1277年(建治3年 丁丑)
 

1月27日 [比志島文書]
**島津久時覆勘状
  筥崎役所築地の事、満家院内比志嶋、南俣、河田、前田、以上四ヶ名分五丈壱尺肆寸、
  勤仕せられ候いをはんぬ、仍って状件の如し
    正月二十七日          久時(花押)
  比志嶋太郎殿
 

4月4日 [鎌倉大日記]
  義政出家、法名通義。時に三十六歳。四月以来時宗一判。
 

5月17日 [中臣祐賢記]
**藤氏長者(鷹司兼平)御教書
  春日の神木宇治に入御の事、範譽法印申状にて申し入れ候処、殊に驚き思し食され候、
  但し宗兼すでに関東に下向するの由、風聞候上は、爭か然る如き沙汰に及び候やの由、
  思し食さるるの旨候所なり。この旨を以て披露せしめ給うべく候、恐々謹言
    五月十七日           右少弁信輔

5月25日 [中臣祐賢記]
**大和春日社神主廻文
  今日(酉の刻)衆中より中綱(幸忍)を以て、来二十八日の御進発延引有るべきの由、
  昨日御使を以て仰せ下さるるの間、先ず延引せしめをはんぬ。且つ彼の御沙汰を守る
  べく、もし寺の所存相違の事出来せしめば、何時たりとも、社家を勤め奉るべき事等、
  先例に任せ違乱無く、用意せしむべきの由、触れ送られ候なり。各々御存知有るべく
  候、恐々謹言
    五月二十五日          執行正預祐継
  謹上 権官並びに氏人中

5月28日 [鎌倉大日記]
  義政善光寺に詣で、信州塩田に住す。
 

7月5日 [班島文書]
**大友頼泰書下
  筑後国御家人守部彌次郎盛通、同四郎盛時、同六郎光盛等申す蒙古合戦の事、申し状
  此の如し。実正に任せ、起請の詞を載せ、左右を申さしめ給うべし。仍って執達件の
  如し。
    建治三年七月五日        頼泰(花押)
  班嶋右衛門三郎殿

7月14日 [武家年代記]
  長講堂炎上。
[皇年代略記]
  六條殿以下焼亡。

7月15日 [皇年代略記]
  常磐井殿火事。

7月19日
  新造の御所へ御移徙。

7月23日 [建治三年記]
**関東評定事書(部分)
  一、去る十四日長講堂回禄、同十五日夜常盤井殿炎上の事、
   西園寺殿の御書到来す。御使い(伊勢四郎左衛門尉)を進せ驚き申さるべし。評定
   以後召しに依って山内殿(園殿)に参るの処、仰せ下されて云く、佐藤中務相共に
   京都の仁の所領を注し抽んずべしと云々。仍って晩景に至りこれを注す。諏方左衛
   門入道相触れて云く、駿州、若一の意見御免有り。その旨を存ずべしと云々。
 

8月2日
  山内亭に入御す。

8月5日 [建治三年記]
**関東評定定文
  上野の国雑人奉行の事、駿州に仰せ付けらるべしと云々。即ち御書下を書き御判を申
  しをはんぬ。興福寺、去る月廿六日雷火の為炎上するの由、西園寺殿これを注し申さる。

[大和春日神社文書]
**西園寺實兼書状
  興福寺訴え申す宗兼、宗政の事、関東の状此の如し。披露せしめ給うべし。仍って執
  達件の如し。
    八月五日            東宮大夫實兼
  謹上 新大納言殿

8月9日 [大和春日神社文書]
**西園寺實兼請文
  興福寺学侶訴え申す宗兼等の事、この旨を以て、早く関東に申すべく候、仍って執達
  件の如し。
    八月九日            春宮大夫實兼
 

9月7日 [薩摩比志島文書]
**関東御教書案
  走湯山造営の事、莫彌兵衛入道、市来入道、谷山郡司等、対捍を致すと云々。早く催
  し沙汰せしむべし。仰せに依って執達件の如し。
    建治三年九月七日        相模守(御判)
  大隅修理亮殿

9月12日 [大橋文書]
**亀山上皇院宣
  興福寺訴え申す宗兼の事、伊豆国に配流すべきの由、重ねて関東に申すべく候、且つ
  この御意を得しめ給うべし。仍って執達件の如し。
    九月十二日           春宮大夫實兼

9月19日 [薩摩八田家文書]
**関東御教書
  異国警固の事、平均役たるべきの条、公家武家の御沙汰厳重なり。而るに本所進止の
  社寺庄公並びに地頭補任の関東の御領等、各々権威に募り、守護の催促に背き、課役
  を対捍するの由、普くその聞こえ有り。所存の企て罪科を招くか。薩摩国中然る如き
  所々有らば、早く交名を注進せしむべきの状件の如し。
    建治三年九月十九日       相模守(在御判)

9月20日 [雨森善四郎蒐集文書]
**北條時宗請文
  興福寺訴え申す宗兼、宗政伊豆国に配せらるべき事
  院宣慎んで下し給い候いをはんぬ。召し下すべきの由、時国に下知せらるるの旨、申
  すべくの由候、この趣を以て、披露せしめ給うべく候、恐惶謹言。
    九月二十日           相模守時宗(花押)
 

11月10日 [建治三年記]
**関東評定定文
  出羽大夫判官頼平、筑前大夫判官行重座次の事、頼平座上たるべきの由、院宣下され
  をはんぬ。((佐原)業連これを読み申す)
 

12月 [鎌倉大日記]
  左近将監時国入洛。南。

12月10日 [建治三年記]
**関東評定定文
  山門座主の御文、諏方左入の為これを下され奉る。両門合戦の事と云々。

12月15日 [高野山文書]
**関東御教書
  遠江国那賀庄雑掌申す當庄百姓等預所に違背の由の事、訴状此の如し。子細見状、早
  く先の御下知の旨に任せ、彼の百姓等を召し進ぜられべきの状、仰せに依って執達件
  の如し。
    建治三年十二月十五日      相模守(在御判)
  武蔵前司(義政)殿

12月16日 [建治三年記]
**関東評定定文
  一、山門座主吉水前の大僧正(道玄)申さるる事(諏方これに付す。使い憲聴)
   御書並びに使いの申す詞の如きは、去る月廿三日日吉の御祭たるの間、勅使を守護
   し神事を全うすべきの由、院宣を下さるるに依って、門徒に差し遣わし問答するの
   処、梨本に日来立籠る衆徒左右無く矢を放つの間、不慮の外合戦に及ぶと云々。て
   えれば、両門合戦の條驚き存ずるの旨、御詞を以て仰せ含めらるべきか。次いで御
   使いを京都に差し進せ尋ね沙汰有るべし。宇津宮下野の前司・信乃の判官入道当座
   に於いてこれを差され、来廿七・八日比進発すべしと云々。

12月17日 [高野山文書]
**北條義政下知状
  那賀庄雑掌申す當庄百姓等預所に違背の由の事、御教書に訴状を副えこれを遣わす。
  仰せ下さるるの旨に任せ、彼の百姓等を召し進ぜしむべきの状件の如し。
    建治三年十二月十七日      (在御判)
  遠江国守護代山城兵衛次郎殿

12月19日 [増鏡]
  春宮(伏見宮)の御元服、八月と聞えしを、奈良の興福寺の火の事により、延びて今
  日にぞせさせ給ひける。
[建治三年記]
**関東評定定書
  奥州申さる六波羅政務の條々
  (前略)
  一、奥州上洛の事、京都守護の為差し上せらるるの由、西園寺殿に申し入るべきなり
    (御教書案草し進しをはんぬ。島田六郎に付す)。
  一、越後左近大夫将監(時国)、奥州相共に六波羅の雑務を致し署判を加うべきの由、
    仰せらるべきなり(当座これを書き御判を申す)。

12月23日 [鎌倉大日記]
  左京権の大夫時村鎌倉を立つ。

12月25日 [建治三年記]
**関東評定事書
  一、山門の事。
   当座事書を草し進す。その状に云く、山門の事、去る十一月廿三日社頭に於いて両
   方既に合戦を致すの由、その聞こえ有り。未だ仰せ下されざるの間、子細を存じ知
   らざると雖も、事黙止せられ難きに依って、景綱・行一を差し進す所なり。且つは
   先年確執有るべからずの由両門怠状を進すの処、今この悪行に及ぶの條、甚だ以て
   濫吹なり。向後の梟悪を断たられんが為、根元と云い下手と云い、能々誡めの御沙
   汰有るべきか。
  一、遠江の十郎左衛門の尉、杉本六郎左衛門の尉郎従を殺害する事、武州の御領たる
   津軽に流さるべきの由評しをはんぬ。
  評定以後、城務・康有・頼綱・真性御前に召さる。御寄合有り。