1270年(文永7年 庚午)
 

1月2日 [鎌倉大日記]
  藝州宮島焼く。

1月11日 [鎌倉大日記]
  蒙古船対馬に寄せ来る。

1月*日 [本朝文書六十七]
**日本国太政官牒
    贈蒙古国中書省牒                菅原長成
  日本国太政官牒す、蒙古国中書省(高麗国使人に附け牒送)
  牒、太宰府去年九月二十四日の解状を得、去る十七日申時、異国船一隻、対馬嶋伊奈
  浦へ来着し、例に依って問い来る由を存ぜしむの処、高麗国使人参り来るなり。仍っ
  て彼の国並びに蒙古国牒を相副え、言上此の如し。てえれば、解状に就いて事情を案
  ずるに、蒙古の号、今に聞かず。(以下略)
 

2月23日
  将軍家御元服。加冠は政村朝臣。
 

3月7日
  始めて城の介泰盛の亭に入御す。

3月15日 [壬生家文書]
**相秀書状案
  「筑後、越州、相州、異国御祈りの事」
  異国御祈りの事、先日の宣旨に任せ、諸寺施行せしめんと欲し候の処、宣下せらる如
  きは、読経誦呪すべきの由、これを載せられ候と雖も、何経、何呪たるべきの由、こ
  れを載せられず候、もし諸寺不審成る事候は、何様返答せしめ候べきや。異国の事に
  於いては、先例分明ならず候、準拠の例に任せ候の処、或いは仁王経転読せしむべし。
  或いは諸寺図画不動せしむべきの由、宣下せられ候か。所詮重き御計らいに随い、急
  ぎ施行せしむべき候なり。また恐惶謹言。
   (文永七)三月十五日       侍儀師相秀
  壬生殿

3月19日
  八幡宮に御参宮。
 

8月21日 [皇年代略記]
  五條内裏火事。

8月29日 [新編追加]
**関東御教書
  国々狼藉の事、近年本所一円庄園に於いて、闘諍合戦を致すと雖も、禁制能わざるの
  間、雅意に任せ、狼藉結構するの由、その聞こえ有り。早く子細を本所に申し入れ、
  炳誡を加うべきなり。てえれば、仰せに依って執達件の如し。
    文永七年八月二十九日      相模守(判)
                    左京権大夫(判)
  相模式部大夫殿
 

11月22日 [近江奥津嶋神社文書]
**近江奥津百姓等契状
  もしこの旨そむき、かへりちうおもせん者に於ては、在地を追うべきものなり。
    文永七年十一月二十二日
 

12月20日 [鎌倉大日記]
  惟康親王左中将に任ず。同日源姓を賜る。