1271年(文永8年 辛未)
 

8月10日
  評に云く、寛元元年より康元元年に至る御成敗の事、右自今以後に於いては、三代将
  軍並びに二位家御成敗に准え沙汰を改むるに及ばず。
 

9月2日 晴 [吉続記]
  関東使高麗の牒状を随身し、西園寺大納言の許に向かう。亞相参院し申し入ると云々。

9月4日 晴 [吉続記]
  件の牒状の趣、蒙古兵日本に責め来るべし。また糶を乞い、この外救兵を乞うか。状
  に就いて了見区々分る。

9月5日 晴 [吉続記]
  藤翰林茂範祇候す。御前に召され、牒状二通を読らる。停滞無くこれを読み申す。

9月13日 [肥後小代文書]
**関東御教書
  蒙古人襲来すべきの由、その聞こえ有るの間、御家人等を鎮西に差し遣わす所なり。
  早速自身肥後国の所領に下向し、守護人に相伴い、且つは異国の防戦を致さしめ、且
  つは領内の悪党を鎮むべし。てえれば、仰せに依って執達件の如し。
    文永八年九月十三日       相模守(花押)
                    左京権大夫(花押)
  小代右衛門尉子息等

9月19日 [五代帝王物語]
  筑前国今津に異国人趙良弼を始として百余人来朝の間、軍船と心得て宰府さはぎけれ
  ども、その儀はなくて是も牒状なり。但唐櫃に納て金鎖を指て王宮へ持参して帝王へ
  献れ。それ叶はずば時の将軍に伝へて参すべし。その儀もなくば持て帰べき由王勅を
  承たれば、手をはなつべからずとて、案を書て出したり。是も返牒に及ばず。

9月21日 [吉続記]
**亀山天皇宣旨
  文永八年九月二十一日宣旨
   近日上天示変、冲襟無聊、しかのみならず、西蕃の使介有り。北狄の陰謀を告ぐ。
   縡之希夷、怖畏是衆、永劫災難、宜しく泰平を致すべきの由、仁王会呪願文に載せ
   しむべし。
                    蔵人左衛門権佐平棟望(奉)
  蒙主国に於いては、経史を見ず。今北狄書せしむの状、太だ以て不審、誰人の諷諫や。

9月22日 晴 [吉続記]
  仁王会呪願文の事、仰せ出さるる事等有り。蒙古北狄たる事不審の由これを申し出づ。
  作者の所存の如きは、高麗の書ニ蒙古を北朝とこれを書く。仍ってこれを載すと云々。
  高麗より北に当たり、日本より北に当たらざれば、道理に背くべきか。経史に不詳の
  上は、決し難きものなり。

9月23日 [吉続記]
  呪願文草合の句、改め直すべきの由、仰せ下さると云々。北狄の事、先年の高麗状ニ
  蒙古を北朝皇帝とこれを書くの由、奉行職陳謝すと云々。猶然るべからざるか。
 

10月
  蒙古の牒状重ねて到来す。使は趙良弼。前々返牒無きに依って、今度の牒者良弼直に
  大将軍に伝うべし。案文を出し、正文は献らず。

10月23日 晴 [吉続記]
  蒙古船今津郡(件の所太宰府より相隔てること三里)に着岸す。牒状を捧ぐと云々。
  この事に依って東使入洛し、西園寺大納言亭に向かう。亞相仙洞に参り執奏す。仍っ
  て俄に今日評定有るの由、師中納言奉行と云々。

10月24日 晴 [吉続記]
  異国の事去る夜の評議、関白殿、花山院前右府、内府、権大納言、吉田中納言、師中
  納言参仕すと云々。朝使直に帝都に持参すべし。然ざれば手を放つべからずの由これ
  を申す。蛮夷の者帝闕に参る事先例無し。牒状の趣承るべきの由、少卿問答す。これ
  に就いて、彼の朝使牒状を書き写し、少卿に与う。彼の状関東よりこれを進す。その
  趣、度々牒状有りと雖も、返牒無く、この上は来十一月を以て期と為すべし。猶無音
  たらば、兵船を艤すべしと云々。返牒有るべしと云々。先度長成卿の草少々引き直し
  遣わさるべしと云々。事の次第すでに以て大急ぎ、獲鱗に及ぶか。
 

11月26日 [鎌倉大日記]
  駿河の守義宗鎌倉を立つ。北方六波羅。
 

12月
  良弼、使者張鐸を本国に渡す。翌年五月張鐸帰り来り、高麗の牒状又持ち来る。