1258年 (正嘉2年 戊午)
 
 

8月1日 丁丑 暴風烈しく吹き、甚雨沃すが如し。昏黒天顔快晴
  諸国の田園悉く以て損亡すと。

[神明鏡]
  八月一日大風、二日大洪水。天下大飢饉、人民死亡しをはんぬ。

[百錬抄]
  雨降り大風。所々の顛倒破壊勝計うべからず。安嘉門転倒しをはんぬ。
 

8月5日 辛巳 甚雨
  六波羅御所御移徙の事評議有り。陰陽道日時勘文を進す。晴茂・為親・晴憲等連署す。
 

8月6日 壬午
  日向の前司祐泰布衣の人数に加うべきの旨仰せ下さるるの間、武藤少卿景頼奉書を越
  州に達すと。
 

8月7日 [皇年代略記]
  皇太弟を立つ(十一、後深草継嗣有りと雖も、上皇の勅としてこれを立つ)。(亀山
  院、後嵯峨第三子。母大宮院、後深草に同じ)

[五代帝王物語]
  院の第六の皇子恒仁親王春宮に立せ給う。御年十歳、これも大宮院の御腹なり。
 

8月8日 甲申
  宮寺蔵人政員は、前駈として催促に預かるの処、殊なる所存有るに依ってか、事を衣
  冠の用意無きの儀に寄せこれを辞し申す。布衣の人数に加えらるべきの由頻りに所望
  す。仍って今日武州の御方に於いてその沙汰に及ぶ。人数不足たらば加えらるるの條
  何事か有らんや。然らずんば、強ち召し具せられ難きの由と。而るを進奉の輩治定分
  すでに披露するの上は、御許容に足らずと。
 

8月15日 辛卯 雨降る
  鶴岡放生会。将軍家御参宮。
  供奉人行列
  先陣の随兵
   武田の三郎政綱      小笠原の三郎政直   千葉の介頼胤
   相馬孫五郎左衛門の尉胤村 大隅修理の亮久時   常陸次郎兵衛の尉行雄
   武蔵の五郎時忠      備前の三郎長頼    相模の三郎時利
   新相模の三郎時村
  次いで前駈(以下これを尋ね記すべし)
   周防五郎左衛門の尉忠景 式部兵衛次郎光長    上総三郎左衛門の尉義泰
   城の六郎顕盛      内藤肥後六郎左衛門の尉時景 土肥の四郎定綱
   一宮次郎左衛門の尉康有 肥後三郎左衛門の尉為成 狩野左衛門四郎景茂
   大泉の九郎長氏     平賀の四郎泰定
    已上帯劔・直垂、御車の左右に候す。
  御劔役人  武蔵の守朝直
  御調度   武蔵次郎左衛門の尉景泰
  御後
  五位(布衣・下括り)
   遠江の前司時直     越後の守定時      越前の前司時弘
   刑部少輔教時      尾張左近大夫将監公時  武蔵左近大夫将監時仲
   中務権大輔家氏     下野の前司泰綱     壱岐の前司基政
   和泉の前司行方     内蔵権の頭親家     縫殿の頭師連
   周防の前司忠綱     上総の前司長泰     信濃の前司泰清
   日向の前司祐泰
  六位(布衣・下括り)
   陸奥の七郎業時     佐渡五郎左衛門の尉基隆 式部太郎左衛門の尉光政
   梶原太郎左衛門の尉景綱 小野寺新左衛門の尉行通 壱岐新左衛門の尉基頼
   上総太郎左衛門の尉長経 城四郎左衛門の尉時盛  長次郎左衛門の尉義連
   肥後次郎左衛門の尉為時 鎌田三郎左衛門の尉義長
   (御笠手長)武藤右近将監頼村 鎌田次郎兵衛の尉行俊
  後陣の随兵
   遠江右馬の助清時    民部権大輔時隆     三浦の介六郎頼盛
   足立太郎左衛門の尉直元 下野の四郎景綱     薩摩七郎左衛門の尉祐能
   上野五郎兵衛の尉重光  阿曽沼の小次郎光綱   大須賀新左衛門の尉朝氏
   伊東八郎左衛門の尉祐光
  廻廊の簾中に於いて舞楽を覧る。相州・武州・武蔵の前司朝直・大隅の前司親員・江
  石見の前司能行・上野の前司宗俊等御前に候すと。
 

8月16日 壬辰 雨降る
  将軍家鶴岡宮寺に御参り。馬場の流鏑馬以下の儀例の如し。事終わり還御す。相州禅
  室御桟敷より還らしめ給うの後、秉燭の期に及び、伊具四郎入道山内の宅に帰るの処、
  建長寺前に於いて射殺されをはんぬ。蓑笠を着け騎馬せしむの人、下部一人を相具し、
  伊具の左方を馳せ過ぐ。田舎より鎌倉に参るの人かの由、伊具の所従等これを存ず。
  落馬の後矢に中たるの旨を知ると。毒をその鏃に塗ると。
 

8月17日 癸巳 天晴
  伊具殺害の嫌疑に依って、諏方刑部左衛門入道を虜え、対馬の前司氏信に召し預けら
  るる所なり。また平内左衛門の尉俊職(平判官康頼入道の孫)・牧左衛門入道等の同
  意露顕せしむと。これ昨日件の両人の人数諏方に会合し、終日数盃を傾け閑談を凝ら
  す。而るに諏方伊具帰宅の期を伺い知り、白地に当座を起ち路次に馳せ出る。射殺す
  るの後、また元の如く酒宴に及ぶと。今日相尋ねらるるの処、昨日の会衆を差し、證
  人として子細を論じ申すに依って、また両人に問わる。各々一旦承伏すと。この殺害
  の事、人の推察覃ぶべからざるの処、諏方の旧領を以て伊具に付けらるるの間、確執
  未だ止まざるか。その上箭束と云い射様と云い、すでに掲焉たり。頗る普通の所為に
  越ゆ。これに依って嫌疑の御沙汰出来すと。
 

8月18日 甲午 天晴
  諏方刑部左衛門入道これを召し置かれ、推問を加えらるると雖も敢えて承伏せず。仍
  って所従の男(高太郎と号す)を召し取り、糺問の法に任せらるるの処、気を屈し詞
  を出すに能わず。結句相論す。主人云く、すでに白状するに就いて事泄れしむ。爭か
  論じ申すべきやの由申す。奉行人問答を尽くすと雖も、彼の男云く、主人は兼ねて糺
  問の恥辱に預かり、仍って申すか。下人の身に於いては、更にその恥を痛まず。実正
  に任せ論じ申す所なり。且つは主人白状の上は、重ねて御問に及ばざるかと。
 

8月19日 乙未 陰
  今月七日御立坊(当帝御弟、御年十)の由、今日京都よりこれを申せらる。
 

8月20日 丙申
  陸奥・出羽両国の諸郡、夜討ち・強盗蜂起の事その聞こえ有るに依って、面々の地頭
  に仰せ相鎮むべきの旨、御教書を成し遣わさるる所なり。その詞に云く、
   近日、出羽・陸奥の国夜討ち・強盗蜂起するの間、往還の輩その煩い有るの由風聞
   す。尤も不便なり。これ偏に郡郷の地頭等、先の御下知に背き無沙汰の致す所なり。
   甚だその謂われ無し。早く某等郡知行の宿々、屋舎を建て置き結番し、殊に警固せ
   しむべきなり。且つは悪党を籠め置くの所々、見隠し聞き隠すべからざるの旨、沙
   汰人等の起請文を召し進せらるべしてえり。仰せに依って執達件の如し。
     正嘉二年八月二十日      武蔵の守
                    相模の守
      某殿
 

8月28日 甲辰 晴
  戌の刻螢惑南斗第五星を犯す。同時に大流星(長四丈余四尺)乾より巽に至る。今日
  の評定、将軍家御上洛延引すと。これ諸国損亡に依って民間愁い有るが故なり。