1260年 (正元2年、4月13日 改元 文應元年 庚申)
 
 

2月2日 庚子 晴
  将軍家御方違え、二棟の御所に渡御す。これ御所を修理せらるべきが故なり。今日小
  侍御簡の新加衆有り。和泉の前司行方仰せを越州に伝う。仍って平岡左衛門の尉・工
  藤三郎右衛門の尉をしてこれを申し沙汰せしむ。
   二番 伊賀左衛門四郎  同六郎
   四番 美作兵衛蔵人
   五番 木工権の頭
 

2月3日 辛丑 晴
  山門の蜂起に依って、園城寺定めて火災有らんか。彼の寺を警固すべきの由大番衆に
  相触るべきの旨、六波羅に仰せらると。
 

2月4日 壬寅
  出羽判官次郎兵衛の尉小侍御簡衆に加う。
 

2月5日 癸卯 晴
  酉の刻故岡屋禅定殿下(兼経公)の御息女(御年二十)、最明寺禅室の御猶子として
  御下着。則ち山内亭に入御す。これ御息所に備えしめ給うべしと。
 

2月10日 戊申 晴
  最明寺の御亭に於いて、将軍家の御吉事その沙汰有り。陰陽師晴賢・晴茂・宣賢・文
  元召しに依って参入す。各々別紙を以て日時勘文を奉る。今月十四日壬子次吉、三月
  二十一日戊子上吉と。
 

2月14日 壬子 晴
  将軍家最明寺の御亭に入御す。戌の刻姫君御前御除服の儀有り。天文博士為親朝臣御
  祓いを勤む。前の兵衛の佐忠時朝臣陪膳に候す。木工権の頭親家役送たり。太宰権の
  少貳景頼これを奉行す。
 

2月18日 丙辰 晴
  将軍家桜花を覧んが為永福寺に御出で。
 

2月20日 戊午
  廂御所の結番更に書き改めらる。行方これを書く。
   定め
   廂御所結番の事
  一番(一日より五日に至る)
   一條中将       越後の守       尾張左近大夫将監
   新相模の三郎     武蔵の八郎      武藤少卿
   佐渡五郎左衛門の尉  出羽三郎左衛門の尉  小野寺新左衛門の尉
   上総太郎左衛門の尉  鎌田三郎左衛門の尉  一宮次郎左衛門の尉
  二番(六日より十日に至る)
   阿野少将       治部権大輔      武蔵左近大夫将監
   備前の三郎      和泉の前司      駿河右左近大夫
   下野四郎左衛門の尉  常陸次郎左衛門の尉  城五郎左衛門の尉
   後藤壱岐左衛門の尉  信濃判官次郎左衛門の尉 平賀三郎左衛門の尉
  三番(十一日より十五日に至る)
   陸奥左近大夫将監   宮内権大輔      中御門少将
   越前の前司      秋田城の介      駿河の次郎
   武藤右近将監     薩摩七郎左衛門の尉  出羽七郎左衛門の尉
   伊勢次郎左衛門の尉  城の彌九郎      大曽彌太郎左衛門の尉
  四番(十六日より二十日に至る)
   讃岐の守       弾正少弼       相模の三郎
   武蔵の五郎      後藤壱岐の前司    出羽大夫判官
   城四郎左衛門の尉   信濃次郎左衛門の尉  武藤左近将監
   和泉三郎左衛門の尉  鎌田次郎左衛門の尉  狩野四郎左衛門の尉
  五番(二十一日より二十五日に至る)
   中御門新少将     民部権大輔      遠江の七郎
   足利上総の三郎    新田参河の前司    兵衛判官代
   式部太郎左衛門の尉  大隅修理の亮     筑前三郎左衛門の尉
   美作兵衛蔵人     壱岐三郎左衛門の尉  大泉の九郎
  六番(二十六日より晦日に至る)
   二條少将       刑部少輔       遠江右馬の助
   越後の四郎      木工権の頭      図書の頭
   城の六郎       周防五郎左衛門の尉  加藤左衛門の尉
   甲斐三郎左衛門の尉  上総三郎左衛門の尉  土肥の四郎
  右結番の次第を守り、五箇日夜懈怠無く勤仕せしむべきの状、定める所件の如し。
    正元二年二月日