1260年 (正元2年、4月13日 改元 文應元年 庚申)
 
 

12月1日 甲午 雨降る
  巳の刻伊豆山に御奉幣。則ち御下向。土肥郷に御夜宿。当所の御所に於いて駄餉等美
  を極め善を尽くす。甚雨滂沱の間、御休息の為土肥郷に御逗留。
 

12月2日 乙未 陰
  酒匂の駅に御止宿。相模の国の御家人この所に群参すと。
 

12月3日 丙申 晴
  将軍家鎌倉御所に還御す。御奉幣無為と。
 

12月16日 乙酉
  明年正月の御弓始め射手等の事差し定めらるる処、所労と称し障りを申すの輩相交る
  の間、今日小侍所に於いて、相模の太郎殿・越後の守等談合を経て、自由の対捍然る
  べからず、内調の時参上せしめ子細を申すべきの旨、御教書を下さると。また武州(長
  時)頓病辛苦すと。

[続史愚抄]
  京官除目を行わる。天台座主無品尊助法親王牛車を聴さる。
 

12月17日 庚戌
  梶原上野の六郎小侍の番帳に加えらる。武藤少卿景頼仰せを小侍所に伝うと。
 

12月18日 辛亥 霽
  将軍家の御願に依って八万四千基塔を供養せらる。導師は尊家法印。
 

12月20日 癸丑 陰
  酉の刻、御所東侍陀羅尼衆の休所に鳶飛び入る。御慎みの由、陰陽道等これを勘じ申
  す。
 

12月21日 甲寅 晴
  入道右大弁光俊朝臣(法名真観。光親卿の息)京都より下着す。当世の歌仙なり。
 

12月22日 [五代帝王物語]
  新帝の女御には右大臣(實雄公、山科左府)の女、十一月二十一日に御禊ぎの女御代
  に供奉して、今日入内。御年十六なり。
 

12月23日 丙辰 小雨降る
  右大弁禅門始めて出仕す。和歌の興行盛んなり。
 

12月24日 丁巳
  寅の刻武州の病患減気に属き、汗太だ降ると。
 

12月25日 戊午
  京上所役の事その沙汰有り。今日法を定めらると。
  一、京上役の事(大番役に付す)
   諸国御家人、恣に銭貨と云い夫駄と云い、巨多の用途を貧民等に宛て、呵法の譴責
   を諸庄に致すの間、百姓等侘際に及び安堵せざるの由、遍くその聞こえ有り。然か
   れば則ち大番役に於いては、自今以後段別銭参百文、この上五町別に官駄一疋、人
   夫二人これを充て催すべし。この外に於いては、一向停止せしむべきなり。員数を
   定め下せしむる以後、日来沙汰無き所々に於いては、この員数に就いて加増すべか
   らざるなり。
  一、地頭補任の所々の内御家人大番役の事
   先々御家人役勤仕の輩は、守護の催促たるべきなり。
  また将軍家明日御方違え有るべきに依って、供奉人の事、例の如く御点を以てこれを
  催せらる。武蔵の前司・尾張の前司・越後の守等は、兼ねて儲けを催す御所に候すべ
  きの旨触れ仰せられをはんぬ。武州は日来所労、越州は心神聊か違乱の事有るの旨言
  上すと。
 

12月26日 己未 晴
  去る二十日の鳶の恠に依って、百恠祭を行わる。今夜将軍家相模の太郎殿の御亭に御
  方違え。中御所御同車(八葉)。
  供奉人
   刑部少輔教時      遠江右馬の助清時    弾正少弼業時
   相模の三郎時輔     同七郎宗頼       新相模の三郎時村
   越後の四郎時方     武蔵の五郎時忠     宮内権大輔時秀
   秋田城の介泰盛     壱岐の前司基政     木工権の頭親家
   和泉の前司行方     上総の前司長泰     武藤少卿景頼
   出羽大夫判官行有    隠岐大夫判官行景    式部太郎左衛門の尉光政
   城の六郎顕盛      信濃次郎左衛門の尉時清 薩摩七郎左衛門の尉祐能
   加藤左衛門の尉景経   周防五郎左衛門の尉忠景
    以上立烏帽子・直垂
 

12月27日 庚申 晴
  松殿法印良基、去る八月将軍家御悩の時の御祈りの賞、今月十六日権僧正に任ず。聞
  書今日到来す(尻付に御験者の賞と)。則ち御所に参賀す。土御門中納言申次たり。
 

12月29日 壬戌
  明春正月朔御行始めたるべし。供奉人の事相催すべきの由、武藤少卿仰せを小侍所に
  伝う。而るに椀飯の為出仕の人々、御所庭上に於いて、兼ねて座籍を取り、並札を差
  す所なり。仍って光泰・實俊その所に行き向かい、札の所見に就いて交名を注し進上
  す。御点を申し下し、その旨を相触ると。