1276年(建治2年 丙子)
 

1月20日
  亥の刻、御所(相州の舘)焼失す。親衛(宗政)の舘に入御す。二所の御精進火事に
  依って延引す。
 

3月5日 [諸家文書]
**大友頼泰書下
    異国発向用意の條々
  一 所領分限、領内大小船(呂敷)並びに水主、梶取の交名(年齢)、注し申さるべ
    し。兼ねてまた来月中旬を以て、博多津に送付するの様、相構うべき事
  一 異国に渡るの時、相具すべき上下の人数(年齢)、兵具、固く注し申さるべき事
   以前の條々、且つはその用意を致し、且つは今月二十日以前に、注し申せしめ給う
   べし。もし遁避に及ばば、重科に行わるべきの由、その沙汰なり。仍って執達件の
   如し。
    建治二年三月五日        前出羽守(花押)
  野上太郎殿

3月8日 [豊後日名子文書]
**北條宗頼書状
  大友左近蔵人泰弘、去々年合戦の時、忠を抽んずる由の事、訴訟の為参上せしむべき
  の旨、歎き申し候と雖も、今一両月は、故更に異国警固の事、緩怠有るべからず候の
  間、先ず使者を以て子細を申すべきの由、口入しめ候なり。内々御心得として申さし
  め候。恐々謹言。
    三月八日            修理亮(花押)
  平左衛門尉殿

3月10日 [肥前深江文書]
**少貮経資石築地役催促状
  異国警固の間、要害石築地の事、高麗発向の輩の外、奉行国中に課し、平均に沙汰を
  致し候所なり。今月二十日以前に人夫を相具し、博多津に相向かい、役所を請け取り、
  沙汰を致さるべく候、恐々謹言。
    建治二年三月十日        少貮(花押)
  深江村地頭殿

3月21日 [肥前武雄神社文書]
**少貮経資書状案
  異国征伐の為、武士を遣わされ候、同じく罷り渡るべきの由、仰せ下され候なり。恐
  々謹言。
    建治二年三月二十一日      経資(在判)
  武雄大宮司殿

3月30日 [石清水文書]
**肥後窪田庄僧定愉請文
  異国征伐の為、注し申すべき勢並びに兵具、乗馬等の由の事、今月二十五日当所御施
  行、同二十九日到来、謹んで以て拝見せしめ候いをはんぬ。抑も先度仰せ下され候旨
  に任せ、愚身勢並びに兵具員数、去る十日既に押領使河尻兵衛の尉に付けしめ候。今
  重ねて仰せ下され候旨に任せ、これを注進せしめ候所なり。この旨を以て御披露有る
  べく候や。定愉恐惶謹言。
    建治二年三月三十日       窪田庄預所僧定愉
**同上注進状
  肥後国窪田庄預所僧定愉勢並びに兵具乗馬等の事
  一 自身(歳三十五)
    郎従一人、所従三人、乗馬一疋
  一 兵具
    鎧一両、腹巻一両、弓二張、征矢二腰、大刀
  右、仰せ下され候旨に任せ、注進の状件の如し。
    建治二年三月三十日       窪田庄預所僧定愉
 

閏3月1日 [石清水文書]
**藤原重行請文
  異国征伐御催促の事
  去る三月二十五日の御札、以て同月三十日酉の刻、畏み拝見仕り候いをはんぬ。抑も
  先度参上仕り候時、三月十七日を以て、人数の交名、物具の員数仰せの旨に任せ注し
  申さしめ、到着に付せしめ候いをはんぬ。この旨を以て、これを御披露あるべく候、
  恐惶謹言。
    建治二年閏三月一日       久米預所兵衛志藤原重行(裏花押)

閏3月5日 [薩藩旧記]
**島津久時書下案
  高麗征伐の為、武士を遣わされ候、同じく罷り渡るべくの由、仰せ下され候なり。恐
  々謹言。
    建治二年後三月五日       久時(御判)
  大隅五郎殿

閏3月11日 [陸奥留守文書]
**将軍家政所下文
  将軍家政所下
   早く左衛門の尉家政、陸奥国宮城郡南宮庄内の荒野七町並びに岩切村地頭職を領知
   すべき事
  右、養母宮城尼文永六年十月十八日の譲り状に任せ、彼の職として、先例を守り、沙
  汰を致すべきの状、仰せの所件の如し。以下。
    建治二年閏三月十一日      案主菅野
    令左衛門少尉藤原        地家事
    別当相模守平朝臣(時宗花押)
    武蔵守平朝臣(義政花押)

閏3月21日 [皇年代略記]
  三條坊門殿火事。
 

5月 [鎌倉大日記]
  小山判官時長卒す(三十一歳)。
 

6月5日 [阿波徴古雑抄]
**関東御教書
  井上右衛門入道信願申す阿波国浦新庄図師職並びに名田畠及び作毛刃傷の事、訴訟こ
  れを進す。尋ね沙汰せらるべくの状、仰せに依って執達件の如し。
    建治二年六月五日        武蔵守(義政花押)
                    相模守(時宗花押)
  陸奥左近大夫将監(義宗)殿
 

7月3日 乙未 [勘仲記]
  殿下に参る(番)。武家使者二人を差し進す。中門に於いて予子細を尋ね問い申し入
  る所なり。宗兼父随阿法師武家領に居住の事、守護代に相尋ぬる処、去る月比逐電す
  るの由、守護代請文を西園寺大納言の許に遣わしをはんぬ。未だ御奏聞及ばざるやの
  由これを申す。この趣申し入れをはんぬ。

7月18日 庚戌 晴 [勘仲記]
  後聞。御霊祭神輿近衛室町を過ぎしむの間、制止の飛礫を為す。武士少々相随いこれ
  を守護す。その間遊手浮食の輩神輿の御行を供奉し、飛礫の興を催し武士を打擲せし
  む。近衛殿御所の前に於いて闘乱不慮に出来す。武士矢を雑人等の中に放つ。下家司
  為茂流矢に中る。即ち御所中に舁き入れ療治を加えしむと云々。

7月20日 壬子 [勘仲記]
  雨降り、終夜休まず。鴨川の水済々焉の間、宇治御出浮き橋の事亘り難きの由、奉行
  志章敢えて子細を申すの由、政所これを申し上ぐ。書状を以て御所に申し入るの処に、
  水中車馬通せしめば、浮き橋無きと雖も御出有るべし。但し全分沙汰無きは然るべか
  らず。近辺浮き橋具を用意し候ずべきの由仰せ有り。その由政所に仰せをはんぬ。

7月26日 [皇年代略記]
  興福寺金堂已下火事。
[大和春日神社文書]
**関東御教書
  興福寺訴え申す宗兼、宗政の事、院宣謹んで下し給い候いをはんぬ。宗兼関東家人役
  の事、去年四月十四日の状に於いては、召し返し候いをはんぬ。その事に至ては、宜
  しく聖断在るべきの旨、鎌倉二位中将殿申すべくの由候、この旨を以て、披露せしめ
  給うべく候、恐惶謹言。
    七月二十六日          相模守時宗(裏花押)
  進上 右馬権頭入道殿
 

8月24日 [東寺百合文書]
**関東御教書案
  異国用心の事、山陽、南海道勢を以て長門国を警固せらるべきなり。地頭補任の地に
  於いては、来十月中、子息を差し遣わすべきの由、仰せ下されをはんぬ。早く安藝国
  の地頭、御家人並びに本所一円の地の住人等を催し具し、長門国を警固せしむべきの
  状、仰せに依って執達件の如し。
    建治二年八月二十四日      武蔵守
                    相模守(在判)
  武田五郎次郎殿

8月28日 [島津家文書]
**安達泰盛添状
  御恩の御下文一通これを進しめ候、御拝領の条悦び存じ候、恐々謹言。
    八月二十八日          秋田城介(花押)
  謹上 大隅修理亮(久時)殿
 

9月1日 壬辰 晴 [勘仲記]
  南都の宗懐法印参る。宗兼関東の御教書を帯して参洛す。仙洞門守護の事を奏す。件
  の状院よりこれを進ぜらる。

9月17日 [勘仲記]
  殿下に参る。南都寺社並びに七大寺閇門の由、尊清僧都これを申す。宗兼縁者順弘今
  日配所に遣わすの由武家これを申す。

9月24日 乙卯 陰晴不定 [勘仲記]
  殿下に参る。南都寺社閇門の事に依って、勅使並びに長者の御使明日下し遣わさるべ
  し。左少弁忠世勅語を含み、南曹弁長者の宣を奏す。忠世参りこの趣を奏す。予これ
  を申し次ぐ。
 

11月11日 [勘仲記]
  弁尹並びに舜長、宗圓等不日にその身を召し進す。所領に於いては、悉く没収すべき
  由、寺家に仰せらるべし。てえれば、殿下の御気色に依って、執啓件の如し。
    十一月十一日          冶部少輔兼仲
  謹上 右中弁殿
 

12月4日 [鎌倉大日記]
  駿河の守義宗関東に下向す。

12月7日 [薩摩宮里文書]
**島津久時催促状案
  役所の警固並びに構事、関東度々の御教書に就いて、国に於いて度々これを催促す。
  見参の時、直に申し候いをはんぬ。また當参の時、催促度々候、一向に沙汰無く候の
  条、存知難く候、近日関東の御使下向するの由、その聞こえ候、今月中その功を遂げ
  らるべく候、是非返状を承り存知べく候、恐々謹言
    十二月七日           久時(在判)
  宮里郡司殿

12月15日
  戌の刻、御所(宗政の舘)また焼失す。