2月 [鎌倉大日記]
元使杜世忠を殺す。
3月4日 [鎌倉大日記]
長谷寺炎上、本尊灰燼と成る。頂上の錫杖ばかり残る。
3月9日 [中臣祐資記]
**六波羅御教書
大和国三輪山本宮庄地頭代西阿申す、春日神主、正預以下の神人等、本名主空性等の
語を得て、當庄に打ち入り狼藉を致すの由の事、訴訟謹んで進上し候。早く彼の輩を
召し給い、尋ね明かすべく候、この旨を以て、御披露有るべく候。恐惶謹言。
三月九日 左近将監平
陸奥守平
進上 左少弁殿
3月17日 [中臣祐資記]
**亀山上皇院宣
大和国三輪山本宮庄地頭代訴えの事、武家の状此の如し。急ぎ申し沙汰せしめ給うべ
きの由、仰せ下され候なり。仍って執達件の如し。
三月十七日 左少弁信輔
進上 権弁殿
5月9日 乙酉 晴 [勘仲記]
新日吉に参る。小五月会競馬右方念人なり。社頭の事院司蔵人右少弁為方奉行す。(中
略)次いで流鏑馬上馬、件の射手の交名院司尋ね取り、御所に進入す。
一番 陸奥の守平時村
射手板垣弥六源頼親 的立伊丹四郎藤原親資
二番 後藤筑後前司基頼
射手後藤内左衛門の尉基信
三番 貮石新左衛門平長胤
射手百間又四郎平信光
四番 波多乃出雲五郎左衛門入道道覺
射手大場小次郎平忠茂
五番 小早川美作三郎平雅平
射手吉井左衛門大江親平
六番 大井次郎源朝氏
射手中條又四郎金刺光直
七番 越後左近大夫将監平時国
射手拓植六郎左衛門の尉平親清
各々上馬をはんぬ。的立弓を持ち丈数を打つ。郎等持ち向かいこれを立つ。次いで一
番よりこれを射る。一番射手二的を射損ず。馬横を走り切る。郎等持ち向かい射ると
雖も、終に以て射当てざるか。その外七番に至るまで悉く射宛をはんぬ。
7月23日 [新編追加]
**関東御教書
一 石清水放生会以前殺生禁断の事、官符案此の如し。早く官符を守り、施行すべき
の由、河内、摂津、信濃、紀伊、日向国の地頭、御家人等に下知せらるべきの状、仰
せに依って執達件の如し。
弘安三年七月二十三日 相模守(判)
陸奥彦三郎(久時)殿(諸国守護人同前)
9月12日 [肥前深堀家文書]
**少貮経資警固番役覆勘状案
異国警固博多番役の事、八月二十七日より九月十二日に至り、勤仕せられをはんぬ。
恐々謹言。
弘安三年九月十二日 経資(判)
深堀弥五郎殿
10月28日
丑の刻、右大将並びに義時、時房等朝臣の法花堂、荏柄社並びに尼寺、二階堂相州の
舘已下焼失す。火本は中下馬橋中条判官の宿所と云々。
11月7日 [肥前青方文書]
**少貳経資覆勘状案
異国警固博多番役の事、十月十五ヶ日勤仕せられ候いをはんぬ。恐々謹言。
弘安三年十一月七日 経資(判)
白魚九郎殿
11月12日
戌の刻にまた焼失す。柳厨子より博労座に至る。
11月14日
亥の刻、鶴岡八幡宮上下焼失す。火本は大學厨子、三ヶ度の炎上に大略残る所無し。
将軍の御所この災を脱がる。