2月4日 [薩摩比志島文書]
**小貮経資書状案
蒙古警固結番の事、使者民部次郎兵衛の尉国茂を以て、啓せしめ候、聞こし食され候
て、披露せしめ給うべく候、恐々謹言。
(文永十二年)二月四日 太宰小貮経資(在判)
進上 竹井又太郎殿
蒙古警固結番の事
春三ヶ月 筑前国、肥後国
夏三ヶ月 肥前国、豊前国
秋三ヶ月 豊後国、筑後国
冬三ヶ月 日向国、大隅国、薩摩国
文永十二年二月 日
2月5日 [出雲岩屋寺文書]
**後宇多天皇綸旨
遍照院勅願寺として、邦家安全を祈り奉るべし。聖運遠長者、天気此の如し。仍って
執達件の如し。
(文永十二)二月五日 右大弁(花押)
当寺住持覺満上人殿
4月 [高祖遺文録]
**日蓮書状
(文永11年10月条分略)又今度は如何か有らん。彼国の百千萬億の兵、日本国を
引回して寄て有ならは、如何に成へきそ。北の手は先佐渡の島に付て、地頭、守護を
は須叟に打殺し、百姓等は北山へにけん程に、或は殺され、或は生取れ、或は山にし
て死すへし。(後略)
建治元年乙亥四月 日 日蓮(花押)
4月15日
大元の使長門の国室津浦に着く。
5月12日 [肥後志賀文書]
**大友頼泰書下案
蒙古人用心番、惣名志賀太郎に就いて、勤仕せらるべき由の事、その旨を存ずべく候、
仍って執達件の如し。
文永十二年五月十二日 前出羽守(在判)
[東寺百合文書]
**関東御教書案
長門国警固の事、御家人不足の由、信乃判官入道行一言上せしむの間、周防、安藝を
寄せらるる所なり。異賊襲来の時は、早く三ヶ国相共に、防戦せしむべきの状、仰せ
に依って執達件の如し。
建治元年五月十二日 武蔵守(義政在判)
相模守(時宗在判)
武田五郎次郎殿
6月5日 [野上文書]
**豊後守護大友頼泰書下
西方要害警固の事、用意の為、来七月朔日より、同月晦日に至り、壱番衆の内として、
筑後国守護所辺に、むかひまうけさせ給へく候、長番合期難く候の間、結番せしめ候
なり。彼の七月朔日よりはしめて壱ヶ月番にて、三番かへりにて候ハんするなり。自
身重病なとにて参勤難く候ハん人ハ、その由の誓状を書付候て、減気の程は、御子息
を代官にたてらるへく候、また当番にあらす候とも、異敵来着所へハ、所をかへす、
皆馳せ向かわるべく候、恐々謹言。
建治元年六月五日 前出羽守(花押)
野上太郎殿
6月18日 [東寺百合文書]
**関東御教書案
蒙古牒使長門国に来着の時、地頭御家人護る催促所々の事、甚だその謂われ無し。所
存を弁じ申すべきの由、相触しむべきの状、仰せに依って執達件の如し。
建治元年六月十八日 武蔵守(在判)
相模守(在判)
武田五郎二郎殿御方
7月6日
引付、一実時、二時村、三宗政、四公時、五泰盛
7月12日 [皇年代略記]
山門食堂顛倒。
7月17日 [大友文書]
**関東御教書案
異賊去年襲来の時、或いは戦場に臨み闘い進さず、或いは当境を守ると称し馳せ向か
わざるの輩、多くその聞こえ有り、甚だ不忠の科を招くか。向後もし忠節を致さざれ
ば、注し申さしむに随い、罪科に行わるべきなり。この旨を以て、普く御家人等に相
触れしむべきの状、仰せに依って執達件の如し。
建治元年七月十七日 武蔵守(在判)
相模守(同)
大友兵庫入道殿
8月
件の牒使五人関東に召し下さる。
9月7日
瀧口に於いて首を刎ぬ。
一、中須大夫禮部侍郎杜世忠(年三十四大元人)、詩を作て云く、
出門妻子贈寒衣、問我西行幾日帰、来時儻佩黄金印、莫見蘇秦不下機
二、奉訓大夫兵部郎中何文着(年三十八唐人)、頌を作て云く、
四大元無主、五蘊悉皆空、両国生霊苦、今日斬秋風
三、承仕郎回々都魯丁(年三十二回々魯人)
四、書状官薫畏国人杲(年三十二)
五、高麗訳語郎將除(年三十三)、詩を作て云く、
朝廷宰相五更寒、寒甲将軍夜過関、十六高僧由末起、算来名利不如閑
今度首を刎ねる事、永く窺い覦むを絶ち、攻むべからざるの策なり。その後警固の事
沙汰有り。鎮西守護人の器用を撰補し海辺の国々に発し遣わす。京都の大番役を止め、
左京の人を差し置かる。公家、武家公事を減省し、倹約を行い、民庶を休む。皆これ
軍旅用意の為なり。
*[日蓮聖人遺文]
**日蓮書状
鎌倉より事故なく御下の由承候て、うれしさ申計なし。又蒙古の人の頸を刎られ候事
承候、日本国の敵にて候念仏、真言、禅、律等の法師は切れすして、科なき蒙古の使
の頸を刎られ候ける事こそ、不便に候へ、子細を知さる人は勘へあてて候を、おこり
て云と思ふへし。(以下略)
(健治元年)乃時 日蓮(花押)
西山殿(御返事)
9月14日 [近江胡宮神社文書]
**関東御教書案
異国降伏の事、近江国中御祈祷所寺社に於いて、丹誠を抽んで、慇懃の祈請を致すべ
きの由、相触れらるべく候や。仰せに依って執達件の如し。
建治元年九月十四日 武蔵守(在御判)
相模守(在御判)
佐々木壱岐入道殿
9月22日 [山城前田軍八所蔵文書]
**豊後守護大友頼泰書下
蒙古人警固の事、九十両月は、その疑い有るべきの由、その聞こえ候の旨、西方守護
人の許より、告げ送られ候なり。用意の為、今月中、先立って筑後国守護所辺に下し
儲けしめ給うべく候、但し重病に依って参勤し難くの仁は、その由の誓状を書き送り、
且つ平癒の程は、子息親類若党一人も洩さず、差し遣わすべく候、もし十月朔日以前
下着無き人々は、その日数に於いては、勤越せらるべく候、此の如き事懈怠候は、関
東に注進すべきの旨、一同催促せしめ候なり。仍って執達件の如し。
建治元年九月二十二日 前出羽守(花押)
野上太郎殿
9月27日 [中臣祐賢記]
**亀山上皇院宣
異国御祈りの事、頃年以来連々仰せ下され候いをはんぬ。定めて懈怠の儀無きか。而
るに近日殊に誠精を抽んで、祈請申さるべし。てえれば、院宣此の如し、仍って執達
件の如し。
(建治元年)九月二十七日 内蔵頭(在判)
春日神主舘
9月28日 [中臣祐賢記]
**春日神主泰道請文
異国御祈りの事、日来の懇祈不懈候と雖も、重ねて仰せ下され候の趣を以て、殊に丹
誠を抽んずべく候、御披露洩らし有るべく候、泰道恐惶謹言。
九月二十八日 春日神主泰道請文
10月7日 [近江胡宮神社文書]
**左衛門尉公綱書下
異国降伏の事に依って、当国中の御祈祷所寺社に於いて、丹誠を抽んで慇懃の御祈祷
をせらるべきの由、去る九月十四日関東の御教書案進せられ候、仰せ下さるる旨に任
せ、祈請せしめ給い候、但し異国の事これを相鎮め、□長日の御祈祷経巻、その外員
数、御請文に載せ給うべく候、関東に進上せしむべく候なり。恐々謹言。
十月七日 左衛門の尉公綱(判)
謹上 敏満寺衆徒御中
10月21日 [豊前宮成文書]
**関東寄進状案
宇佐宮御宝前
豊前国到津、勾金両庄地頭職の事
右、聖朝安穏異国降伏の為、殊に御祈願有って、寄進せらるる所なり。てえれば、鎌
倉殿の仰せに依って、奉寄件の如し。
健治元年十月二十一日 従五位上相模守平朝臣時宗
10月29日 [筑後高良神社文書]
**将軍家政所下文案(疑文書)
将軍家政所下す、博多津に於いて、去る文永十一年蒙古襲来の刻、肥後、薩摩、日州、
隅州の諸軍馳参の砌、筑後河神代浮橋、九州第一の難処の処、神代良忠調略を以て、
諸軍輙く打ち渡り、蒙古退治の事、偏に玉垂宮冥慮、扶桑永代安利たるの由、仰せの
所件の如し。
健治元年十月二十九日
別当相模守平朝臣(判)
11月5日 [皇年代略記]
伏見院立太子(後宇多院継嗣未だ生れず。関東これを申し行う)
11月6日 [豊後都甲文書]
**鎮西東方奉行召文
蒙古人合戦勲功の事、重ねて子細の御尋ね有り。今月拾日以前に、御代官に差し進ぜ
しめ給うべくの旨、御沙汰候なり。恐々謹言。
健治元年十一月六日 (小田原)景泰(花押)
眞玉又二郎殿
伊美兵衛二郎殿
都甲左衛門五郎殿
11月21日 [兼仲記裏文書]
**北條時宗巻数請取
異国降伏巻数給い候いをはんぬ。丁寧の條有り難く候、謹言。
十一月二十一日 相模守(在判)
鹿嶋神主殿
12月8日 [東寺百合文書]
**関東御教書案
明年三月比、異国を征伐せらるべきなり。梶取、水手等、鎮西もし不足せしめば、山
陰、山陽、南海道等を省き充つべきの由、太宰の少貳経資に仰せられをはんぬ。安藝
国海辺知行の地頭御家人、本所一円地等に仰せ、兼日に梶取、水手等を催し儲け、経
資相触せしめば、彼の配分の員数を守り、早速博多に送り遣わせしむべきなり。てえ
れば、仰せに依って執達件の如し。
健治元年十二月八日 武蔵守
相模守(在判)
武田五郎次郎殿