1281年(弘安4年 辛巳)
 

2月 [東大寺文書]
**東大寺異国祈祷読衆交名
  (交名略)
  右、院宣に称く、異国御祈りの事、当寺に於いて殊に懇祈を致すべしと云々。然る間、
  来十一日より三箇日を点じ、異朝の悪賊を降伏せんが為に、大般若経一部を毎日転読
  せしむべき所なり。懈怠致し、不参の輩に於いては、五人合料に行うべきの旨、衆儀
  に依って唱え奉ること件の如し。
    弘安三年二月 日        年預五師實樹

2月18日 [肥前武雄神社文書]
**小貳経資書状
  去年十二月八日の関東御教書、今日(十八日)到来す。写し案これを献る。状の如き
  は、異国用心の事、條々篇目、具にこれを載せ下され候か。然らば楯並びに石築・地
  上垣楯これを用意せしめ、来月一日以前に打ち越さるべし。てえれば、要害に候。更
  々遅怠有るべからず候。恐々謹言。
    弘安四年二月十八日       小貳(花押)
  武雄大宮司殿
 

4月14日 [異国降伏御祈祷記]
  異国降伏の御祈りとして、相応法注進せしめ給うべきの由、内々仰せ下さらるるの間、
  七ヶ尊を注進せられをはんぬ。

4月16日 [異国降伏御祈祷記]
  矢野玄番の允倫経を以て、七ヶ尊の内何法と雖も、阿闍梨選定し支度を進さるべきの
  由、仰せらるるの間、愛染王御修法(伴僧八口)宜しかるべきかの由定めらる。而し
  て支度を出られをはんぬ。則ち元瑜彼の宿所に行き向かい示して云く、七ヶ法の中尤
  も大法秘法たるべきと雖も、雑掌定めてその煩い有るべきかの由、存ずるの間、小御
  修法の支度を出すの由、阿闍梨命令申すの処に、玄番の允内々示して云く、この御祈
  りの事、火急の間、方々に仰せらるるの中、岡屋僧正勝長寿院に於いて不動御修法、
  日光法印日光山に於いて五大尊合行護摩、猪熊法印明王院に於いて同じく五大尊合行
  護摩、その外然るべきの僧侶にこれを仰せらる。東寺の人々未だ承られざるの処に、
  宿老の仁を閣き、佐々目(頼助)一人勤仕有るべきの由、相州(時宗)直に計らい申
  さる。尤も気味の御事有るべきか。実に愛染王、東寺の御流れに於いては、子細有る
  事たりと雖も、常に耳に馴るるの法なり。珍法に付いて猶御支度に出らるべきかの由、
  密々にこれを示しをはんぬ。此の如き問答の後、深更に及び罷帰り、具にこの由を申
  す。明旦沙汰有るべしと云々。

4月17日 [異国降伏御祈祷記]
  未明、大法か、秘法たるべきか。その沙汰の処に、仁王経法尤も相応法たるべきと雖
  も、去る春京都に於いて御室始行せしめ給う。仍ってその憚り有るべし。且つは先師
  安祥寺僧正甲子の御近例に任せ、如法尊勝御修法たるべきの由、定められをはんぬ。
[相模明王院文書]
**関東御教書
  異国降伏の事、七ヶ日の如法尊勝御修法たるべきの間、日時勘文此の如し。且つ雑掌
  を付けられをはんぬ。同供静謐に至るの期、勧修せしめ給うべく候。丹誠を抽んで、
  祈請せらるべきの状、仰せに依って執達件の如し。
    弘安四年四月十七日       相模守(在判)
  佐々目法印御房

4月18日 [異国降伏御祈祷記]
  御奉行奉書を以て、雑掌駿河彦三郎たるべきの由、仰せ下さる。則ち行事正快この由
  を触れ申すの処に、領状を申されをはんぬ。
  僧衆交名の事
    大阿闍梨法印権大僧都頼助    伴僧十二口
    宮内卿法印権大僧都能厳     二位権少僧都公寛 護摩
    大貮権律師元瑜         弁聖瑜
    播磨頼有            宮内卿重基
    少輔頼位            大輔已灌頂頼暁 神供
    宰相阿闍梨乗瑜         中納言頼伊   居箱
    大納言能寶   指燭      刑部卿頼深   香呂箱
  行事正快、故に元瑜、聖瑜沙汰を致すべきの由、これを仰せらる。但し聖瑜辞し申す
  に依って、乗瑜これを承りをはんぬ。

4月19日 [異国降伏御祈祷記]
  丹波の守(二階堂行宗)、玄番の允(倫経)御修法の請定御教書を持参す。元瑜先ず
  出向き中門二間に招請す。大阿闍梨御対面有るべきの由これを申す。丹州申して云く、
  相州御奉書たるに依って故に持参す。仰せ畏み申さしむ。但し御始行日時これを勘録
  せられ、その子細を啓すべし。また壇場小御所たるべし。元瑜御教書を請け取り、阿
  闍梨の前に参りこれを披覧す。人々日時の沙汰有り。

4月20日 [異国降伏御祈祷記]
  兼ねて二十日始行すべきの由、日時注文を賜らる。若しくは香薬遅々に及ばば今夕よ
  り修せられ難きの旨、行事数反催促を加うと雖も、すでに酉の半刻に及びをはんぬ。
  暫くして香薬を送り遣わし、晩陰に臨むの間、先ず三時許分これを合樂す。秉燭の程
  に、乗瑜、元瑜浄衣(黄色)を着し御所に参り、承仕を召し道場の荘厳を奉仕す。小
  御所の南北三箇間、東西二箇間内庫と為す。南に大壇を立つ。

4月21日 [異国降伏御祈祷記]
  大壇、護摩壇各々粥八杯(一隅二杯)。先ず承仕案内を申す。次ぎに伴僧各々着座す。
  次ぎに大阿闍梨参堂す。その儀初夜の如し。

4月22日 [異国降伏御祈祷記]
  初夜時恒の如し。今夕南風烈しく吹くの間、伴僧の座南西格子二ヶ間これを下げる。

4月23日 [異国降伏御祈祷記]
  行事正快、御結願。御加持所並びに御布施、執事奉行所に相触る。兼ねて用意有るべ
  きの故なり。日中時以後、また香薬の沙汰同前。

4月25日 [異国降伏御祈祷記]
  御結願の事、重ねて奉行所に触れらるるの処に、御布施取り以下の事、早く相触るの
  由、返答す。また日中時以後、御対面有るべきの由、御所近習女房これを申さる。ま
  た結願御加持の時、必ず出御有るべきの由、内々申し入れらるべきなり。

4月26日 [異国降伏御祈祷記]
  日中時以後、結願。御加持所の事、常御所として何様の所たるべきかの由、内々女房
  を以て申し入れらるるの処に、先例に任せ、御殿南面たるべきの由、仰せ下さる。仍
  って先例御例の如く奉行すべきの由、これを承りをはんぬ。

4月27日 [異国降伏御祈祷記]
  後夜時、御加持無し。御結願の後、御殿に於いて有るべきの故なり。後夜、日中時相
  続かるの時、御結願以後、元瑜寶塔の封を解き、出納物を取りこれを奉る。阿闍梨以
  下伴僧等退出す。
 

5月1日 [薩摩比志島文書]
**異国警固番役覆勘状
  異国警固筥崎番役の事、二月二日より五月一日に至り、勤仕せられをはんぬ。恐々謹
  言。
    弘安四年五月一日        右衛門尉(花押)
  日四嶋河田右衛門尉殿

5月8日 癸卯 晴 [勘仲記]
  異国御祈りの為に二十二社奉幣を発遣す。仲兼奉行す。使人無きに依って、度々延引
  しをはんぬ。而るに今日行わる。上卿左大将殿俄に御奉行。

5月9日 甲辰 晴 [勘仲記]
  新日吉小五月会、御幸有り。鏑馬(射手これを注さず)
   一番 陸奥の守時村(武家北方)  二番 長井因幡の守頼重
   三番 畠山上野左衛門       四番 中沼淡路四郎左衛門
   五番 小早川美作三郎       六番 伊賀孫太郎兵衛
   七番 陸奥左近大夫将監時国(武家南方)
  射手先ず上馬、その後これを射る。一々違い無し。

5月21日 [皇年代略記]
  蒙古賊船数千艘着岸す。
[鎌倉大日記]
  蒙古襲来合戦す。兵多く以て滅亡す。男山に於いて種々の御祈り有り。

*[増鏡]
  蒙古おこるとかやゐひて、世の中さわぎたちぬ。本院(後深草)、新院(亀山)は、
  あづまへ御下あるべし。内(後宇多)春宮は、京にわたらせ給ひて、東武士ども上り
  て候ふべしなど、沙汰ありて、山々寺々、御祈かずしらず。伊勢の勅使に経任大納言
  まいる。新院も八幡へ御幸なりて、西大寺の長老(思圓)召されて。眞読の大般若経
  供養せらる。
 

6月13日 [神明鏡]
  蒙古より襲へ来ぬ。文永十一年よりの事なれは、九州の兵は博多に馳集る。山陽山陰
  の勢は、文字赤間を堅、東山東海の兵は帝都へ馳上。北陸道の兵も王城を守る。時に
  大元七万余の兵船、同時に博多の津に押寄たり。大舳艫を雙もやいを入、歩板を敷渡、
  陣々に油幕を引て、干戈を立雙たれは、五島より東博多浦に至まて、海上の四圍三百
  余里、俄に陸地に成て、蜃気爰乾圍波城を吐出せるかと恠まる。日本の陣の構、博多
  の濱鱗十三里に石堤を高築て、前敵為に切立たるか如く、後は御方為に平々として懸
  引自在なり。その陰に屏を塗、陣室作て、数万の兵並居たれは、敵に勢多少をは見透
  されしと思へる処に、敵舟の艫先に桔棹如なる柱を数十丈高立て、横なる木の端に坐
  を構へて、人を上せ、日本の陣内を目の下に見くたされて、秋毫の先をも数へらるへ
  く。また面の四五丈の広板共を筏の如に組て、水上数隻たれは、恰も三條の広路十二
  街衢の如くなり。

6月28日 [壬生官務家日記抄]
**関東御教書案
  異賊合戦の間、当時兵粮米の事、□□要鎮西及び因幡、伯耆、出雲、石見の国中、公
  家本所一円領の得分並びに富これ有る輩の米穀見在せしめば、点じ定むべきの由下知
  せらるべし。この旨を以て、春宮大夫に申し入れしめ給うべきの状、件の如し。
    弘安四年六月二十八日      相模守
  陸奥守殿、越後左近大夫将監殿

*[神明鏡]
  数万の兵馬是より係出て、戦御方の軍兵勢力盡退屈。鼓を打てすでに兵刃旋る。先鉄
  炮とて鞠の勢なる鉄玉の迸しる事、下坂輪の如。霹靂する事、旋電の光の如なるを、
  一度に二三千挺出たるに、日本の兵多焼殺され、城戸櫓にも火燃付て焼崩。爰に上松
  浦下松浦の者共、軍の体を見て、尋常の如して叶はすと思けれは、外の浦より廻、纔
  千余人の勢にて夜討にしたりけり。志の程武かりけれとも、九牛の一毛大倉の一粒に
  も不当程の小勢なれは、二三万人敵をは打しか共、終には皆虜して、身累紲の下に苦。
  掌を連索舷貫れたり。然九州者共一人も残らず、四国中国へそ落たりける。
 

7月
  大元の賊徒、宋朝、高麗より数千艘の船寄せ来る。数日対馬の海上に漂う。而る後肥
  前の国鷹島に群集するの処に、同三十日夜、閏七月一日の大風に、賊船悉く漂倒し、
  死者幾千萬を知らず。但し将軍范文虎帰国すと云々。大元の船二千五百余艘、兵士十
  五萬人(水主等を除く)、高麗の舟千艘と云々。

* 5日 [竹崎五郎繪詞]
  関東の御つかい、かうたの五郎とをとし、あむとうの左衛門二郎しけつな払暁にはせ
  きたりしに、季長ゆきむかて海上をへたて候あいた、ふね候はて御大事にもれ候ぬと
  おほえ候と申に、かうたの五郎兵船候はては、ちからなき御事にこそ候へと申ところ
  に、肥前国の御家人たかしまのにしの浦より、われのこり候ふねに賊徒あまたこみの
  り候を、はらひのけてしかるへき物ともとおほえ候のせて、はやにけかへり候と申に、
  季長おほせのことくはらひのけ候は歩兵とおほへ候、ふねにのせ候はよきものにてそ
  候覧、これを一人もうちとゝめたくこそ候へと申に、かうたの五郎異賊はやにけかへ
  り候と申候、せいをさしむけたく候と少貮殿へ申へしとて使者をつかはす、(略)

* 6日 [竹崎五郎繪詞]
  払暁にかりやかたにゆきむかて合戦の事條々申に、おほせいせむにうけ給て候、せむ
  せむの御合戦も相違候はしとおほえ候、自船候はて一度ならすかり事のみおほせ候て
  ふねふねにめされ候、(略)ゆみをすて、なきなたをとりてをしよせよ、のりうつら
  むとはやりしかとも、これ水手ろをすてをさゝりしほとに、ちからなくのりうつらさ
  りしものなり、同日むまの時季長ならひにての物きすをかふむるものとも、いきのま
  つはらにて守護のけさむにいりて、当国一番にひきつけにつく、鹿島にさしつかはす
  てのもの同日巳刻に合戦をいたし、親類野中太郎なかすゑ、郎従籐源太すけみつ、い
  たてをかふり、のりむま二疋ころされし、證人に豊後国御家人はしつめの兵衛次郎を
  たつ、(以下略)

7月7日 [神明鏡]
  皇太神宮の禰宜荒木田尚良、豊受太神宮の禰宜渡會の貞員等、十二人祈請して、連署
  を捧て上奏しけるは、二の宮末社風の社宝殿鳴動して、六日の暁天に神殿より赤雲一
  対立出、天耀その光中夜叉羅刹如なる鬼神顕出、玉裹の結緒解き、大風口より出て、
  沙漠を揚、大木を吹抜く。測知ぬ異敵等此の日即滅亡疑い無し。奇瑞変応せは、年来
  申請所の宮号叡感義を以宣下さるべしとそ奏し申ける。

7月13日 [出雲鰐淵寺文書]
**亀山上皇院宣
  出雲国漆沼郷実検の事、先例に任せ、国衙の妨げを止められをはんぬ。然らば、恒例
  の供料を加増せしめ、異国降伏の御祈りの為、日吉社に於いて、重ねて大般若経を転
  読せしむべきの由、供僧等に相触るべきの旨、成佛に下知せしむべし。てえれば、御
  気色に依って、執啓件の如し。
    七月十三日           参議
  謹上 侍従三位殿

7月15日 [豊後柞原八幡宮文書]
**持範注進状写
  抑も六月二十日蒙古、高麗一同に引合て、軍勢五百餘艘、対馬嶋に押寄、彼嶋を打取
  の間、我等太宰少貳か勢計にて、時日をうつさす、浦々泊々の船着にて、日夜の間合
  戦を致の間、敵御方死する者その数を知らず。現然儀の間、九ヶ国の軍勢を相催し、
  同二十六日各てをくたき、安否の合戦を致すの間、異国の軍兵三千七百余人打取斬棄、
  その外は数をしらす。惣して敵の舟海上に浮もの一千三百余艘なり。海賊に仰付て、
  夜昼を限らす、所々の合戦、あるひは船に乗損して海上に沈もの甚多し。さる間、合
  戦の最中、奇特神変不思議の事、一遍ならす。敵の船において風雨震動す。雷ととろ
  き霰降、大寒手にこえて、打物の柄もにきられす。氷死するものその限をしらす。中
  に就、奇瑞には、合戦の難儀の最中、いつくよりとはしらす、大船四艘、縁の旗三流
  当たるか。大将とおほしきは、女人なり。その力はかるへからす、蒙古か船に乗移て、
  軍兵三百余人手取にして海中に投入に、大将蒙古か事、その外以下手の者二十八人共
  は即時に斬棄、相残七人は、上意に闕てのほすへし。二十七日半夜過程に、異国の残
  の者とも、皆々引退、蒙古打死と風聞す。その説未だ定まらざるなり。その外敵の船
  とも、七月三日悉退散仕ぬ。此の如く急速の落居、併神明の威力に仍なり。上様の御
  運も、殊目出畏入候。委細猶略て注進件の如し。
    七月十五日           探題持範(判)
 

閏7月1日 [鎌倉大日記]
  異国蒙古大将阿刺穿范文虎、忻都洪茶、兵卒十万人日本を攻め合戦、日本人大勝、神
  風賊船を破り、還る者僅かに三人。
*[神明鏡]
  天気俄に替て黒雲一村東の空に立覆と見へしか、悪風浪を巻、雷電地に鳴炮して、七
  万余艘の兵船木葉の嵐に散か如。天揚地覆、岸に当り浪に溺。三百七十万騎の兵共一
  時に海底の藻屑と成にけり。懸るけれ共萬将軍一人計は、風にも放しす、浪にも沈す
  して、窈冥たる空中に飛揚り、一つの船に乗、本国に帰けるとなん。

閏7月2日 [勘仲記]
  去る夜終夜風雨太だし。今日天気快晴、神鑒炳焉の至り、勅願成就の基なり。今日よ
  り参宮日に至り、毎夜御拝有るべしと云々。

閏7月7日 庚午 晴 [勘仲記]
  殿下に参る。異国御祈りの為に、御持仏堂に於いて心経百巻を転読し、金輪並びに不
  動真言各々千反を唱う。

閏7月11日 [東寺文書]
**関東御教書
  異賊の事御用心厳密の間、相模七郎時業を播磨国に差し置かるる所なり。賊船山陽海
  路に乱入するの由、その聞こえ有らば、時業の命に随い、防戦の忠を致さしむべきの
  状、仰せに依って執達件の如し。
    弘安四年閏七月十一日      相模守(花押)
  寺田太郎入道殿
[毛利家兒玉文書]
**関東御教書
  異賊の事、御用心厳密なり。来八月中子息を安藝国の所領に差し下し、賊船もし門司
  関に入らば、早く守護人の催促に随い、長門国の軍陣に属き、防戦の忠を致さしむべ
  きの状、仰せに依って執達件の如し。
    弘安四年閏七月十一日      相模守(花押)
  兒玉六郎殿、同七郎御中

閏7月14日 丁丑 夜より雨降る [勘仲記]
  宰府より飛脚到来す。去る朔日の大風動に、彼の賊船多く漂没すと云々。誅戮並びに
  生虜数千人、壱岐対馬一艘これ無しと雖も、下居する所の異賊多く以て命を損ず。或
  いはまた生虜らる。今度の事神鑒炳焉の至りなり。天下の大慶何事これに過ぐべきか。

閏7月17日 庚辰 晴 [勘仲記]
  弘安四年閏七月十七日   宣旨
  去る夏より以降、蒙古襲来し、荐に壱岐対馬に着す。九州の官軍を驚かすと雖も、今
  月朔日の暴風上波、これ則ち神鑒の應護なり。賊船定めて漂没せんか。然る間いよい
  よ栗陸の徳化を施し、猶藍谷の冥助を仰ぐ。しかのみならず茲に三合初秋余潤、その
  慎み軽からず。その兆し最も重し。宜しく災孳を未萌に却け、福祚を無疆に増すの由、
  年穀を載祈して奉幣せしむ。宣命別して辞す。
                    蔵人右衛門の佐藤原俊定(奉)

閏7月21日 甲申 晴 [勘仲記]
  今日臨時の内侍所御神楽を行わる。これ異国の御祈りなり。

閏7月25日 戊子 晴 [勘仲記]
  憲玄法橋参入し、今日未の刻に堂衆等興福寺に発向すと云々。夜に入って寺家より馳
  せ申さる。峯寺御定に随わず。

閏7月26日 己丑 晴 [勘仲記]
  興福寺発向の事院に申さる。勅答に云く、殊に驚き思し食し、早く武家に仰せらるべ
  しと云々。両方の喧嘩を鎮めるべきの趣なり。殿下御参評定。

閏7月28日 辛卯 晴 [勘仲記]
  殿下申す條々の事、武家使者二人を差し南都に下す。多武峯喧嘩の事制止せんが為な
  り。
 

8月23日 [鎌倉大日記]
  時村武蔵の守に任ず。
 

9月16日 [諸家文書]
**六波羅御教書
  條々
  一 賊船の事、退散せしむと雖も、自由に任せ上洛遠行有るべからず。もし殊なる急
    用有らば、子細を申し、左右に随うべし。
  一 異国降人等の事、各預け置かしめ給う分、沙汰未断の間、津泊往来の船、昼夜を
    謂わず、大小を論ぜず、毎度検見を加え、然る如きの輩、輙く海上に浮かび、出
    国すべからず。海人漁船と云い、陸地分と云い、同じくその用意有るべし。
  一 他国より始めて来入の異国人等の事、制止を加うべし。
  一 要害修固並びに番役の事、日来の如く懈怠無く、勤仕せらるべく候
  條々緩怠に及ぶの儀は、定めて後悔候か。仍って執達件の如し。
    弘安四年九月十六日       左近将監(花押)
  野上太郎殿
 

10月
  引付頭、一業時、二宣時、三公時、四顕時、五泰盛

10月4日 [鎌倉大日記]
  春日の神木入洛す。

10月5日 [鎌倉大日記]
  吉野蔵王権現入洛す。
 

11月14日 [武家年代記]
  春日の神木稲荷下社に入れ奉る。

11月29日
  八幡宮遷宮。造営奉行は秋田城の介泰盛。
 

12月2日 [筑前右田家文書]
**大友頼泰書下案
  豊後国御家人右田四郎入道道円代子息彌四郎能明申す、今年六月八日蒙古合戦の刻、
  自身並びに下人疵を被る由の事、申し状此の如し。彼の輩防戦の振る舞い、発向の戦
  場、各證人たりと云々。申す所相違無きや否や。縁者同心の儀非ざれば、起請の詞に
  載せ、分明にこれを注し申すべし。證人の散状は、直に守護所に付けらるべきなり。
  仍って執達件の如し。
    弘安四年十二月二日       前出羽守
  古後左衛門尉殿
  帆足兵衛尉殿