1月1日 己巳 晴
椀飯(相州禅室御沙汰)。両国司並びに評定衆以下人々布衣を着し出仕す。庭上に列
候するの儀恒の如し。
武蔵の前司 尾張の前司 相模の太郎 新相模の三郎
相模の三郎 遠江の前司 陸奥左近大夫将監 越後の守
弾正少弼 武蔵左近大夫将監 尾張左近大夫将監 遠江右馬の助
刑部少輔 越前の前司 越後右馬の助 民部権大輔
越後の四郎 武蔵の五郎 遠江の七郎 備前の三郎
駿河の四郎 越後の又太郎 駿河の五郎 新田三河の前司
長井宮内権大夫 秋田城の介 中務権少輔 武藤少卿
木工権の頭 和泉の前司 那波刑部少輔 小山出羽の前司
後藤壱岐の前司 伊賀の前司 長井判官代 日向の前司
安藝右近大夫 嶋津大隅の前司 上総の前司 周防の前司
縫殿の頭 甲斐の守 後藤壱岐新左衛門の尉
上総三郎右衛門の尉 周防三郎左衛門の尉 城四郎左衛門の尉
筑前次郎左衛門の尉 周防五郎左衛門の尉 城の六郎
周防六郎左衛門の尉 筑前三郎左衛門の尉 城の彌九郎
筑前四郎左衛門の尉 式部太郎左衛門の尉 小野寺四郎左衛門の尉
大隅蔵人 常陸次郎左衛門の尉 小野寺新左衛門の尉
上野太郎左衛門の尉 出羽七郎左衛門の尉 善右衛門の尉
和泉六郎左衛門の尉 善次郎左衛門の尉 薩摩七郎左衛門の尉
和泉七郎左衛門の尉 薩摩の十郎 土肥の四郎
内藤肥後三郎左衛門の尉 狩野五郎左衛門の尉 伊東次郎左衛門の尉
伊勢三郎左衛門の尉 狩野四郎左衛門の尉 信濃次郎左衛門の尉
鎌田図書左衛門の尉 肥後天野新左衛門の尉 大曽彌太郎左衛門の尉
信濃三郎左衛門の尉 狩野帯刀左衛門の尉 加藤左衛門の尉
紀伊次郎左衛門の尉 長内左衛門の尉 大泉の九郎
鎌田次郎左衛門の尉 鎌田三郎左衛門の尉 進三郎左衛門の尉
善五郎左衛門の尉 駿河右近大夫 平賀四郎左衛門の尉
出羽の前司行義時刻を申す。将軍家出御す。右衛門の督参進し御簾を上ぐ。御劔は武
蔵の前司朝直、御調度は尾張の前司時章、御行騰沓は越後の守實時。
一の御馬 遠江の七郎時基 工藤次郎左衛門の尉高光
二の御馬 武蔵の五郎時忠 安東新左衛門の尉
三の御馬 出羽七郎左衛門の尉行頼 同九郎宗行
四の御馬 城四郎左衛門の尉時盛 同六郎顕盛
五の御馬 伊勢次郎左衛門の尉行経 同三郎左衛門の尉頼綱
その後吉書を覧る。武州持参せしめ給う。今日御行始めの儀有り。仍って例に任せ、
庭上の着到を進覧す。御点に就いて供奉人を催す。その間の事以上、工藤三郎右衛門
の尉光泰これを奉行す。平岡左衛門の尉實俊故障有るに依ってなり。未の刻御出で。
御車網代廂。
御劔役人 武蔵の前司朝直
御後
五位
相模の太郎 尾張の前司時章 遠江の前司時直
越後の守實時 越前の前司時廣 刑部少輔教時
遠江右馬の助清時 武蔵左近大夫将監時仲 陸奥左近大夫将監義政
弾正少弼業時 相模の三郎時利 遠江の七郎時基
新相模の三郎時村 越後の四郎時方 参河の前司頼氏
秋田城の介泰盛 宮内権大夫時秀 和泉の前司行方
小山出羽の前司長村 後藤壱岐の前司基政 木工権の頭親家
日向の前司祐泰 武藤少卿景頼 上総の前司長泰
甲斐の守為成
六位
城四郎左衛門の尉時盛 同六郎顕盛 式部太郎左衛門の尉光政
壱岐新左衛門の尉基頼 和泉三郎左衛門の尉行章 信濃次郎左衛門の尉時清
周防五郎左衛門の尉忠景 薩摩七郎左衛門の尉祐能 一宮次郎左衛門の尉康有
筑前次郎左衛門の尉行頼 小野寺新左衛門の尉行通 加藤左衛門の尉景経
土肥四郎左衛門の尉實綱 出羽次郎兵衛の尉行藤 常陸次郎左衛門の尉
鎌田三郎左衛門の尉義長 鎌田次郎左衛門の尉行俊 武藤右近将監頼村
御引出物例の如し。御劔は刑部少輔教時、砂金は左近大夫将監義政、羽は宮内権大輔
時秀。
一の御馬 新相模の三郎時村 安保次郎左衛門の尉
二の御馬 筑前三郎左衛門の尉行實 同四郎左衛門の尉行佐
三の御馬 相模の三郎時輔 南條新左衛門の尉
1月2日 庚午 晴
椀飯(奥州禅門沙汰)。御簾は左衛門の督、御劔は尾張の前司時章、御調度は越前の
前司時廣、御行騰沓は秋田城の介泰盛。
一の御馬 新相模の三郎時村
式部次郎左衛門の尉]
二の御馬 備前の三郎長頼
三の御馬 薩摩七郎左衛門の尉祐能 同十郎左衛門の尉祐廣
四の御馬 信濃次郎左衛門の尉時清
五の御馬 周防五郎左衛門の尉忠景
1月3日 辛未 晴
椀飯(相州沙汰)。御簾は右金吾、御劔は越後の守實時、御調度は左近大夫将監公時、
御行騰は和泉の前司行方。
一の御馬 遠江の七郎時基 糟屋左衛門三郎行村
二の御馬 式部太郎左衛門の尉光政 同右衛門次郎
三の御馬 出羽の九郎宗行 同次郎兵衛の尉行藤
四の御馬 城の六郎顕盛 同九郎長景
五の御馬 新相模の三郎時村 式部次郎左衛門の尉光長
1月4日 [五代帝王物語]
さて三井寺に戒壇を立べきよし訴申せども、昔より沙汰ありて許されざりしを、三昧
耶戒にて法臈を定むべきよし宣下せられたりしかば、山門の衆徒蜂起して、日吉の神
輿を陣頭まで振奉りて、嗷々に訴申によりてやがて召かへされぬ。中々面目なくぞ侍
し。代々勅裁なかりし事を、適聖断ありて程なく召返さるる、定て様こそ侍つらめ。
このなごり猶静りやらず。
1月6日 甲戌 [続史愚抄]
早旦、日吉神輿入洛す。富小路皇居陣頭(西門下と云う)に八王子・客人等二基、一
院仙洞(万里小路殿西門)に北野二基、新院仙洞(三條坊門)に京極寺一基を棄て置
く。僧徒退散す。因って天台座主無品尊助法親王に仰せ、祇園社に陣頭の日吉神輿三
基・本社に北野神輿を遷し入れらる。
1月9日 丁丑 晴
評定始めを行わる。
1月10日 戊寅 晴
京都の飛脚到着す。申して云く、今月四日園城寺三摩耶戒壇の事宣下せらるるの処、
同六日卯の刻日吉社の神輿三基・祇園三基・北野二基・京極寺一基、已上九基の神輿
入洛す。陣頭に振り棄て奉る。二基は院の御所に振り奉ると。
1月11日 己卯 霽
将軍家鶴岡に御参り。
御車(庇)
後藤壱岐左衛門の尉基頼 加藤左衛門の尉景経 城の六郎顕盛
筑前四郎左衛門の尉行佐 信濃判官次郎左衛門の尉行宗
肥後天野新左衛門の尉景氏 狩野四郎左衛門の尉 伊東次郎左衛門の尉盛時
薩摩九郎左衛門の尉 伊勢三郎左衛門の尉頼綱 小野寺新左衛門の尉行通
一宮次郎左衛門の尉康有 鎌田三郎左衛門の尉義長 平賀三郎左衛門の尉維時
鎌田次郎左衛門の尉行俊
以上帯劔・直垂、御車の左右に候す。
御劔役人(布衣・下括り) 武蔵の前司朝直
御調度懸け(布衣・下括り) 武藤左衛門の尉頼泰
御後
五位(布衣・下括り)
尾張の前司時章 遠江の前司時直 越後の守實時
越前の前司時廣 越後右馬の助時親 刑部少輔教時
遠江右馬の助清時 尾張左近大夫将監公時 武蔵左近大夫将監時仲
民部権大夫時隆 弾正少弼業時 陸奥左近大夫将監義政
小山出羽の前司長村 宮内権大夫時秀 木工権の頭親家
秋田城の介泰盛 参河の前司頼氏 和泉の前司行方
後藤壱岐の前司基政 周防の前司忠綱 伊賀の前司時家
上総の前司長泰 甲斐の守為時 日向の前司祐泰
太宰の少貳景頼
六位(布衣・下括り)
相模の太郎 同四郎宗政 同三郎時利
遠江の七郎時基 越後の四郎時方 新相模の三郎時村
備前の三郎長頼 武蔵の五郎時忠 式部太郎左衛門の尉光政
城四郎左衛門の尉時盛 大曽彌太郎左衛門の尉長頼 信濃次郎左衛門の尉時清
遠江十郎左衛門の尉頼連 隠岐三郎左衛門の尉行景 伊勢次郎左衛門の尉行経
筑前三郎左衛門の尉行實 薩摩七郎左衛門の尉祐能 土屋出羽七郎左衛門の尉行頼
和泉三郎左衛門の尉行章 善太郎左衛門の尉康長
1月12日 庚辰
浜に於いて御的射手の試み有り。その射手十三人を撰定せらる。一五度これを射る。
射手
一番 早河の次郎太郎 九 渋谷左衛門太郎 八
二番 平嶋の弥五郎 九 岡本新兵衛太郎 九
三番 佐貫の七郎 六 藤澤左衛門五郎 六
四番 藤澤左近将監 八 海野の矢四郎 八
五番 桑原の平内 十 工藤の彌三郎 八
六番 本間彌四郎左衛門の尉 七 柏間左衛門次郎 九
七番 工藤の八郎 三
1月14日 壬午 晴、寅の刻雷鳴
今日御弓始め有り。二五度なり。
射手十二人
一番 早河の次郎太郎祐泰 九九 渋谷左衛門太郎朝重 七七
二番 平嶋の彌五郎助経 九八 岡本新兵衛の尉重方 四九
三番 佐貫の七郎廣胤 七七 藤澤左衛門五郎光朝 八九
四番 藤澤左近将監時親 七五 海野の矢四郎助氏 六六
五番 桑原の平内盛時 九九 工藤の彌三郎清光 七七
六番 本間彌四郎左衛門の尉忠時 七八 柏間左衛門次郎季忠 八九
[続史愚抄]
この日、山門僧徒一院御所に参り、戒壇の事を欝訴す。即ち関東に仰せ合わさるべき
の旨院宣を賜う。按察使(顕朝)書き下すと。
1月19日 丁亥 [続史愚抄]
延暦寺の欝訴に依って、園城寺三摩那戒壇の官符を召し返さるべく宣下す(口宣)。
上卿権大納言(師継)、奉行蔵人治部大輔経業。また一院より山門に院宣を賜う。奉
行院司経業院宣を書き下す。
1月20日 戊子
今日御所中に於いて昼番衆を定め置かる。その内壮士に於いては、歌道・蹴鞠・管弦
・右筆・弓馬・郢曲以下都て以て一芸に堪えるの輩は、時に於いて御要有るべきに依
って、結番を定めらる。去る比御要の時人無きの間、殊に以てこの御沙汰出来す。仍
って小侍衆に仰せ、芸能の輩の目六を揃え、度々相州禅門に仰せ合わされ治定すと。
工藤三郎右衛門の尉光泰これを奉行す。城四郎左衛門の尉清書を為す。
定め
一番 子午 昼番の事(次第不同)
相模の太郎 弾正少弼業時 尾張左近大夫将監公時
民部権大輔時隆 足利上総の三郎 秋田城の介泰盛
同六郎顕盛 下野四郎左衛門の尉景綱 遠江十郎左衛門の尉頼連
筑前五郎左衛門の尉行重 武藤左衛門の尉頼泰 信濃判官左衛門の尉行宗
渋谷左衛門太郎朝重
二番 丑未
越前の前司時廣 遠江右馬の助清時 武蔵の五郎時忠
和泉の前司行方 出羽大夫判官行有 和泉三郎左衛門の尉行章
淡路又四郎左衛門の尉宗泰 式部太郎左衛門の尉光政 隠岐三郎左衛門の尉行景
大須賀新左衛門の尉朝氏 佐貫の七郎廣胤 江戸の七郎太郎長光
大泉の九郎氏廣
三番 寅申
陸奥左近大夫将監義政 相模の三郎時輔 備前の三郎長頼
小山出羽の前司長村 上野大夫判官廣綱 大隅修理の亮久時
城四郎左衛門の尉時盛 周防五郎左衛門の尉忠景 寺嶋の小次郎時村
筑前次郎左衛門の尉行頼 出羽七郎左衛門の尉行頼 一宮次郎左衛門の尉康有
本間彌四郎左衛門の尉忠時
四番 卯酉
新相模の三郎時村 越後右馬の助時親 宮内権大輔時秀
木工権の頭親家 日向の前司祐泰 城の彌九郎長景
大曽彌太郎左衛門の尉長経 上野の十郎朝村 加藤左衛門の尉景経
武石四郎左衛門の尉長胤 阿曽沼の小次郎光綱 波多野の小次郎定経
小野寺新左衛門の尉行通
五番 辰戌
刑部少輔教時 遠江の七郎時基 新田参河の前司頼氏
縫殿の頭師連 美作兵衛蔵人家教 城五郎左衛門の尉重景
河越の次郎経重 筑前四郎左衛門の尉行佐 甲斐三郎左衛門の尉為成
土肥の四郎實綱 善五郎左衛門の尉康家 樺野四郎左衛門の尉景氏
二宮の彌次郎時元
六番 巳亥
越後の守實時 同四郎顕時 後藤壱岐の前司基政
武藤少卿景頼 上総の前司長泰 佐渡五郎左衛門の尉基隆
壱岐新左衛門の尉基頼 伊勢三郎左衛門の尉頼綱 薩摩七郎左衛門の尉祐能
肥後新左衛門の尉景氏 鎌田次郎兵衛の尉行俊 渋谷の三郎太郎重村
早河の次郎太郎祐泰
右次第を守り、各々参勤せしめらるべきの状、仰せに依って定める所件の如し。
正元二年正月日
[続史愚抄]
園城寺戒壇の官符を召し返さる。因って寺門僧徒大離散(二十三日離散と)。
1月21日 己丑 [続史愚抄]
日吉神輿三基祇園より本社に帰座す。これより先延暦寺中堂に坐す日吉四社神輿帰座
す。
1月23日 辛卯
殺罪の輩を禁遏すべきの由その沙汰有り。事書に定めらると。
一、六齋日並びに二季の彼岸殺生の事
右魚鼈の類・禽獣の彙、命を重んずること山岳に逾ゆ。身を患うこと人倫に同じ。
茲に因り罪業の甚だしきこと殺生に過ぎたるは無し。これ以て仏教の禁戒惟重し。
柄聖代の格式炳焉なり。然れば則ち件の日々、早く魚網を江海に禁じ、宜しく狩猟
を山野に停むべきなり。自今以後固くこの制を守り、一切停止に随うべし。もし猶
禁遏に背き、違犯の輩有らば、御家人に到りては交名を注進せしめ、凡下の輩に於
いては、罪科に加うべきの由、諸国の守護並びに地頭等に仰せらるべし。但し有限
の神社の祭に至りては、禁制の限りに非ず。
1月26日 甲午 霽
園城寺衆徒の使者参着す。申して云く、今月四日当寺三摩耶戒壇の事宣下せらるるの
処、同十四日山徒院参の時これを訴え申す。同二十日召し返さるると。剰え寺門を焼
き払うべきの由、山僧蜂起す。縡すでに朝家の勝事、一寺の滅亡たり。
1月29日 丁酉
去る二十二日神輿帰坐す。同二十三日三井寺衆徒分散すと。