1268年(文永5年 戊辰)
 
 

正月
  蒙古高麗の牒状到来す。高麗の牒状使潘阜。

1月14日 [皇年代略記]
  坊門殿火事。

1月18日 [日蓮上人遺文]
  先年勘うの書安国論普合に就いて、言上せしめ候いをはんぬ。抑も正月十八日西戎大
  蒙古国の牒状到来す。これを以てこれを按ずるは、当日蓮聖人一分に候か。然ると雖
  も未だ御尋ねに預からざり候の間、重ねて諫状を捧げ、希いて御帰依の寺僧を停止し、
  宜しく法華経に帰せしむべし。(以下略)
    文永五年戊戌十月十一日     日蓮(花押)

1月24日 [五代帝王物語]
  一院はことし四十九にならせおはします。五十の御賀ひきあげて今年あるべきとて、
  麗はしく院の舞御覧の儀あり。(中略)南庭に座を敷て舞人楽人の座とす。新院(御
  深草)、東二條院(公子)を始まいらせて、御方々あつまらせ給。中務卿宮、僧侶た
  ちも参りあはせ給へり。公卿関白を始て四十三人座につく。
 
 

閏1月15日 [五代帝王物語]
  また舞御覧あり。麗しき御賀の儀いかばかりの事にてあらんずらむとおぼえしに、蒙
  古国とかやより牒状を奉る。高麗の牒を相副たり。宰府よりまづ関東へつげる。
 

2月6日 [五代帝王物語]
  関東より牒状をまいらせたり。是によりて御賀止めらる。公私本意無き御事なり。牒
  使は趙良弼と云者渡れり。高麗の使を副たり。牒状二通あり。一通は高麗の牒なり。
  蒙古状は文永三年九月の状なり。至元三年と載たり。高麗国去年八月の牒なり。数多
  の方物を相副て、正月一日太宰府に着たり。
**[東大寺蔵、元の牒写し]
   上天の眷命せる大蒙古皇帝、書を日本国王に奏ず。朕惟うに、古より小国の君も、
   境土相接すれば尚務めて講信修睦す。況や我が祖宗は天の明命を受けて区夏を奄有
   す。遙かなる方の異域にして威を畏れ徳に懐つく者は、悉く数うべからず。朕即位
   の初、高麗の无辜の民が久しく鋒鏑に疲るるを以て即ち兵を罷ましめ、その疆域を
   還し、その旄倪を反す。高麗の君臣は感戴して来朝せり。義は君臣と雖も、歓は父
   子の若し。計るに王の君臣のまたすでに之をらん。高麗は朕の東藩なり。日本は高
   麗に密邇し、開国以来また時に中国に通ずるも、朕が躬に至って一乗の使をもって
   和好を通ずることなし。尚王の国これを知ること未だ審かならざるを恐る。故に特
   に使を遣し書を持たしめ朕が志を布告す。翼くば今より以往、通問して好を結び、
   以て相親睦せんことを、且つ聖人は四海を以て家となす。相通好せざるは豈一家の
   理ならんや。兵を用うるに至る。それ孰んぞ好むところならん。王、それ之を図れ。
   不宣。
     至元三年八月 日
 

3月5日
  時宗執権に転ず(十八)。
 

* [五代帝王物語]
  是により官外記以下の勘文をめされて杖儀を行る。また仙洞の評定あり。四月十三日
  大神宮へ公卿の勅使を発遣せらる。右大将通雅卿勅使をつとむ。宣命は主上御手づか
  ら草をせさせおはします。清書にもやがて宸筆なり。返牒あるべきかと沙汰有て、菅
  宰相長成卿草して、経朝卿清書して関東へつかはされしかども、武家子細を申て遣は
  さず。所詮牒状の躰無礼なるによりて、返牒に及ばぬよし牒使に仰含て返却せらる。
 

4月25日 [高野山文書]
**関東御教書案
  諸国地頭請所の事、前々は、関東御口入の地に非ざる所々は、雑掌の訴えに依って、
  顛倒せらると雖も、所詮、自今より以後は、私の請所たると雖も、二十箇年相違無く
  ば、今更違乱有るべからず。その旨を存じ、下知せしむべきの状、仰せに依って執達
  件の如し。
    文永五年四月二十五日      相模守(時宗御判)
                    左京権大夫(政村御判)
  陸奥左近大夫将監殿
 

7月4日 [皇年代略記]
  彗星北に見ゆ。
 

8月25日 [皇年代略記]
  後宇多院立太子(御歳二歳なり)。
 

10月15日 [五代帝王物語]
  一院亀山殿にて御出家御逆修あり。青蓮院の法親王尊助御戒師に参給。やがて今日よ
  り大多勝院にて御逆修を始らる。僧衆八人なり。また御方々を始まいらせて、面々に
  引物を参らせらる。ゆゝしき見物にてぞありし。

10月20日 [武家年代記]
  夷国襲来。
 

11月 [武家年代記]
  松殿良基僧正逐電す。源恵法印遁世。善光寺火。