1278年(建治4年 2月29日改元 弘安元年 戊寅)
 

1月10日 [鎌倉大日記]
  時村入洛、北。
 

2月21日 [鎌倉大日記]
  時村沙汰始め。
 

5月12日 [武家年代記]
  日吉の神輿三社入洛す。三井金堂供養に依ってなり。蘭渓和尚寂す、諡大覚禅師。禅
  師号ここに始まる。
 

7月30日 [山田家譜]
**関東御教書案
  走湯山造営の事対捍の間、御教書を成さると雖も、叙用せずと云々。甚だ自由なり。
  不日に惣領支配に随い、沙汰を致すべし。もしなお難渋に及ばば、その咎有るべきの
  状、仰せに依って執達件の如し。
    弘安元年七月三十日       相模守(在御判)
  大隅入道孫子等中
 

8月14日 [薩摩入来院文書]
**関東御教書案
  渋谷五郎四郎入道定佛後家尼妙蓮、同子息重道等申す余一重貞狼藉の事、重ねて訴状
  此の如し。その沙汰有らんが為、重貞に於いては、召し進ぜらるべきの由、仰せ下さ
  れをはんぬ。而るに彼の妻女並びに代官、美作国河會郷内に於いて、悪行を致すと云
  々。甚だ穏便ならず。重貞と云い、同妻女と云い、早速召し進ぜらるべきの状、仰せ
  に依って執達件の如し。
    弘安元年八月十四日       相模守(在御判)
  陸奥守(時村)殿
  越後左近大夫将監(時国)殿

8月15日 [東京大学法学部所蔵文書]
**六波羅御教書案
  東大寺学侶等申す三面僧坊新庄、周防国与田保季貢並びに條々非法の事、重ねて訴状
  此の如し。この事先日尋ね下され、早く弁え申さるべきなり。仍って執達件の如し。
    弘安元年八月十五日       左近将監(御判)
                    陸奥守(御判)
  与田武者二郎入道殿跡
 

10月18日 [磐城飯野文書]
**関東御教書
  式部次郎右衛門の尉光泰代光弘申す、陸奥国好嶋西庄年貢運上人夫の事、先度仰せ下
  さるるの旨に背き、難渋せしむと云々。甚だ自由なり。早くその沙汰を致すべきの状、
  仰せに依って執達件の如し。
    弘安元年十月十八日       相模守(花押)
  好嶋小太郎殿
 

閏10月13日 壬辰 晴 [勘仲記]
  丑の刻皇居炎上。予衣を倒まに殿下に馳せ参る。万里小路殿御出、予御共に祇侯す。
  主上腰輿に駕し御出、即ち万里小路殿に渡御す。入御の後、殿下、左大臣、右大臣、
  内大臣殿已下雲霞の如く参らる。上皇即ち常磐井殿に御幸、仙洞たるべしと云々。
[増鏡]
  十月ばかり、また二條内裏に火出で来て、いみじうあさまし。万里小路殿は、ありし
  火の後、またつくられて、今年八月に、御わたましにて、新院(亀山)すませ給へれ
  ど、内裏焼けぬれば、この院また内裏なりぬ。

閏10月28日 丁未 晴 [勘仲記]
  来十二月二十四日興福寺上棟次いで春日詣でを遂ぐべく候。諸司諸国役の事例に任せ
  相催すべし。また公卿殿上人催さるべし。渡御の車の事申請すべし。已上三ヶ條吉日
  を以て奏聞せらる。勅答に云く、條々例に任せ沙汰有るべしと云々。
 

11月3日 [皇年代略記]
  内裏火事。

11月6日 甲寅 晴 [勘仲記]
  御春日詣で諸司諸国役等相催す所なり。諸国御教書に云く、
   摂政殿仰せられて称く、来月二十四日興福寺上棟次いで春日詣で有るべし。禄料織
   物褂一重、期日以前に懈怠無く調進すべき由、宜しく仰せ遣わすべし。てえれば、
   仰せの旨此の如し。これを悉せ。以て状す。
     十一月六日          治部少輔兼仲
   謹上 尾張の守

11月8日 丙辰 晴 [勘仲記]
  殿下に参り申す春日詣で條々の事、武家より使者二人参入し、掠摘東庄並びに春日社
  頭の事を申し入る所なり。

11月12日 庚申 晴 [勘仲記]
  殿下に参る。興福寺上棟今年中都て延引すべからざる由、寺家内々申さると云々。水
  無きに依って材木遅引に及はば、形の如く仮棟上げらるべきか。この上は御下向の事
  一定たるべし。懈怠無く申し沙汰すべきの由仰せ下さる。
 

12月16日 [書陵部本参軍要略抄下裏文書]
**関東御教書
  堀尾又太郎行綱申す、尾張国堀尾庄と長岡庄堺の事、訴状此の如し。早く本所に触れ
  申し、注進せらるべきの状、仰せに依って執達件の如し。
    弘安元年十二月十六日      相模守(在判)
  陸奥守殿
  越後新左近大夫将監殿