1273年(文永10年 癸酉)
 

1月17日
  酉の刻、彗星長一尺余数日に及ぶ。
 

3月23日
  客星乾の方に見ゆ。この春の大雪例年に越ゆ。
[八幡宮文書]
**豊後守護(大友頼泰)書下案
  正八幡宮大神寶官使等申す狼藉の由の事、訴状此の如し。子細何様の事か。不日に上
  府を企て、陳じ申せしめ給うべきなり。仍って執達件の如し。
    文永十年三月二十三日      前出羽権守(在判)

3月29日 [金澤文庫文書]
**金澤實時書状
  世戸堤内入海殺生禁断の事、下知状書き進せしめ候、もし違犯の輩候は、政所に触れ
  仰せらるべく候なり。恐惶謹言。
    三月二十九日          實時
 

4月2日 [金沢文庫文書]
**左衛門尉俊氏請文
  六浦庄世戸堤内入海殺生の事、自今以後停止せらるる所なり。早くその旨を存知、固
  く禁断を加うべし。もし違犯の輩有らば、交名を注し申すべき由の事、謹んで承り候
  いをはんぬ。仰せ下さるるの旨に任せ、その沙汰を致すべく候、この旨を以て、披露
  せしめ給うべく候、恐惶謹言。
    文永十年四月二日        左衛門の尉俊氏請文(裏花押)
 

5月11日 [八幡宮関係文書]
**大友頼泰書下案
  大神寶催促官使等申す、当役難渋の由の事、申し状此の如し。子細何様の事や。所詮、
  且つは傍例に依って、且つは宣旨、御教書に任せ、先ずその弁えを致さしむの後、別
  の存知有らば、申し沙汰をせらるべきなり。仍って執達件の如し。
    文永十年五月十一日       前出羽守(在判)
  高田庄地頭代殿

5月13日 [八幡宮関係文書]
**豊後高田庄地頭代盛實請文案
  正八幡宮大神寶用途の事、度々奉行所に申さしめ候如く、私の計らい事に非ざり候の
  間、此の如く御催促次第、正員三浦の介殿に申し候、脚力近日罷り下るべくにて候、
  その左右を承り候て、沙汰を致すべく候、御披露有るべく候、恐惶謹言。
    文永十年五月十三日       左衛門の尉盛實(在判)

5月14日 [八幡宮関係文書]
**大友頼泰書下
  正八幡宮大神寶用途の事、宣旨、関東御教書並びに奉行所施行に背き、今に対捍する
  の条、太だ然るべからざるか。且つ康元元年造宇佐宮の時、関東御教書の如きは、事
  を正員に寄せ難渋せしめば、その身を追却し、交名を注し申すべしと云々。而るにこ
  の大神寶即ち宇佐宮の例を守らるる所なり。盍ぞその恐れ成らんか。神寶の船すでに
  纜を解くの折節なり。縦え所存有りと雖も、先ず懈怠無く弁えを致すの後、申し沙汰
  有るべきなり。この上その意を得難くば、今明中上府を企て問答せしむべきなり。仍
  って執達件の如し。
    文永十年五月十四日       前出羽守(在判)
  高田庄地頭代殿

5月17日 [八幡宮関係文書]
**豊後高田庄地頭代藤原盛實申状案
   早く狼藉に任せその科を実行せられんと欲す、大隅正八幡宮大神寶用途催促使と称
   し、数多の御使を放ち付けられ、当庄地頭政所に押し寄せ、散々狼藉の余り、家内
   の障子遣戸を打ち壊し、妻子恥辱を与えられ術無き子細の事
  件の條、昨日(十六日)巳の刻、彼の御使等地頭政所に押し寄せ、家内に乱入し、障
  子遣戸を破損し、妻子に恥辱を与う。或いは門前に於いて種々の狼藉を致し、自ら鬢
  髪を引き乱し地に倒れ伏す。或いは火長と号すの赤色水干を同門前に投げ捨て、宿所
  小公文の許に罷還るの間、即ち彼の火長を取り、御使宿所に送り遣わすの処、同酉の
  刻に及び、御使等また彼の火長を持ち来たり、政所に投げ捨てをはんぬ。所行の企て、
  甚だ以て存外なり。これ等の次第、且つ昨日御使播磨房並びに九郎(実名等知らず)
  に指し遣わされこれを見知らせむと雖も、元より狼藉に同心せしむるの間、注進せず。
  併しながら彼の無道の申し状を注進せらるの条、検見の法に非ざるか。御使の驕餝顕
  然てえりや。然れば則ち彼の狼藉遁れ難きの上は、早く罪科の実に任せ、その科に行
  われてえり。尤も仰す所なり。仍って憲法の御裁許に預からんが為、ほぼ言上件の如
  し。
    文永十年五月十七日
**大友頼泰書下案
  高田庄地頭代左衛門の尉盛實申す、正八幡宮大神寶用途催促の間、家内を打ち壊し、
  恥辱を妻子に与う由の事、訴状此の如し。事実ならば、縦え催使たりと雖も、過分の
  狼藉に於いては、太だ然るべからざるか。早く明らかに申せらるべきなり。仍って執
  達件の如し。
    文永十年五月十七日       前出羽守(在判)
  官使催使等中

5月20日 [八幡宮関係文書]
**大隅八幡宮官使関東奉行所使国衙使陳状
  正八幡宮大神寶官使並びに関東奉行所御使及び国衙使等謹んで弁得申す
   豊後国高田庄地頭代左衛門の尉盛實大神寶用途難渋の余り、数百人の勢を率いて、
   宣旨、御教書使等を打擲蹂躙せしめながら、自ら科を省せんが為、還って御使等狼
   藉を致す由、種々虚言を構え申し、謂われ無き子細の事
  右、件の大神寶は、朝家の御大事、関東の御大営なり。(中略)盛實先例を顧みず、
  自由の難済致すの間、今月九日御使等入部するの処、一向叙用せしめず。(中略)盛
  實同十六日巳の刻数百人の勢を催し集め、狼藉を結構するの間、火長、関東御使等を
  取り籠め、打擲蹂躙せしむに依って、すでに半死半生の間、実検の御使等を申し下し
  をはんぬ。子細ほぼ彼の御使等注進せらるるか。而るに盛實自身の悪行を閣き、御使
  等家内に乱入し、障子遣戸を打ち破り、恥辱を妻子に与うの由掠め申すの条、奸謀な
  り。その故は、地頭所に行き向かう所の御使三人内(小使、火長、関東御使)等なり。
  盛實の下知に随い狼藉結構の輩数百人の間、門内に立ち入らず、何ぞ況や障子遣戸破
  損有るの儀や。高察暗く在るべきか。且つ盛實自称の如きは、御使等自ら鬢髪を引き
  乱し地に倒れ伏す。或いは火長を門前に投げ捨つと云々。狼藉の条すでに承伏の上は、
  御不審無きか。爰に倩事情を案ずるに、石垣庄地頭代迎西此の如き狼藉を致すの間、
  犯否を尋ねらるると擬すの処、高田庄に隠居し、即ち京都に逃げ上りをはんぬ。盛實
  と迎西と内々通計与力同心の由、ほぼ疑貽成るの処、すでに盛實同じく勝事を引き出
  すの条、結構の趣、符号せしむるものか。所詮、盛實以下の輩狼藉の条、実検の状明
  白の上、もし御不審相貽さば、不日に両方を召し決せられ、御注進に預からんが為、
  仍って披陳言上件の如し。
    文永十年五月二十日

5月22日 [八幡宮関係文書]
**大友頼泰書下
  大神寶官使等と当庄と相論狼藉の由の事、訴陳状並びに検見状の如きは、子細不分明
  の間、道理に任せ、その道を遺さんが為に、且つ不日に出対せしめ給うべきなり。仍
  って執達件の如し。
    文永十年五月二十二日      前出羽守(在判)
  高田庄地頭代名主御中

5月26日 [出雲日御崎社文書]
**関東御教書
  出雲国日三崎御社領分殺生禁断の事、もし禁制に背く輩は、甚だ理無し。仍って所領
  の半分を召さるべし。佐々木信濃前司相共に注進せらるべきなり。てえれば、仰せに
  依って執達件の如し。
    文永十年五月二十六日      武蔵守(政村花押)
                    相模守(時宗花押)
  三崎検校殿

5月27日
  入道正四位下行右京権の大夫平朝臣政村卒す。
 

閏5月2日 [八幡宮関係文書]
**大友頼泰書下案
  大神寶官使等申す即役の事、今に事行わざるの条穏便ならず。急ぎその明を致すべき
  なり。且つ経廻の程雑事傍例に任せ、その沙汰有るべく候、仍って執達件の如し。
    文永十年後五月二日       頼泰(在判)
  高田庄地頭代沙汰人御中

閏5月4日 雨下る [吉続記]
  関東の左京大夫政村、去る月二十七日に死去すと云々。惜しむべし。

閏5月7日 晴 [吉続記]
  今日議定延引す。政村の事に依ってなり。

閏5月12日 晴 [吉続記]
  関東政村朝臣の事に依って、御訪いとして時景(左衛門の尉、本所有官)関東に下向
  すと云々。

閏5月18日 [八幡宮関係文書]
**大友頼泰書下案
  大神寶官使催使等と高田庄地頭代名主と相論、火長以下の小使を蹂躙し、餓死に及ば
  んと擬するの事、両方申す所参差するの間、左右無く是非せられ難く、仍って両方に
  尋ね究め、注進言上せんが為に、相互に当時の相論を止め、不日に上府せしめ給うべ
  きなり。仍って執達件の如し。
    文永十年後五月十八日      前出羽守
  両方御中

閏5月29日 [蓬左文庫所蔵]
**菊池武房書状
  畏み啓せしめ候
  左京権大夫(政村)殿御非常の由、承り及び候、殊に以て驚き歎き入り候の間、参入
  を企て申し入るべき候の処に、異国の事に依って、鎮西の地頭御家人等、参向せしむ
  べからざるの由、御教書を下され候の間、参拝仕らず候の条、恐れ存じ候。仍って相
  親しく候出田又太郎泰経これを進上せしめ候。この旨を以て、御披露有るべく候。恐
  惶謹言
   (文永十年)後五月二十九日    藤原武房状(花押)
  進上 平岡左衛門の尉殿
 

6月25日
  引付頭、一実時、二時村、三宗政、四時広、五泰盛
[八幡宮関係文書]
**関東御教書案
  大隅正八幡宮大神寶用途の事、備前次郎宗長の状これを遣わし、狼藉を致すと云々。
  早く子細を申すべきの状、仰せに依って執達件の如し。
    文永十年六月二十五日      駿河守(義政在判)
                    相模守(時宗在判)
  大友出羽前司殿
 

7月1日 庚辰 晴 [吉続記]
  小除目を行わる。頭中将奉行なり。関東武蔵の国司を挙し申す。仍って俄に行わる。
 

8月10日 [高野山文書]
**関東下知状案
  遠江国那賀庄御下知状に云く、
  次百姓等唯願を用いべからずの由、神水を喰い鐘を突く事、所行の企て、誡めざるべ
  からざるか。張本の仁に於いては、その身を召し下し、流罪にせらるべきか。(自余
  條々これを略す)、以前の條々、鎌倉殿の仰せに依って、下知件の如し。
    文永十年八月十日        武蔵守平朝臣(義政在判)
                    相模守平朝臣(時宗在判)

8月20日 [八幡宮関係文書]
**大友頼泰書状案
  正八幡宮大神寶官使と豊後国高田庄地頭代盛實と相論仕候即役並びに狼藉の事、両方
  の申す所参差候の間、子細を尋ね究め、注進言上せんと擬し候の処、地頭代は出対せ
  ず候、官使はまた頻りに訴え申し候の故、訴陳状具に書き目録相共に謹んでこれを進
  覧す。委細各見状に候、この条何様たるべく候や。便宜の時御披露有って、仰せ下さ
  るべく候か。頼泰恐惶謹言。
    文永十年八月二十日       前出羽守頼泰
  進上 対馬玄番允殿
     勘解由判官殿
 

10月5日 [八幡宮関係文書]
**豊後朝見郷弁分、花藤名百姓等起請文案
   尋ね下され候大隅国正八幡宮大神寶官使、催使と豊後国石垣庄弁分地頭代名主等、
   相論候当役催促の間、狼藉実否の事
  右、今年(文永十)三月二十一日、大神寶官使木工允守国、関東奉行所御使代権三郎
  (実名知らず)、国衙使籐五郎大夫吉永(当国在廰)、同子息籐五郎介(実名知らず)
  等、当国朝見郷より石垣庄に罷移るの時、当郷百姓六人送夫として彼の庄に行き向か
  うの処、石垣庄地頭代迎西庄民等一二百人を催し集め、庄内に入り立つべからざるの
  由結構せしめて、当庄若宮前に於いて同庄住人等、催使壹人別二三人、馬口に取付て
  相防ぐの間、官使等馬より下り地頭政所に入らんと擬すの刻、朝見郷送夫六人に於い
  ては、石垣庄住人等の為に、先に彼の馬口に付き、同庄堺を追い出され、その後同じ
  く人勢を以て、官使等を即ち庄堺に追い出すの間、守国は立烏帽子を肩に落懸て、そ
  の所に平居するの上、吉永同じく即所に平居しをはんぬ。その外使同籐五郎介並びに
  今壹人は、本鳥を取り乱しをはんぬ。然りと雖も、朝見郷民等は、最前より追い出さ
  るるの間、この外の子細を知らず候。(以下略)
    文永十年十月五日
                    朝見郷弁分百姓
                       全王彌二郎宗安(在判)
                       釈迦太郎宗吉(同)
                    同郷花藤名百姓
                       源三郎(同)
                       五郎太郎宗重(同)
 

11月3日 [日蓮聖人遺文]
**日蓮書状
  (前略)今年日本国一同飢渇の上、佐渡国七月七日已下、天より忽ち石灰虫と申す虫
  雨に、一時に稲殻損失し、その上疫々処々に遍満、方々死難脱れ難きか。事々紙上に
  これを尽し難し、恐々謹言。
    十一月三日           日蓮(花押)
  土木殿御返事

11月11日 [肥後本妙寺文書]
**関東奉行人連署奉書(要検討)
  日蓮法師赦免有るべき由、仰せ出され候、早々召し返すべく候、仍って執達件の如し。
    霜月十一日           教家(判)
                    久家(判)
 

12月7日 [元祖化導記下]
**関東御教書(要検討)
  佐渡国流人僧日蓮弟子等を引率し、悪行を巧らむの由、その聞こえ有り。所行の企て
  甚だ以て奇怪なり。自今已後、彼の僧に相随うの輩に於いては、炳誡を加えしむべし。
  猶以て違犯せしめば、交名を注進せらるべきの由、候処なり。仍って執達件の如し。
    文永十年十二月七日       沙彌観恵
  依智六郎左衛門の尉殿