1261年 (文應2年、2月20日 改元 弘長元年 辛酉)
 
 

4月21日 壬子
  奥州禅門の極楽寺亭に入御有るべきに依って、供奉人を相催せらる。直垂・立烏帽子
  たるべきの由と。
 

4月23日 甲寅 雨降る
  相模の太郎殿(十一歳)御嫁娶(堀内殿)。女房甘縄亭より御出の時、掃部の助範元
  御身固めに候す。この御祈りの為、去る二十二日より天冑地府・呪詛・霊気等の祭こ
  れを勤行すと。
 

4月24日 乙卯 晴
  将軍家(御騎馬)奥州禅門の極楽寺の新造山庄に入御す。御息所同じく渡御す。相州
  禅門予め候せしめ給う。
  供奉人
  御所の御方
    騎馬
   土御門中納言   相模の太郎   足利大夫判官   備前の前司
   尾張左近大夫   相模の三郎   武蔵の五郎    秋田城の介
   和泉の前司    中務権の少輔  佐々木壱岐の前司 木工権の頭
   式部太郎左衛門の尉
    歩行
  (御劔)遠江右馬の助   常陸次郎左衛門の尉   城の六郎
   同九郎         信濃次郎左衛門の尉   大隅修理の亮
   薩摩七郎左衛門の尉   武藤左衛門の尉     美作兵衛蔵人
   甲斐三郎左衛門の尉   周防五郎右衛門の尉   大曽彌太郎左衛門の尉
   土肥四郎左衛門の尉   隠岐四郎兵衛の尉    武石新左衛門の尉
   三村新左衛門の尉    鎌田三郎左衛門の尉
  中御所の御方
    騎馬
  (御輿寄せ)刑部少輔 (同)弾正少弼  越後右馬の助  新相模の三郎
   遠江の七郎      越後の四郎   宮内権大輔   三河の前司
   武藤少卿       後藤壱岐の前司 加賀の守
    歩行
   城五郎左衛門の尉    出羽七郎左衛門の尉   上総太郎左衛門の尉
   信濃判官次郎左衛門の尉 隠岐三郎左衛門の尉   小野澤の次郎
  明日御笠懸有るべきに依って、射手の事、太郎殿の祇候人並びに然るべき諸家の家人
  等催し具せらるべきの由、行方・景頼仰せを奉り、小侍所に触れ申すと。
 

4月25日 丙辰
  極楽寺の御第に於いて御笠懸有り。
  射手
   相模の三郎       同七郎         遠江の七郎
   城五郎左衛門の尉    信濃次郎左衛門の尉   大隅修理の亮
   甲斐三郎左衛門の尉   城の彌九郎       上総太郎左衛門の尉
   信濃判官次郎左衛門の尉 小野澤の次郎      武石新左衛門の尉
   三浦六郎左衛門の尉   信濃次郎左衛門の尉
  次いで小笠懸有り。而るに近代強ちこの芸を翫ばざるの間、凡そ堪能の人無し。最明
  寺禅室これを覧て、御自讃有り。小笠懸の芸に於いては太郎尤もその体を得たり。こ
  れを召し射せしめんと欲すと。上下太だ入興す。時に太郎殿鎌倉の御亭に御座す。仍
  って専使を以てこれを請じ奉らる。城の介泰盛の奉行として御物具等を用意す。御馬
  は長崎左衛門の尉これを献る。御的は武田の五郎三郎造進し、工藤次郎右衛門の尉こ
  れを立つ。すでに馬場に列し、御馬(鬼鴾毛と号す)を出さるるの処、この御馬兼ね
  て遠笠懸に慣れるの間、的の前を馳せ過ぎんと欲す。仍って弓の引目を制せられ御駕
  を留めらる。爰に禅室一度通るの後射るべきの由仰せらるるの時、一度馳せ通るの後
  射せしめ給う。その御矢的串一寸ばかりの上に中たり、的塵の如くして御烏帽子の上
  に挙がる。則ち馬場末より直に鎌倉に馳せ帰り給う。諸人の感声・動揺暫く止まず。
  将軍家の御感再三に及ぶ。禅室吾家に至り、それ継器を受くべきに相当たるの由仰せ
  らると。酉の刻将軍家極楽寺より還御す。
 

4月26日 丁巳
  亥の刻、前の隼人の正従五位上藤原朝臣光重法師(法名光心)卒す。
 

4月28日 己未 天晴、夜に入り雨降る
  今日午の刻暈見ゆ。その色青黄赤白なり。
 

4月29日 [五代帝王物語]
  関白は改まりて、二條前の関白(良實公、普光園院殿)成返給ふ。さるほどに一條前
  の摂政(實経公)左大臣に成かへり給て出つかへ給き。珍らしき事にてぞありし。