正月 [武家年代記]
神輿入洛。
1月23日 [中臣祐賢記]
**籐氏長者(藤原基忠)宣
春日社神人等申す東西金堂夜荘厳頭の事、社解此の如し。先ず当時の譴責を止めらる
べし。追って御計らい有るべきの由、長者の宣候所なり。仍って執達件の如し。
(文永六年)正月二十三日 右中弁経任
謹上 別当僧正御房
1月25日 [中臣祐賢記]
**興福寺別当請文
春日社神人等申す東西金堂夜荘厳頭の事、社解謹んで給いをはんぬ。先ず当時の譴責
を止め、追って御計らい有るべきの間、早く両堂に仰せ付けらるべし。此の如く候の
由、洩れ披露せしめ給うべく候、恐々謹言。
正月二十五日 権僧正實性
1月30日 [禰宸文書]
**関東御教書
大隅国御家人佐汰九郎宗親子息阿古丸代憲光申す所領の事、訴状これを遣わす。子細
状を見て、不日に論人菅井左衛門入道行念を召し逢うすべきの状、仰せに依って執達
件の如し。
文永六年正月三十日 相模守(時宗花押)
左京権大夫(政村花押)
陸奥守殿(時茂)
相模式部大夫殿(時輔)
2月3日 [鎌倉大日記]
三島焼く。小山長村卒す(五十三歳)。
2月12日 [久我家文書]
**六波羅御教書
近江国田根庄雑掌申す、一代一度検注の事、度々地頭光綱に相触れ候の処、代官重幸
の状此の如し。難渋有るべからざるの由、状に載せ候の上は、子細に及ばず候か。恐
々謹言。
二月十二日 散位(時輔花押)
陸奥守(時茂花押)
謹上 久我中将殿
2月16日 [鎌倉市立図書館所蔵]
**関東御教書
八幡宮谷々の事、僧坊の外在家相交じるの由その聞こえ有り。甚だ穏便ならず。早く
甲乙人の止住を停止せらるべきの状、仰せに依って執啓件の如し。
文永六年二月十六日 相模の守(時宗花押)
左京権の大夫(政村花押)
謹上 別当前の大僧正御房(隆弁)
[称名寺文書]
蒙古高麗の使等渡海の事。
蒙古人官人三人(同従人五人)、高麗人六十七人、船四艘対馬嶋豊岐浦に着くと云々。
2月22日[称名寺文書]
(蒙古着船の事)馳せ申しをはんぬ。
2月24日[称名寺文書]
(蒙古)本蕃に逃げ帰る事と云々。
3月13日 [称名寺文書]
(蒙古着船の事)評定をはんぬ。
4月27日
引付を始めらる。一見西、二実時、三義政、四時広、五泰盛
6月 [五代帝王物語]
太微宮右執法の星を、木火二星梯侵、この事我朝にはいまだ勘得無し。異朝には黄初
(魏)六年出現、同七年帝(文帝)崩。このほかは勘得ぬよし。
9月
蒙古、高麗の牒使重ねて到来す。牒使は全有成、高柔の二人なり。
[五代帝王物語]
蒙古使高麗の舟にのりて又対馬国に着く。去年の返牒なきによりて、左右きかんため
なり。不慮の喧嘩いできて、帰国の間、対馬の二人とられて高麗へ渡る。高麗より蒙
古へつかはしたれば、王宮へ召入て見て、種々の禄をとらせて本朝へ返送、是に付い
てまた牒状有。
10月17日 [称名寺文書]
蒙古牒一通、高麗牒一通これを持つ牒使二人、対馬嶋に着せしむの由、これを申すと
云々。彼至元六年六月日。而して院宣の如きは、通好の儀、唐漢の例に准え、子細に
及ぶべからず。但し彼の国と我が国と、昔より宿意無し。用兵の条、甚だ不義の旨を
以て、牒を返し遣わさるべきなり。且つは草は長成卿すべきの由、諸卿評定の由と云
々。而るに関東評定をはんぬ。先度牒使来朝の時、返牒有るべからざるの由と。
12月 [武家年代記]
蒙古来る。