1272年(文永9年 壬申)
 

2月 [鎌倉大日記]
  宗尊親王出家、法名覚恵。

2月1日 [野上文書]
**豊後守護(大友頼泰)廻文
  筑前、肥前両国要塞守護の事、東国の人々下向の程、来三月晦日より奉行国々の御家
  人を相催し、警固すべきの由、関東の御教書到来す。仍って且つは役所を請け取り、
  且つは御家人の御代官等を差し置かれんが為に、すでに打越候いをはんぬ。不日に彼
  の所を相尋ね、懈怠無く、勤仕せしむべく候なり。恐々謹言。
   (文永九年)二月朔日       頼泰(花押)
  野上太郎(輔直)殿

2月8日 [中臣祐賢記]
**春日神主康道廻文
  法皇(後嵯峨)昨日(未刻)崩御の由、聞こしめ給い候、これに就いては、京都定め
  て諒闇の儀候か。方々御使下さしめ給わず候ば、御祭の式、何様たるべく候や。社行
  たるべく候か。用意として各先例を勘がえ、参らしめ給うべく候なり。恐々謹言。
    二月八日            神主泰道
  謹上 正預殿并殿原御中

2月11日
  尾張の入道見西、遠江の守教時誅せらる。但し見西その咎無きに依って、討手五人、
  大蔵の次郎左衛門の尉、渋谷の新左衛門の尉、四方田の瀧口左衛門の尉、石河神次左
  衛門の尉、薩摩の左衛門三郎等刎首せらる。教時が討手に於いては賞罰無し。中御門
  の中将實隆朝臣召し禁しめらる。その外殃に遇う人これ多し。
[武家年代記]
  尾張の入道見西の亭に於いて、舎弟遠江の守教時、同子息宗教以下誅せられをはんぬ。
  (以下同前)
[新編追加]
**関東御教書
  自今以後、御勘当を蒙る輩有るの時、追討使仰せを蒙り相向かわざるの外、左右無く
  馳せ向かうの輩に於いては、重科に処せらるべきの由、普く御家人等に相触れしめ給
  うべきの状、仰せに依って執達件の如し。
    文永九年二月十一日       左京権大夫(判)
  謹上 相模守殿

2月15日
  式部の大夫時輔六波羅に於いて誅せらる。[時に二十五歳]
[系図]
  (会津)三浦四郎光盛息盛信(六郎左衛門尉)、北條時輔の縁者として自害。
[五代帝王物語]
  暁より武家さま何とやらむ物騒なる様に聞えしほどに、今日浄金剛院の涅槃講なれば、
  恒例の事なるうへ、今年は釈尊入滅の干支に当たれば、殊に折節もあはれをとりそへ
  て、僧衆も袖をしぼりて行ふ程に、六波羅にすでに合戦するといふ程ぞある。やがて
  火いできて、烟おびたゞしくみゆれば、いとゞ世中かきくれて、何とやらんと覺るほ
  どに、門守護の武士ども一人もなく、皆はせむかふ。京中おびたゞしきくれにぞ有し。
  去年十二月に関東より左近大夫将監義宗上て六波羅の北方にあれば、もとの式部大輔
  時輔はもとより南方にあり。この暁鎌倉より早馬つきて後、なにとなくひしめきて、
  人もいたく心得ざりけるに、南方の時輔を討べしとて押よせければ、とりあへぬ有さ
  まなりけれども、おもふほどは戦たりけるやらん。はては火をかけて、多の者共或は
  打死、或は焼死もありけり。さしも人のおぢ恐てありしに、纔に一時の中にかく成ぬ
  ること、武家のならひ、皆かくはあれども、ことにはかなき夢とみえて、あぢきなく
  おぼえ侍。

2月16日 [五代帝王物語]
  猶なごりもあるべしと、さまざまきこえしかば、さならぬ月日にだにこの折ふしかい
  とゞいかにあるべしとも覺えず。われも人もあきれてのみ有しに、六波羅より使をま
  いらせて、謀叛のきこえ候つるをめしとりて、別事なきよしを申たれば、すこしおち
  ゐたる心ちしてぞありし。

2月17日 [皇年代略記]
  法皇亀山殿別院薬艸院に於いて崩ず(五十三、後嵯峨院と号す。遺勅に依ってなり)

2月20日 [皇年代略記]
  御骨を浄金剛院に安置す(権中納言兼太宰権師経任卿頸を懸け奉る)。

2月28日 [肥前武雄神社文書]
**少貮資能書下
  六波羅殿より下し給い候所の今月十一日の関東御教書并副え下さるる六波羅殿御下知
  同二十六日到来す。案を写しこれを献る。御教書の状の如きは、謀叛の企て有るの輩、
  今月(十一日)召し取られをはんぬ。今に於いては、別事無き所なり。驚き存ずべか
  らず。且つ鎮西地頭御家人等参上すべからざるの由、相触れらるべきの旨、仰せ下さ
  れ候所なり。然らば御教書の状に任せ、参上有るべからざるの儀候なり。恐々謹言。
    二月二十八日          沙彌(花押)
  武尾大宮司殿
 

*[五代帝王物語]
  五旬ののち、女院の御方にて、御附属状をひらかれて、前の左府筆を執て、御方々の
  御分かきわけて、奉行院司親朝朝臣を御使にて、内裏新院へ参らせらる。されども御
  冶世の事は関東計申べし。六勝寺鳥羽殿なども御冶世につくべきよし仰をかる。さて
  関東へは仁治に践祚ありし事は、泰時計申たりしかばその例違ふべからず。彼の例に
  任て内裏新院の間いづれにても計ひ申べしと、宸筆の勅書にてつかはさる。
 

5月17日 [薩藩旧記]
**覺恵覆勘状
  関東御教書下され候異国警固の事、去る四月十七日より上府せられ候今月十六日迄、
  博多津番役勤仕せられ候いをはんぬ。恐々謹言。
    五月十七日           覺恵(花押)
  盛岡二郎殿「平忠俊」
 

7月25日 [薩摩比志島文書]
**覺恵(少貮資能)覆勘状
  関東御教書を下され候異国警固事、去六月二十四日より今月二十四日迄、博多津番役
  勤仕せられ候いをはんぬ。恐々謹言
    七月二十五日          覺恵(花押)
  薩摩国干嶋太郎殿代河田右衛門尉殿
 

8月25日 [出羽安田文書]
**将軍家政所下文
  将軍家政所下す  平若鶴丸
   早く越後国白河庄上條内安田條地頭職を領知せしむべき事
  右、亡父左衛門の尉時實法師文永七年十月二十一日の譲状に任せ、先例を守り沙汰を
  致すべきの状、仰せの所件の如し。以て下す。
    文永九年八月二十五日      案主菅野
    令左衛門の少尉藤原       知家事
    別当左京権大夫平朝臣(政村花押)
      相模守平朝臣(時宗花押)
 

10月5日 [鎌倉大日記]
  蒙古博多に来る。

10月20日 [東寺百合文書]
**関東御教書案
  諸国田文の事、公事支配の為に召置かるるの処に、欠け失わしむと云々。駿河、伊豆、
  武蔵、若狭、美作国等の文書、早速調進せらるべし。且つ神社佛寺庄公領等、田畠の
  員数と云い、領主の交名と云い、分明に注し申さしめ給うべし。てえれば、仰せに依
  って執達件の如し。
    文永九年十月二十日       左京権大夫(在御判、政村)
  謹上 相模守殿
 

11月3日 [東寺百合文書]
**内管領平頼綱奉書案
  諸国田文の事、御教書案此の如し。早く仰せ下さるるの旨に任せ、若狭国分注進せし
  め給うべし。仍って執達件の如し。
    文永九年十一月三日       左衛門の尉頼綱
  渋谷十郎殿

11月11日 [右田家文書]
**前陸奥守下文写(疑文書)
  長門国右田嶽守護右田太郎貞代嫡孫太郎弘盛、今年五月西海洋沖に於いて蒙古合戦の
  刻、忠戦を抽んで無類の働き、其身家人等重創を被る條、莫大の戦功と云々。忠賞と
  して守護に附らるる所、豊後国六箇(山田、木部、野上、美喜田、用松、由布院)、
  筑後国二箇庄(生葉、鰺坂)を宛行う所なり。先例に任せ、沙汰を致すべきの状件の
  如し。
    文永九年十一月十一日      前陸奥守
  裁判奉行人中
 

12月25日 [八幡宮関係文書]
**大友頼泰書下案
  大隅八幡宮大神寶調進の間、絹粮米并官使豊後経府雑事等の事に准え、宇佐宮の例に
  准え、配符の旨を守り、不日に勤仕せしめ給うべし。且つ宣旨、御教書の如きは、寺
  社権門領を論ぜず、先々の勤否を謂わず、勅免の地たりと雖も、平均に催勤すべしと
  云々。然れば縦え所存の所々有りと雖も、先ず進済の後、不日に奉行所に向かい、道
  理に任せ明らかに申すべきなり。而るに子細を申すべきの由と称し、遁避せしむに於
  いては、更に難事を行う者歟。仍って執達件の如し。
    文永九年十二月二十五日     前出羽守(在判)
  豊後国郡郷庄園地頭代沙汰人御中

12月26日 [東大寺要録二]
**関東御教書案
  東大寺衆徒申す寺領美濃国大井庄の内樂田郷の事、重経法師の押領を停止せらるるの
  由、鎌倉二位中将殿御消息候なり。恐惶謹言。
    (文永九)十二月二十六日    相模守(時宗在判)
                    左京権大夫(政村在判)