1265年 (文永2年 乙丑)
 
 

11月13日 丁未 天晴
  京都の御使兵部大輔範忠朝臣帰洛す。去る比下向す。これ御産無為の事を賀し申せら
  る。また勅撰の事と。
 

11月16日 庚戌
  明年正月御弓始めの射手等これを差し定めらる。相模左近大夫将監・弾正少弼等連署
  の奉書を下さると。
 

11月17日 辛亥 陰沍、霰常に降る
  今日御息所並びに若宮・姫宮御産所(相州親衛亭)より還御す。
 

11月19日 癸丑
  去る八日の僧事聞書到着す。若宮の別当僧正大僧正に転ず。これ御祈りの賞に依って
  なり。その除書を以て御所より宮寺に遣わさる。即ち一首の御詠を相副えらる。鎌田
  次郎左衛門の尉行俊御使たりと。
 

11月20日 甲寅
  信濃の国善光寺の事、且つは寺辺の悪党を鎮められんが為、且つは警固の為、奉行人
  を定め置かる。所謂和田石見入道佛阿・原宮内左衛門入道西蓮・窪寺左衛門入道光阿
  ・諏訪部四郎左衛門入道定心等なり。而るに員外の雑務に相交わり、不調の沙汰を致
  すの由訴訟出来するの間、今日評議に及ぶ。自今以後彼の奉行人等を停止せしむべき
  の旨仰せ出さる。且つはこの子細、当国守護人陸奥の孫四郎に触れ仰せらるる所なり
  と。