1259年 (正嘉3年、3月26日 改元 正元元年 己未)
 
 

(吾妻鏡に記載無し)
 

*[五代帝王物語]
  正月の上旬の比、死人を喰ふ小尼出来て、よろづの所にてくふといふほどに、十四五
  計なる小尼、内野より朱雀の大路を南ざまへ行とて、まさに死人の上に乗ゐてむしり
  喰。目もあてられずぞ有ける。童部しりさきに立て打さいなめば、鳥羽の方へまかり
  ける後はいかがなりぬらん。
 

2月9日 [鎌倉幕府法]
  一、山野・江海の煩いを止め、浪人の身命を助くべき事
   諸国飢饉の間、遠近侘際の輩、或いは山野に入り薯蕷野老を取り、或いは江海に臨
   み魚鱗海藻を求む。此の如き業を以て、活計を支えるの処、在所の地頭堅く禁遏せ
   しむと。早く地頭の制止を止め、浪人の身命を助くべきなり。但し事をこの制符に
   寄せ、過分の儀有るべからず。この旨を存じ沙汰を致すべきの状、仰せに依って執
   達件の如し。
     正嘉三年二月九日       武蔵の守
                    相模の守
    駿河の守殿
 
 

3月5日 [増鏡]
  西園寺の花ざかりに、大宮院一切経供養せさせ給ふ。年比は、おぼしおきてけるを、
  いたくしろしめさぬに、女の御願にて、いとかしこくありがたき御事なれば、院もお
  なじ御心に、ゐたちのたまふ。

3月26日 [皇年代略記]
  改元。疫病飢饉地震等に依ってなり。
[五代帝王物語]
  春比より世のなかに疫病おびただしくはやりて、下臈どもはやまぬ家なし。川原など
  は路もなきほどに死骸みちて、浅ましき事にて侍りき。崇神天皇の御代昔の例にも劣
  らずやありけん。飢饉もけしからぬ事にて、諸国七道の民おほく死亡せしかば、三月
  二十六日改元ありて正元と改る。
 

4月11日 [皇年代略記]
  日吉二宮・十禅師火事。

4月27日 [皇年代略記]
  清水の塔以下火事。
[百錬抄] 庚子
  飢饉疫疾等の御祈りに依って、臨時の二十二社奉幣使を発遣せらる(去る十一日日吉
  社の火事に依って延引す)。権大納言資季卿已下これに参る。今日より疫疾御祈りに
  依って、諸社に於いて七ヶ日仁王経御読経を修せらる。
 

5月4日 [五代帝王物語]
  岡屋入道、岡屋にて薨給ふ。

5月5日 戊申 [百錬抄]
  近日十三四ばかりの小尼一條壬生に於いて死人を破り食うと。未曾有の事か。

5月22日 [五代帝王物語]
  閑院又回禄あり。最勝講の御装束用途を行事官が下人あまた私用して日は近くなる。
  いかにもすべき様なくて火をつけたる。末代の作法力なしと申ながら不思議の事なり。
  その下手人は禁獄せられたりしかども云かひなき事にてぞありし。
[百錬抄] 乙丑
  子の時ばかり、閑院皇居炎上す。主上腰輿に駕し三條坊門殿に行幸す。
 

6月18日 [鎌倉幕府法]
  一、西国雑務の事、注進状繁多相続くの間、御沙汰有りと雖も、自然年月を経るに依
   って、今煩いを為すか。然れば自今已後に於いては、殊なる重事の外は、注進すべ
   からず。直に尋ね成敗せしむべきの状、仰せに依って執達件の如し。
     正元元年六月十八日      武蔵の守 判
                    相模の守 判
    陸奥左近大夫将監殿
 

*[五代帝王物語]
  七月ばかりまでは猶なごりもありしやらん。さて七月の末よりは病もとどまり世も殊
  に豊年にてぞありし。
 

8月26日 丁酉 [百錬抄]
  東宮大宮殿(当時皇居)に行啓す。御元服の儀有るべきに依ってなり。

8月28日 己亥 [百錬抄]
  東宮御元服の儀なり(皇居大宮殿に於いてこの儀有り)。加冠(右大臣傳)、理髪(堀
  川中納言基具卿)。儀了わり、東宮上皇御所(大炊御門殿)に行啓す。拝覲の儀有り。
[増鏡]
  春宮十一にて御元服したまふ。御いみな恒仁ときこゆ。世の中に、やうやうほのめき
  聞ゆる事あれば、御門(後深草)あかず心ぼそうおぼさる。
 

11月3日 辛未 [百錬抄]
  日吉社正殿遷宮なり。

11月26日 [五代帝王物語]
  春宮位に即せ給ふ。御年十一。 [保暦間記]御追号をば後深草の院と申けり。
 [増鏡]譲位の儀式常の如し。
 

12月2日 [増鏡]
  太上天皇の尊号ありて、新院ときこゆ。本院(後嵯峨)と常にひとつに渡らせ給ひて、
  御遊しげう、心やりて、なかなかいとのどやかに、めやすき御有様に、おぼし慰むや
  うなり。

12月28日 [五代帝王物語]
  即位の儀あり。さて前帝は新院とて富小路殿に渡らせ給ふ。中宮も十九日に院号あり
  て、東二條院(公子)と申。