1265年 (文永2年 乙丑)
 
 

1月1日 辛未
  日蝕なり。然れども去る夜より雨降り、蝕見えず。仍って御所を裹むに及ばず。椀飯
  (左典厩御沙汰)を行わる。但し御簾を垂れ出御無し(土御門大納言催すに依って、
  構え参らるると雖も、用意ばかりなり)。御劔役人は越後の守實時、御調度は越前の
  前司時廣、御行騰沓は秋田城の介泰盛。
   一の御馬 陸奥の十郎忠時     工藤次郎左衛門の尉
   二の御馬 越後の四郎顕時     武藤三郎兵衛の尉
   三の御馬 城六郎兵衛の尉顕盛   同九郎長景
   四の御馬 筑前四郎左衛門の尉行佐 同五郎左衛門の尉行重
   五の御馬 相模の七郎宗頼     工藤三郎左衛門の尉

[続史愚抄]
  日蝕。雨に依って見えず。蝕の御祈り、長者僧正降澄奉仕す。
 

1月2日 壬申 天晴
  椀飯(相州御沙汰)。御簾は前の大納言、御劔は中務権大輔教時、御調度は左近大夫
  将監公時、御行騰は備中の守行有。
   一の御馬 越後の四郎顕時     鵜沼次郎兵衛の尉国景
   二の御馬 式部太郎左衛門の尉光政 隼人三郎左衛門の尉光範
   三の御馬 城六郎兵衛の尉顕盛   同九郎長景
   四の御馬 出羽七郎左衛門の尉行頼 備中次郎左衛門の尉行藤
   五の御馬 越後の六郎實政     戸田兵衛の尉茂平
 

1月3日 癸酉 天晴
  椀飯(越後入道圓勝沙汰)。御簾は前の黄門、御劔は越前の前司時廣、御調度は右馬
  の助時親、御行騰は相模の四郎宗房。御馬五疋。未の刻将軍家左典厩の御亭に御行始
  め。御引出物例の如し。御劔は左近大夫将監義政、砂金は左近大夫将監時村、羽は左
  近大夫将監公時。
   一の御馬 相模の四郎宗政  武藤左衛門の尉頼泰
   二の御馬 三浦の介頼盛   同七郎
 

1月5日 乙亥 霽
  亥の刻六波羅の飛脚下着す。山門・園城寺騒動の事なり。

[北條九代記]
  時宗従五位上に叙す。
 

1月6日 丙子 天晴陰
  山門・園城寺騒動の事に依って、去る夜六波羅の使者、経任朝臣の奉書並びに注進状
  を持参す。御使は伊勢入道行願(使節に依って去年より在京す)。書状等披露有るべ
  し。而るに今年評定始め以前と雖も、急事たるの間日次の沙汰に及ばず。今日評定有
  り。但し人々布衣を着せず。また盃酌無し。これ評定始めの礼に非ざるか。近年此の
  如き例無し。相州出仕せしめ給う。尾張入道見西・越後の守實時・出羽入道道空・秋
  田城の介泰盛・縫殿の頭師連・太宰権の少貳入道心蓮・伊賀入道道圓・対馬の前司倫
  長・勘解由判官泰有等その座に候す。佐藤民部次郎業連事書等を執筆し、儀をはんぬ。
  泰盛・心蓮これを持参す。上覧の後使者を評議の座に召し、御返事を下さる。即時に
  使い帰洛せしめをはんぬ。
 

1月7日 丁丑 天晴
  将軍家鶴岡八幡宮に御参り。還御の後椀飯の儀有り。
 

1月12日 壬午 天晴
  御弓始め有り。
  射手
   一番 二宮の彌次郎時元    横地左衛門次郎師重
   二番 波多野の八郎朝義    早河の六郎祐頼
   三番 松岡左衛門次郎時家   柏間左衛門次郎行泰
   四番 小沼五郎兵衛の尉孝幸  海野の彌六泰信
   五番 渋谷新左衛門の尉朝重  平嶋の彌五郎助経
  今日評定始めを行わる。去る六日は臨時の儀なり。仍って吉日に就いて故にこれを始
  めらる。師連・泰盛事書を持参すと。
 

1月14日 甲申 霽
  御所の御鞠始め有るべきの由その催し有るに依って、数輩参上するの処、風烈しきに
  依って人々退出しをはんぬ。
 

1月15日 乙酉 天晴
  午の刻地震。今日御鞠始め。将軍家立たしめ御う(薄香の狩衣・御衣)。土御門大納
  言(布衣)・二條三位教定卿(布衣)・同少将雅有朝臣(布衣、上鞠一足)・中務権大
  輔教時・越前の前司時廣・右馬の助清時・木工権の頭親家・備中の守行有・武藤左衛
  門の尉頼泰・加藤左衛門の尉景経・鎌田次郎左衛門の尉行俊・内記左衛門の尉・同兵
  衛三郎(已上布衣)。凡そ十六人なり。晩頭に及び椀飯を行わる。
 

1月20日 庚寅 雷雨
  電光天を輝かし、雹を降らし地を動かすなり。
 

1月24日 甲午 陰
  今日の椀飯、馬数疋近習並びに医陰両道の輩に賜う。
 

1月30日 [北條九代記]
  時宗但馬権の守を兼ねる。