かヽりし後は小桜姫、荒次郎の不在を窺い日毎に庵室へ尋ね来て、重氏を助け種々の世
話を為す、或時荒次郎の衣破れたりと小桜姫、其不在に美事綻びを繕いけるが、荒次郎猟
より帰りて其衣を打眺め「世に不思議の事こそあれ、左衛門重氏が如何に山住居に馴れた
ればとて、縫針の業にまで長しとは思われず、やよ左衛門、此衣は誰人が繕いたるか」、
重氏夫も我が為せし業なりとは答え難く「されば其衣は情ある人に頼て繕わせ申し候」、
荒次郎「不思議やな、此山中には我等主従より外に人も無きに、何処に情けあるものヽあ
るべきぞ」、重氏「それは此山の麓に住居する女にて候、某が手業に及び難き事は、何時
も其人に頼み申すなり」、荒次郎「総じて此程訝かしき事の多ければ、子細を問わんと存
ぜしに、扨は左様の人あるか、何処のものにて名は何と申す」、重氏「名も知らず候えど
も、唯物を売り歩く女にて候、我君の為には心を尽さん人の多かるに、それをなさのみ咎
め給いそ」、荒次郎打案じ「物を売る女とあらば扨は末広を売るものか、我に情けの深く
して心を尽すは嬉しけれど、人の情けを受けられぬ我身ほど辛きものは無し、此後其女の
参りたらば、早く此地を立去って親の行方を尋ねよと諭すべし、もし其女永く当地に留ま
り、何時か我父の御耳に入りもせば、我は色香に迷うたりと思われて情けは却て仇となら
ん、又其女とて我身に心を尽す為に、親の事を忘れなば不孝の罪は遁れ難し、情けと云う
は私事、互に不孝の身とならんは口惜しき限りならずや」と苦しき胸中を物語り給う、左
衛門重氏容を改め「我君の仰せはさる事に候えども、某倩々案じ見るに、御父道寸公の心
解けて御勘気の御免あらんこと、今の有様にては俄に望むべからず、それを我君独り御慎
みを守り給い、斯る山中に朽ち果てヽ生涯埋木となり給わば、憚りながら是も御先祖へ御
不孝かと思い候、御家の大事を思し召さば、一人にても武勇ある味方を御殖しあり、当地
の領主と成り給いて三浦の御本家危からん時に、当地の兵を催し救に赴き給わば、其時こ
そ道寸公も御悦あって御勘気の解る便りとも成申さん、是一つには御本家を支え、又一つ
には余所ながら道寸公の武威を援け給う功ありて、却て御孝行の道と存じ候、夫等が為に
は小桜姫の如き世に得易からぬ御味方にて、姫君一人の御武勇は余の武士の百騎・二百騎
にも換難く候、然るを今すげ無く放ち遣給い、もし敵人の助けとならば是敵の武勇を増す
ものにて、親孝行の成され方とは申し難し、厚木大膳も今は唯我君の御決心を待ち候のみ
なれば、早く御心を定め給いて、一大事の御企てこそあらまほしく候」と折に触れて胸中
の画策を説き出す、荒次郎は黙然として暫く其言葉を思案せり「如何に思うとも父上の御
勘気解けざる上は、生涯埋木とならんこと是非も無し、もし父上の御許しあって当地に旗
を揚げよとの仰せならば、此厚木に一城を築き、四隣を征伐して東八カ国を我物にせんも
易けれど、子の身として父の心に背きなば、日月不孝の子を照さずとかや、先ず兎も角も
此庵室に身を忍び、世上の有様を眺めばや」と容易に心を動かし給わず、重氏は戻かしき
心地して独り思いを苦めける、斯る処に庵室の表に人音の聞えたり、「如何に此庵室の内
に荒次郎の君の渡らせ給うか」と音なう声に左衛門重氏、走り出で「やあそう云う御身は
初声太郎行重どの」、行重「扨は重氏どのか、我君は」、重氏「是に渡らせ給うなり、御
入りあれ」と誘えば、是も忠義の初声太郎、先ずいぶせき庵室の様子を見て竊に涙を流し
けり、