1261年 (文應2年、2月20日 改元 弘長元年 辛酉)
 
 

1月1日 癸亥 霽
  椀飯(相州禅室御沙汰)。両国司以下布衣を着し出仕す。先ず東西の侍に候す。次い
  で出御の時刻を申すの後、庭上東西に相分かれ着座す。
  西座
   武蔵の前司    尾張の前司    遠江の前司    越後の守
   刑部少輔     治部権大輔    秋田城の介    佐々木壱岐の前司
   和泉の前司    那波刑部少輔   縫殿の頭     宮内権大輔
   後藤壱岐の前司  対馬の前司    伊賀の前司    日向の前司
   周防の前司    上総の前司    武藤少卿     加賀の前司
   甲斐の守     上野の介     大田新民部大夫  伊豆太郎左衛門の尉
   式部太郎左衛門の尉 佐藤民部大夫  長左衛門の尉   善五郎左衛門の尉
   加地七郎右衛門の尉   長内左衛門の尉     常陸次郎左衛門の尉
   城四郎左衛門の尉    薩摩七郎左衛門の尉   武藤右近将監
   筑前三郎左衛門の尉   出羽七郎左衛門の尉   城五郎左衛門の尉
   善六郎左衛門の尉    城の六郎        和泉三郎左衛門の尉
   城の彌九郎       城の十郎        上野太郎左衛門の尉
   越中次郎左衛門の尉   伊勢三郎左衛門の尉   遠江十郎左衛門の尉
   佐々木壱岐三郎左衛門の尉 土肥四郎左衛門の尉  武藤次郎左衛門の尉
   上野三郎左衛門の尉   上総太郎左衛門の尉   後藤次郎左衛門の尉
   周防五郎左衛門の尉   信濃次郎左衛門の尉   大曽彌太郎左衛門の尉
   肥後三郎右衛門の尉   鎌田図書左衛門の尉   小野寺新左衛門の尉
   上総三郎右衛門の尉   式部次郎左衛門の尉   式部左衛門三郎
   備後の太郎       上総の四郎       武石新左衛門の尉
   山田の彦次郎      矢部平次馬次郎     上野の六郎
   善六郎左衛門次郎    甲斐三郎左衛門の尉   隠岐四郎兵衛の尉
  東座
   越後右馬の助   越前の前司    陸奥左近大夫将監 尾張左近大夫将監
   弾正少弼     新相模の三郎   武蔵左近大夫将監 民部権大輔
   相模の三郎    同七郎      遠江右馬の助   遠江の七郎
   駿河の四郎    越後の四郎    駿河の五郎    武蔵の五郎
   遠江修理の亮三郎 越後の又太郎   武蔵の八郎    同九郎
   少輔左近大夫   木工権の頭    新田参河の前司  助教
   直講       大蔵少輔     下総の前司    中務権の少輔
   周防修理の亮   美濃兵衛大夫   安藝右近大夫   長井判官代
   少輔次郎     那波の次郎    安藝掃部の助   美作左近大夫
   能登右近蔵人   兵衛蔵人     近江蔵人     大隅修理の亮
   皆吉大炊の助   赤塚蔵人     大隅大炊の助   宗民部大夫
   大隅蔵人     進三郎左衛門の尉 備後の薬師丸   大多和左衛門の尉
   紀伊左衛門次郎  河越の小次郎   伊賀左衛門次郎  大田四郎左衛門の尉
   周防三郎左衛門の尉   加治六郎左衛門の尉   豊後三郎左衛門の尉
   大見肥後四郎左衛門の尉 鎌田次郎左衛門の尉   伊藤次郎左衛門の尉
   天野肥後新左衛門の尉  平賀三郎左衛門の尉   阿部左衛門の尉
   野部五郎左衛門の尉   大多和新左衛門の尉   萩原右衛門の尉
   鎌田次郎兵衛の尉    隠岐四郎左衛門の尉   三村左衛門の尉
   長右衛門の尉      薩摩十郎左衛門の尉   清六郎兵衛の尉
   大學の允        小河左衛門の尉     周防六郎左衛門の尉
   足立三郎右衛門の尉   香西の又太郎      阿佐美左近将監
   平賀四郎右衛門の尉   源太左衛門の尉     蛭河四郎左衛門の尉
   狩野八郎左衛門の尉   長雅楽左衛門三郎    小泉四郎左衛門の尉
   藤田次郎左衛門の尉   清三郎左衛門の尉    伊賀六郎左衛門次郎
   対馬左衛門次郎     大須賀新左衛門の尉   式部八郎左衛門三郎
   大泉の九郎       大見肥後左衛門次郎   稲毛左近将監
   河匂左衛門四郎     狩野左衛門四郎     布施部宮内左衛門太郎
   狩野左衛門六郎
  将軍家南面に出御す。土御門中納言御簾を上ぐ。御引出物恒の如し。
   御劔   武蔵の前司朝直
   御調度  越後の守實時
   御行騰  秋田城の介泰盛
   一の御馬 新相模の三郎時村   粟飯原右衛門の尉
   二の御馬 相模の三郎時輔    諏方四郎兵衛の尉
   三の御馬 越後の四郎顕時    安東宮内左衛門の尉
   四の御馬 城四郎左衛門の尉時盛 同五郎左衛門の尉重景
   五の御馬 遠江の七郎時基    大倉次郎左衛門の尉
  未の刻、将軍家相模禅室の亭に御行始め。
  御所の御方
   武蔵の前司朝直     刑部少輔教時      弾正少弼業時
   尾張左近大夫将監公時  遠江右馬の助清時    新相模の三郎時村
   越後の四郎顕時     相模の七郎宗頼     秋田城の介泰盛
   同六郎顕盛       和泉の前司行方     同三郎左衛門の尉行章
   中務権の少輔重教    木工権の頭親家     新田参河の前司頼氏
   佐々木壱岐の前司泰綱  後藤壱岐の前司基政   伊賀の前司時家
   日向の前司祐泰     常陸次郎左衛門の尉行清 周防五郎左衛門の尉忠景
   薩摩七郎左衛門の尉祐能 信濃次郎左衛門の尉時清 武藤左衛門の尉頼泰
   小野寺新左衛門の尉行通 武石新左衛門の尉長胤  加藤左衛門の尉景経
   上総太郎左衛門の尉長経 隠岐四郎兵衛の尉行廉  甲斐三郎左衛門の尉為成
   鎌田次郎左衛門の尉行俊
  中御所の御方
   遠江の前司時直     治部権大輔頼氏     陸奥左近大夫将監義政
   民部権大輔時隆     相模の三郎時輔     遠江の七郎時基
   武蔵の五郎時忠     宮内権大輔時秀     武藤少卿景頼
   対馬の前司氏信     周防の前司忠綱     式部太郎左衛門の尉光政
   城四郎左衛門の尉時盛  同五郎左衛門の尉重景  筑前三郎左衛門の尉行實
   出羽七郎左衛門の尉行頼 土肥四郎左衛門の尉實綱 武藤右近将監頼村
   上総三郎右衛門の尉義泰 大曽彌太郎左衛門の尉長頼 鎌田三郎左衛門の尉義長
  御引出物の役人
   御劔  治部権大輔頼氏
   砂金  左近大夫将監義政
   羽   左近大夫将監公時
   一の御馬 武蔵の五郎時忠     大瀬三郎左衛門の尉惟忠
   二の御馬 常陸左衛門の尉行清   和泉三郎左衛門の尉行章
   三の御馬 薩摩七郎左衛門の尉祐能 同十郎左衛門の尉祐廣
  還御の後、御息所御行始め(同亭)。
 

1月2日 甲子 晴
  椀飯(奥州禅門沙汰)。土御門中納言御簾を上ぐ。
   御劔  刑部少輔教時
   御調度 左近大夫将監公時
   御行騰 太宰の少貳景頼。
   一の御馬 相模の三郎時輔     工藤三郎右衛門の尉光泰
   二の御馬 武蔵の五郎時忠     対馬次郎兵衛の尉
   三の御馬 梶原太郎左衛門の尉景綱 同五郎景方
   四の御馬 周防五郎左衛門の尉忠景 同六郎左衛門の尉忠頼
   五の御馬 出雲次郎左衛門の尉時光 同六郎義泰
 

1月3日 乙丑 陰
  椀飯(相州御沙汰)。御簾役黄門これに候す。
   御劔  越後の守實時
   御調度 左近大夫将監公時
   御行騰 和泉の前司行方
   一の御馬 遠江の七郎時基     式部次郎左衛門の尉光長
   二の御馬 越後の四郎顕時     糟屋左衛門三郎行村
   三の御馬 出羽七郎左衛門の尉行頼 同八郎左衛門の尉行世
   四の御馬 城の六郎顕盛      同九郎長景
   五の御馬 新相模の三郎時村    伊賀右衛門三郎朝房
  来七日鶴岡八幡宮に御参有るべし。供奉の惣人数、例に任せ注し申せしむべきの旨仰
  せ下さる。行方奉行たり。
 

1月4日 丙寅
  七日の供奉の事、御点人数を以て進奉を召す。而るに最明寺殿公達の御事、散状の如
  きの次第に載せらるるべきこと有り。所謂相模の太郎・同四郎・同三郎・同七郎此の
  如し。これ禅室内々思し食す所なり。当時書き様頗る御意に違うと。工藤三郎右衛門
  の尉光泰その趣を得て、事の由を越州に告ぐと。越州報じて云く、今度の散状に於い
  ては、人々すでに進奉しをはんぬ。この上は今更書き改めるに能わざるか。直に承り
  存ずるの後、向後の躰を改むべきの由と。この事今日に限らず。去年則ち安東左衛門
  の尉光成告げ申すの旨此の如しと。太だ越州の所存に非ざるか。武藤少卿一同するの
  間、去年冬の比、禅室の御前に於いて聊か暇を申すに依って突鼻すと。凡そ太郎殿兄
  の上に着せらるべきの由これを仰せらる。
 

1月5日 丁卯 晴
  将軍家御祈祷始め、和泉の前司行方これを奉行す。また来九日御鞠始め有るべきの由
  と。而るに懸り一本枯れるの間、仰せ下されんが為、交名を注進すべきの旨、行方仰
  せを平岡左衛門の尉實俊に伝う。仍ってこれを注進す。その中御点を下されをはんぬ。
   刑部少輔 越前の前司 遠江の守 武蔵の五郎 秋田城の介 出羽大夫判官
  この人々に仰せ、来九日御鞠始め有るべし。懸り一本期日以前に尋ね進すべきの由仰
  せ下さるるの趣、これを書き下さる。越州奉ると。
 

1月6日 戊辰 霽、子丑両刻雷鳴三度
  今日大多和左衛門の尉を以て、明日の布衣供奉人に加うべきの由仰せ出さる。行方こ
  れを奉行す。
 

1月7日 己巳 晴
  将軍家鶴岡八幡宮に御参り。
  供奉人
  公卿
   土御門中納言顕方卿   六條二位顕氏卿   坊門三位基輔卿
  殿上人
   (御襖陪膳)一條中将能清朝臣 冷泉少将隆茂朝臣
   (御沓役)中御門少将宗世朝臣 二條少将雅有朝臣 中御門新少将實信朝臣
   (御笠役)讃岐の守師平朝臣  坊城中将公敦朝臣 唐橋少将具忠
    一條侍従公冬
  前駈
   (御榻役)中務権の少輔重教  安藝掃部の助大夫親定 赤塚左近蔵人資茂 
  布衣
   武蔵の前司    同五郎      尾張の前司    同左近大夫将監
   遠江の前司    同右馬の助    越後の守     同四郎
   相模の太郎    同三郎      同七郎      刑部少輔
   治部権大輔  (御劔役)弾正少弼  新相模の三郎   民部権大輔
   遠江の七郎    那波刑部少輔   和泉の前司    宮内権大輔
   佐々木壱岐の前司 武藤少卿     後藤壱岐の前司  同次郎左衛門の尉
   木工権の頭    伊賀の前司    上総の前司    同三郎左衛門の尉
   縫殿の頭     日向の前司    周防の前司    同六郎左衛門の尉
   甲斐の守     大隅修理の亮   式部太郎左衛門の尉 城の六郎
   常陸次郎左衛門の尉   信濃次郎左衛門の尉   武藤右近将監
   大多和左衛門の尉    薩摩七郎左衛門の尉  (御沓)土肥四郎左衛門の尉
   伊豆太郎左衛門の尉   出羽八郎左衛門の尉  (御笠)鎌田次郎左衛門の尉
   鎌田図書左衛門の尉   善五郎左衛門の尉    進三郎左衛門の尉
   平賀三郎左衛門の尉   小野寺新左衛門の尉   長次右衛門の尉
  帯劔
   出羽七郎左衛門の尉   和泉三郎左衛門の尉   武藤左衛門の尉
   城五郎左衛門の尉    周防五郎左衛門の尉   加藤左衛門の尉
   上総次郎左衛門の尉   同四郎         鎌田三郎左衛門の尉
   式部次郎左衛門の尉   隠岐四郎兵衛の尉    武石新左衛門の尉
   大曽彌太郎左衛門の尉  薩摩十郎左衛門の尉   肥後四郎左衛門の尉
 

1月9日 辛未
  前浜に於いて御的始め射手の試み有り。相模の太郎殿監臨せしめ給う。工藤三郎右衛
  門の尉光泰御共に候しこれを奉行す。この外南部の次郎・小笠原の彦次郎等御共たり。
  越後の守實時故障。子息四郎主、平岡左衛門の尉實俊を相具し行き向かい、同じく奉
  行すと。射手十二人、一五度これを射る。
   一番  二宮の彌次郎      横地左衛門次郎
   二番  桑原の平内       周枳兵衛四郎
   三番  渋谷新左衛門の尉    望月の余一
   四番  横溝の彌七       平嶋の彌五郎
   五番  本間彌四郎左衛門の尉  小島の又次郎
   六番  平井の又次郎      木曽の六郎
  射訖わるの後定め仰せられて云く、今度勤めしむ人数幾ばくならざるの上は、各々宜
  しく皆参せしむべしてえり。
 

1月10日 壬申 晴
  昨日射手の中、桑原の平内・横溝の彌七等障りを申すの間許容有り。この外の射手を
  以て五番たるべき由と。今日御所の御鞠始めなり。廷尉三人人数に列す。所謂出羽大
  夫判官行有(下括り)・上野大夫判官廣綱(上括り)・足利大夫判官家氏等なり。爰
  に刑部卿傾け申して云く、上括りは邂逅の例有りと雖も吉時に非ず。尤も斟酌有るべ
  しと。而るに二條少将雅有申して云く、承元二年十二月二日雅経卿記の如きは、頼時
  は白襖の袴上括り。凡そ検非違使上括りの事は常儀に非ず。蹴鞠の時憚り無きか。後
  白河院の御時、綱頼・知康上括り。当院の御時、一臈判官重輔同じくまた上括り。然
  かれば何事か有らんやと。これ則ち出羽は難波の訓に就き、上野・足利は二條の説に
  随う。二人の長者根元一流の口伝を受けると雖も、枝葉両様の故実を勘じ出すものか。
  その邪正人これを弁じ難しと。
 

1月14日 丙子 霽
  御的始め。射手十人、二五度これを射る。今日越後の守出仕せず。相模の太郎殿一所
  これを奉行せしめ給うと。
   一番  二宮の彌次郎時光     横地左衛門次郎長重
   二番  本間彌四郎左衛門の尉忠時 小嶋の彌次郎家範
   三番  望月の余一師重      周枳兵衛四郎頼泰
   四番  平井の又次郎有家     木曽の六郎隆俊
   五番  渋谷新左衛門の尉朝重   平島の彌五郎助経
 

1月25日 丁亥
  来月七日御息所鶴岡八幡宮に御参有るべきに依って、供奉人数を注し進覧すべし。但
  し田舎人の如きに於いては書き加うべからざるの由、小侍所に仰せらる。行方これを
  伝うと。則ちこれを注し進上せらると。
 

1月26日 戊子 天晴
  来月二所の御精進を始めらるべし。仍って参籠せしむべきの人数を注し進覧すべきの
  由仰せ出さると。且つはこの衆御息所御参宮の供奉を兼ねるべし。今日和歌御会始め。
  題読師は紙屋河二位(顕氏、直衣)、講師は中御門侍従宗世朝臣(布衣)なり。右大
  弁入道眞観(裘袋)・相州・武州・越前の前司時弘・左近大夫将監義政・壱岐の前司
  基政・掃部の助範元・鎌田次郎左衛門の尉行俊(已上布衣)等この席に構う。