国守護人に下
さるる所なり。その書き様、
明年正月御上洛有るべし。その旨を存じ、その国の御家人等に相触れらるべし。且
つは土民この役に依って逃散すべからず。もしその企て有らば早く糺返せしむべき
の状、仰せに依って執達件の如し。
正嘉二年三月二十八日 武蔵の守
相模の守
某殿
今日前の武州禅室の御後室第三年遠忌に相当たり、建長寺に於いて一切経を供養せら
る。導師は道隆禅師なり。相州禅室・相州・武州已下結縁の人々堂上に満つ。
3月23日 癸酉 霽
故武州経時十三年の仏事、佐々目谷の塔婆を供養せらる。導師は寿福寺長老悲願房朗
譽。