1279年(弘安2年 己卯)
 

* [鎌倉大日記]
  時宗大元に使を遣わし禅僧有名の者を招く。明州太守祖元を以てこれに充つ。
 

2月2日 乙卯 晴 [勘仲記]
  夜に入って殿下に参る。関東城の介泰盛朝臣、御馬二疋(一疋鞍置き)、御剱一腰(菊
  作)、砂金五十両、予に付けて進入せしむ。召し具す使者参り申し入る所なり。御馬
  二疋御厩舎人布衣を着しこれを請け取る。御剱並びに砂金はこれを返し遣わさる。

2月6日 癸未 晴 [勘仲記]
  今暁山門神輿を振るい奉るべきの由、その聞こえ有り。京中頗る騒動す。三宮神輿一
  基振り上げ奉ると云々。衆徒訴えの事織田庄の事、去る夕院宣を下さるると云々。こ
  の上は静謐の由また聞こえ有り。
 

3月6日 [武家年代記]
  清涼寺大念仏を始む。
 

4月10日 [東大寺文書]
**六波羅御教書案
  東大寺学侶等申す美濃国茜部庄越訴の事、訴状これを遣わす。子細状に見て、早く参
  洛を企て、明らかに申すべきの状件の如し。
    弘安二年四月十日        左近将監(在判)
                    陸奥守(在判)
  茜部庄地頭代

4月11日 [大隅臺明寺文書]
**六波羅御教書案
  去年三月の比、硫黄嶋に流し遣わす所の殺害人松夜叉丸(南都児童)子細を尋ねらる
  べき事有り。雑色友貞に就いて、早速以て守護し、進らさるべきなり。仍って執達件
  の如し。
    弘安二年四月十一日       左近将監(在御判)
                    陸奥守(在御判)
  千竈六郎入道殿
 

5月4日 [鎌倉大日記]
  八幡の神輿入洛す。同八日還御。

[吉続記]
  八幡神輿入洛の由風聞す。院の御所武士等群参するの由、その告げ有るの間、衣を倒
  に御所に参る。人々済々参集す。神輿五條東の洞院に振り棄て奉り、神人等逐電すと
  云々。この事去る夜よりその聞こえ有り。仍って武士を差し遣わされ警固す。而るに
  御入洛、武士相御ぐの間、神人一両人命を殞とし、或いは疵を被ると云々。神人等の
  訴訟、大山崎神人と赤山(日吉末寺)神人と相論の事なり。去々年より沙汰有り。未
  だ落居せず。

[山城阿刀文書]
**亀山上皇院宣案
  八幡の神輿今日入洛し候。當時神民等泥土に棄て置き奉ると云々。御帰座の程、先ず
  今夜東寺に入れ奉らるべきなり。存じ知るべきの由、下知せしめ給うべきの旨、院の
  御気色候所なり。仍って執達件の如し。
    弘安二五月四日亥刻       大納言定實
  謹上 東寺長者僧正御房

5月9日 雨下る [吉続記]
  早旦土御門大納言の状到来す。神輿の帰座今朝たるべし。(中略)相催す供人等、申
  の刻東寺に参る。神輿すでに出御す。今は鳥羽南門辺かの由これを申す。この上は八
  幡に参会すべし。武士甲冑を着し、後騎路の間騎馬す。

5月10日 [鎌倉大日記]
  熊野の神輿一基入洛す。

5月23日 [大和春日神社文書]
**亀山上皇院宣
  炎旱旬を渉る。稼檣節を愆る。興福寺に於いて、仁王般若経を転読し、殊に甘雨の祈
  請を致し、宜しく不日の潤沢を期すべきの由、御下知有るべきの旨、院宣候所なり。
  この旨を以て、洩れ申さしめ給うべし。仍って執達件の如し。
    五月二十三日          左衛門権佐為方
  謹上 中納言法印御房

5月27日 [東大寺文書]
**六波羅御教書案
  東大寺学侶等申す美濃国茜部庄越訴の事、請け文披見しをはんぬ。重ねて訴状これを
  遣わす。来月二十日以前に参洛を企て、弁じ申すべきの状件の如し。
    弘安二年五月二十七日      左近将監(在判)
                    陸奥守(在判)
  地頭代
 

6月25日
  大元将軍夏貴、范文虎、使周福、楽忠、渡宋僧本暁房霊杲、通事陳光等を相具して着
  岸す。牒状の旨前々の如し。博多に於いて斬首す。
 

7月11日 丙辰 晴 [勘仲記]
  靡殿に参る。皇子御湯鳴弦の番なり。百ヶ日の間結番せらる。廰官御湯を取り次ぐ。
  予これを取って御湯殿に持参す。

7月25日 晴 [勘仲記]
  殿下に参り、次いで信輔に謁す。宋朝の牒状関東より去る夕到来す。今日仙洞に於い
  て評定有り。殿下已下皆参る。左大弁宰相(束帯)牒状を読み申すと云々。伝聞の如
  きは、宋朝蒙古の為にすでに打ち取らる。日本これ危うし。宋朝より告知せらるの趣
  か。今日人々の議一揆せずと云々。

7月29日 甲戌 晴 [勘仲記]
  今日異国の牒状内々御評定有り。書状の躰先例に違い、無礼なり。亡宋の旧臣直に日
  本の帝王に奏すの條、誠に過分か。但し落居の分、関東定めて計り申すか。
 

8月1日 丙子 陰晴不定 [勘仲記]
  今日より十八日に至り、殺生禁断を宣下せらる。これ別なる勅願なり。諸国諸庄園平
  均に仰せ下さる。武家より守護地頭に仰すと云々。放生会以前厳重の儀か。

8月20日 [円覚寺文書]
**関東御教書
  建長寺の事、住持として、大法を興行せらるべきの状、仰せに依って執達件の如し。
    弘安二季八月二十日       相模守
  無学和尚
 

9月30日 甲戌 雨降る [勘仲記]
  内裏より女房奉書到来す。狂人常御所に推参す。珍事の由申さる。殿下仰せられて云
  く、事の様頗る御不審多し。亦御使として参内せしめ承るべきの由仰せ有り。雅藤を
  以て御旨を申し入る所なり。件の狂人北門より剱を抜き手に堤み推参し、馬道立蔀を
  切り破り、次いで第に推参し、門内と云い堂上と云い、無人寂莫たり。仍って制止に
  及ばざるの故か。御湯殿の上に参り、件の所より常御所に参る。主上御屏風の傍らに
  隠れ御す。
 

12月7日 [薩摩有馬文書]
**島津久時書状案
  役所の警固並びに構えの事、関東度々の御教書に就いて、国に於いて度々これを催促
  す。見参の時、直に申し候いをはんぬ。また當参の時、催促度々に候。一向沙汰無く
  候の条、存じ知り難く候。近日関東の御使下向するの由、その聞こえ候。今月中その
  功を遂げらるべく候。是非返状を承り、存じ知るべく候。恐々謹言。
    十二月七日           久時(在判)
  宮里郡司殿

12月28日
  大雪降り、殆ど二尺に及ぶ。同じく三四年連々大雪、各々盈尺を表すの祥。

12月19日 [薩摩山田家譜]
**関東御教書案
  走湯山造営用途の事、薩摩国谷山郡司資忠地頭の催促に背き、その沙汰を致さずと云
  々。甚だ自由なり。早く催勤せしむべきの状、仰せに依って執達件の如し。
    弘安二年十二月十九日      相模守(御判)
  土用熊殿