1258年 (正嘉2年 戊午)
 
 

7月4日 辛亥
  善六郎左衛門次郎放生会供奉人(直垂着)の散状に載せ加うべきの旨仰せ下さる。行
  方奉行たり。今日将軍家百日の御鞠を始めしめ給う。人数、
   土御門中納言顕方卿   花山院宰相中将長雅卿  刑部卿宗教卿(上鞠)
   前の兵衛の佐忠時朝臣  刑部少輔教時      右馬の助清時
   上野五郎兵衛の尉廣綱  同十郎朝村
  賢寂これを計え申す。
 

7月10日 丁巳
  今日の評定、名字を差し質券に入れる所領の事、その所知行の仁その償いを致すべき
  かの由定めらると。泉又太郎蔵人義信と安房の四郎頼綱と相論する下野の国松本郷の
  事、頼綱彼の郷を以て質券に入れるに依って、すでに給人に付けられをはんぬ。然れ
  ば傍例に任せ、一倍の定めを加え、百貫文の銭に於いては、早く義信に渡し沙汰すべ
  しと。
 

7月11日 戊午
  相模の太郎殿聊か違例の間、祈祷等を修せらると。
 

7月15日 壬戌
  御所当座の御歌合と。
 

7月18日 乙丑
  相模の太郎殿の不例殊なる事無しと。
 

7月22日 己巳
  日向の守祐泰今度の供奉人数に漏れをはんぬ。これ去年十月大慈寺供養の時、遅参に
  依って供奉せず。今年六月勝長寿院供養の日は、また所労を称し不参す。此の如き間
  自然相漏れるか。殊に周章し越後の守に申すの処、御点に就いて相催すばかりなり。
  私計に非ざるの由返答す。
 

7月23日 庚午
  祐泰所労平減の上は供奉すべきかの由、行方に達するの間、御供奉の事承りをはんぬ。
  その旨を存ずべきの由返状に載せ、その状を越州に送る。この上は供奉すべきの由を
  申す。越州重ねて云く、この状全く恩許の所見に非ずてえり。祐泰重ねて愁い、内蔵
  権の頭親家に遣わす。親家返状を投ず。またその状を越州に遣わすの処、問答前の如
  しと。去年御堂供養の遅参、今年また所労、不慮の如き事に依って定めて懈緩に処せ
  らるるが故催せられざるかの由、頻りにこれを歎き申すと。
 

7月24日 辛未
  相馬孫五郎左衛門の尉胤村今度の供奉の事を辞し申す。これ老病相侵し、毎時煩い有
  るの上、来九月九日定役の流鏑馬に募り、放生会の流鏑馬に勤仕すべきの由俄に仰せ
  下さるるの間、期に臨み奔営計会すと。
 

7月29日 丙子
  祐泰、供奉猶周章すと。