5月1日 壬戌
夜半大倉稲荷の辺聊か物騒す。彼の社壇、この間連々会合の輩有り。今夜夜行衆これ
を怪しみ、搦め取らんと欲するが故なり。悉く逃散すと。
5月5日 丙寅
御所の和歌御会有り。紙屋河二位・右大弁入道・越前の前司・陸奥左近大夫将監・後
藤壱岐の前司等参会すと。
5月11日 壬申 [続史愚抄]
辛酉御祈りの為徳政を行わる。新制二十一箇條宣下す。
5月13日 甲戌
今日昼番の間、広御所に於いて、佐々木壱岐の前司泰綱と渋谷太郎左衛門の尉武重と
口論に及ぶ。これ泰綱武重を以て大名たるの由を称する事有り。武重これを咎めて云
く、すでに嘲哢に亘るの詞なり。当時に於いては全く大名に非ず。先祖重国(渋谷庄
司と号す)は、誠に相模の国の大名の内なり。然る間貴辺の先祖佐々木判官定綱(時
に太郎と号す)牢籠の当初は、重国の門に到りその扶持に寄得す。子孫今大名と為す
かと。泰綱云く、東国の大小名並びに渋谷庄司重国等皆平氏に官し、彼の恩顧を蒙ら
ざると云うこと莫し。当家独りその権勢に諛わず。譜代相伝の佐々木庄を棄て、偏に
志を源家に運らし、相模の国に遷住す。知音の好を尋ね、重国以下の助成を得て身命
を継ぐ。右大将軍草創の御代に逢い奉り、度々の勲功に抽んで、兄弟五人の間十七箇
国の守護職に補せしむ。剰え面々受領・検非違使に任ぜしむる所なり。昔の牢籠更に
恥辱に非ず。還って面目と謂うべし。始め重国秀義を以て聟と為すの間、隠岐の守義
清を生ましめをはんぬ。聟に用いらるるの上は、それ馬牛の類に非ず、人倫たるの條
勿論か。この上過言せしむは頗る荒涼の事かと。列座衆悉く耳を傾け、敢えて助言に
能わずと。