1282年(弘安5年 壬午)
 

1月18日 己卯 晴 [勘仲記]
  或る人云く、天台座主所量として最源僧正(良平公子息)近日関東より上洛す。常文
  手状の由を自称すと雖も、然るざるか。所量の仁等重ねて関東を仰念せらるの由、そ
  の聞こえ有り。事に於いて皇化無きが如し。末代の事哀れむべし。

1月19日 庚辰 晴 [勘仲記]
  殿下に参る。神木御帰座の事今にその期無し。今明日東方より定めて音信を申すか。

1月23日 [武家年代記]
  重覚入滅す。

1月29日 庚寅 晴 [勘仲記]
  殿下申す條々の事、神木の事関東の使者今日帰洛すと云々。武士に於いては流罪に処
  せらるべきの由、武家に下知しをはんぬ。総事に於いては聖断たるべきかの由、申さ
  しむるの由その説有り。
 

2月*日 [薩摩比志島文書]
**比志島時範軍忠状案
   薩摩国御家人比志嶋五郎二郎源時範謹言
   早く合戦の忠勤に依って、御注進の子細に預からんと欲する事
  件の條、去年六月二十九日蒙古人の賊船数千余艘壹岐嶋に襲来の時、時範親類河田右
  衛門尉盛資を相具し、彼の嶋に渡向し防御せしむる事、大炊亮殿の御證状に分明なり。
  次月七月七日鷹嶋合戦の時、陸地より馳せ向かう事、以て同前なり。爰に時範合戦の
  忠勤に依って、御裁許に預からんが為に、ほぼ言上件の如し。
    弘安五年二月 日

2月1日 壬辰 晴 [勘仲記]
  今日村継相語って云く、今度武士四人を流刑せらるべし。武家北方(河原口次郎兵衛
  以保、伊藤左衛門能兼)、南方(大瀬籐内兵衛友国、津尾新左衛門清継)已上四人と
  云々。武家奥州関東に申して云く、防ぎ奉るべき由勅定を奉り、時村在京の武士に下
  知しをはんぬ。彼等を罪科に処せらるべきは、向後此の如き重事の時、下知定めて叙
  用せざるか。下知に任せ防ぎ奉るの上は、不慮の狼藉出来す。更に在京の武士若武家
  たるべからず。両方この罪を謝すべきの由申すの間、尤も然るべきの由を申す。関東
  その沙汰有って、この事評定一日定めをはんぬ。使者上洛しをはんぬ。仍って自身の
  代官たる間宗有る無双の輩等、その人を選ばれ流刑せらるべしと云々。篝屋の武士等
  は悉く免除と云々。

2月27日 戊午 陰 [勘仲記]
  殿下より権の別当僧正已下僧綱門弟を召され、密々に急ぎ差し進すべき由仰せ遣わし
  をはんぬ。次いで私使これを仰せ遣わす。公人は衆徒奇を成すと云々。今日また長者
  の宣を南都に下さる。五人の張本免除すべきの由、武家の請文これを副え下さる。

2月28日 己未 陰 [勘仲記]
  今夕小除目を行われ、関東の挙し申す輩並びに功人等これを任ぜらる。

[尾張性海寺文書]
**異国降伏祈祷巻数
  異国降伏御祈祷、尾張国性海寺十七ヶ日の護摩供を供し奉る所
   愛染王護摩二十一ヶ度
   不動明王護摩二十一ヶ度
   降三世護摩二十一ヶ度
   軍茶利明王護摩二十一ヶ度
   大威徳明王護摩二十一ヶ度
   金剛夜叉明王護摩二十一ヶ度
   諸神供十五ヶ度
  十七ヶ日花水供を勤行し奉る所
   愛染王供一百五度
   不動明王供一百五度
   降三世明王供一百五度
   軍茶利明王供一百五度
   大威徳明王供一百五度
   金剛夜叉明王供一百五度
  十七ヶ日仁王講を転読し奉る所
   五百部座
  右、仰せ下さるるの旨に任せ、異賊降伏、天下安穏の為、門徒僧侶五十三口を以て、
  今月二十一日より始め今日にいたる迄、十七箇日夜の間、殊に精誠を致し、勤修し奉
  る所件の如し。
    弘安五年二月二十八日      伝燈大法師浄胤敬白

2月29日 庚申 晴 [勘仲記]
  一昨日下し遣わす所の南都の使者帰りをはんぬ。人々の請文五通到来す。門弟一人を
  差し進すべきの趣なり。
 

3月2日 壬戌 雨降る [勘仲記]
  伝聞、天台座主に関東最源僧正を任ぜらるべし。梶井の門跡元の如く菩提院の宮に付
  けらる。妙法院門跡はまた尊教法印に付けらるべきの由申し合わさると云々。浄土寺
  僧正御房御管領の後、すでに五ヶ年、一事の御違失無きか。今御改易何事に候か。両
  度関東に仰せ合わさるるの処に、聖断たるべきの由申すが故なり。

[山代松浦文書]
**北條時定書下
  肥前国の御家人墓崎後藤三郎入道浄明申す度々の合戦證文の事、見知の実正に任せ、
  久木嶋又三郎の起請文を召し進らるべく候、仍って執達件の如し。
    弘安五年三月二日        平(時定花押)
  山代又三郎殿

3月6日 丙寅 陰晴不定 [勘仲記]
  衆徒條々の御返事を申す。

3月13日 癸酉 晴 [勘仲記]
  殿下に参る。仰せに云く、去る六日衆徒申状の内、路次狼藉の篇目の内、造意張行は
  遠流に処せられ、頼重以下の下手人に於いては、南都に召し給うべきの由載するなり。
  件の請文院宣を以て関東に仰せらる。武家に伝えしめ給うの処に、子細を申し返上す。
  仍ってまた造意の詞等を書き改め進すべき由南都に仰せられをはんぬ。今に左右を申
  すべし。

3月15日 乙亥 陰晴不定 [勘仲記]
  大隅庄の神人五人使者(伊賀次郎左衛門の尉(北方)、云内右衛門の尉(御方))を
  相副え、武家長者殿に召し進す。左少弁信輔朝臣使者と問答す。春日の神主経也神人
  十人を相具し参上す。門前に於いてこれを請け取る。武家の使者門の北に在り。神主
  門の南に在り。件の五人は、去年九月十二日八幡宮の寺訴に依って、張本を召し出さ
  るる所なり。

3月28日 戊子 晴 [勘仲記]
  酉の刻ばかりに、八幡良清法印(東寶塔院々主)飛廉を以て消息を進す。神人すでに
  蜂起し、神輿を餝らんと欲す。社官已下抑留すと雖も、始終叶うべからざるか。宮寺
  三ヶ状を含む大訴、平駄山を大隅庄に付けらるる事、五人の張本免ぜらるる事、妙清
  法印釐務を止めらるる事、これ等の條々憤怒申すと云々。この條に於いてはすでに南
  都に裁許せられをはんぬ。縦え神輿御入洛に及ぶと雖も、聖断頗る難治か。巷説の如
  きは、一基は靡殿、一基は内裏に振り奉るべしと云々。一々裁許を蒙らずんば、神人
  等門前に於いて自害すべきの由結構すと云々。

3月29日 己丑 雨降る [勘仲記]
  平等院供僧並びに執行良仲律師等列参し、申して云く、玉櫛庄民と助重名地頭と公事
  懃否相論の事なり。地頭すでに武家の下知を帯す。関東且つ成敗するの間、武家進止
  し難きの由を申すの間、御教書の違背を称し、百姓を搦め取らんと欲す。仍って一庄
  東作の業を抛って当座荒廃せしめば、院家の陵夷斯くの事に在るべきの間、供僧一同
  訴え申す。且つ別の御使いを以て、これ等の子細を具に武家に仰せらるべき由これを
  申す。(中略)今朝御使の如きを以て武家に仰せらるるの條、無骨たるべし。この趣
  内々別に仰せ遣わるべし。委細の裁状進せらるべきの由、仰せ下さる。
  今日八幡良清法印状を進して云く、神人すでに宝蔵を打ち開き、大御鉾を取り出す。
  驚き存ずの由これを申す。昨日御使を遣わされ、実否を検知せらるの処に、宮寺その
  儀無き静謐の由これを申す。旁々不審なり。
 

4月25日 [肥前小鹿島文書]
**六波羅御教書案
  薩摩次郎左衛門入道教蓮代願蓮申す、肥前国長嶋庄上村地頭浦右衛門二郎三郎公村、
  同庄内楢崎村濫妨の由の事、重ねて訴状具書此の如し。先度その沙汰有りと雖も、事
  行われずと云々。且つは成敗を尋ねしめ、且つは注し申さるべく候。仍って執達件の
  如し。
    弘安五年四月二十九日      左近将監(時村御判)
                    陸奥守(時国御判)
  太宰小貳殿
 

6月16日 [肥前小鹿島文書]
**少貳経資施行状案
  六波羅殿御教書に申し下さるる楢崎の事、長嶋上村地頭未だ陳状に及ばず候の間、重
  ねて触れ遣わす所此の如し。返事到来するの時、子細を申すべく候。恐々謹言。
    六月十六日           少貳経資(在判)
  謹上 薩摩次郎左衛門入道殿

6月29日 [尊経文庫]
**関東御教書
  大慈寺新釈迦堂供僧職の事、實雅僧都の跡を以て、補任せらるる所なり。てえれば、
  仰せの旨此の如し。仍って執達件の如し。
    弘安五年六月二十九日      相模守(時宗花押)
  三位阿闍梨御房
 

7月4日 辛酉 晴 [勘仲記]
  伝聞、今日関東の使い(信濃の前司氏信、前の備前の守時秀)春宮大夫の第に向かう。
  対面の後、大夫院に参りこの趣を奏聞す。晩に及び中御門大納言勅語を含み殿下に参
  り、申して云く、大隅薪庄訴訟の事、両方に尋ね決すべし。宮寺所司並びに興福寺三
  綱召し給うべきの由これを申す。

7月5日 壬戌 晴 [勘仲記]
  院宣、長者の宣を南都に下され、三綱を召さると云々。院宣中御門亞相これを書く。
  興福寺三綱武家に召し遣わさるべきの趣なり。

7月6日 癸亥 晴 [勘仲記]
  今夕南都の御返事到来す。三綱の事、参洛すべきの由承りをはんぬ。来十日参るべき
  由領状を申すと云々。

7月11日 戊辰 晴 [勘仲記]
  今朝三綱二人(宴乗法眼、憲玄法橋)参入す。武家に於いて問答すべきの趣、内々聞
  こし食さるべきの由、御沙汰有って、洛の北東に参る。

7月12日 庚午 晴 [勘仲記]
  南都の使者武家に出対す。中門廊を以て座籍として、氏信、時秀、業貫三人問答す。
  その外連座の人無しと云々。大侍甲乙雑訴人悉く追い立てられをはんぬ。八幡所司同
  時に出対無きの儀、今日は南都一方を召し尋ねらると云々。

7月14日 辛未 晴 [勘仲記]
  宴乗参り、昨日武家に於いて問答の事申し入る所なり。信輔朝臣これを申し次ぐ。宴
  乗相語って云く、大隅薪両庄狼藉の段、尋ね問う所、大隅庄狼藉人を召し上ぐべきの
  由、東使申さしむと云々。頼重職直両人罪科を被るべきの由これを申す。所存如何に。
  両人に於いては過無きの由これを申す。大概篇目ばかり問答す。
  今夕小除目を行わる。為世朝臣奉行す。関東城の介泰盛陸奥の守に任ず。日来武家時
  村所帯の官なり。今改任せらるの條如何に。

7月21日 戊寅 雨降る [勘仲記]
  伝聞、南都の使者一両人今日武家に向かうと云々。

7月30日 [肥前龍造寺文書]
**警固番役覆勘状
  警固番役の事、今月一日より三十日に至り、勤仕せられ候いをはんぬ。恐々謹言。
    弘安五年七月三十日       時定(花押)
  龍造寺小三郎殿
 

8月9日 丙申 晴 [勘仲記]
  南都三綱宴乗送状に云く、大隅薪庄問註の事、所司の対揚論に依って、日来徒に空し
  く馳せ過ぎをはんぬ。今日東使相触るるの間、當寺所司を大隅庄民に相副え下し、若
  松に出対せしむの由これを示す。

8月10日 [豊後中村家文書]
**少貳経資書下
  筑前国怡土庄名主三坂次郎實時申す蒙古合戦の事、申し状の如きは、證人を立て申す
  所なり。尋ね沙汰せんが為に、急ぎ出対せらるべく候。恐々謹言。
    弘安五年八月十日        少貳(花押)
  怡土庄中村源四郎允殿
 

9月9日 [肥前龍造寺文書]
**肥前守護北條時定書状
  去年異賊襲来の時、七月二日、壹岐嶋瀬戸浦に於いて合戦せしむ由の事、申し状並び
  に證人の起請文披見せしめをはんぬ。この由を関東に注進せしむべく候。謹言。
    弘安五年九月九日        時定(花押)
  龍造寺小三郎左衛門尉殿
 

10月13日 [興尊全集]
**日蓮遷化記
  (前略)
  同十三日、辰時御滅(御年六十一)、即時大地震動。
  同十四日、戌時、御入棺(日朗、日昭)、子時御葬なり。
  (以下略)
    弘安五年十月十六日       執筆日興(華押)

10月26日 壬子 晴 [勘仲記]
  殿下に参る。山門衆徒蜂起の事、神輿二基を山上に振り上げ奉ると云々。朱雀辺の篝
  屋雑役を以て路次を防ぐ。これ天王寺別当山門に付けらるべきの由訴訟嗷々の故と云
  々。この事関東に仰せ合わさる上は、彼の役の左右の知るべし。その間嗷々の儀を止
  むべきの由、数度院宣を梶井青蓮院上野等の門主に下さると云々。
 

11月9日 [肥前武雄神社文書]
**関東御教書案
  近日、海賊船海路に浮ばしむるの間、往反の船煩い有るの由、多くその聞こえ有り。
  肥前国地頭、御家人、賊徒船の懸りに就いて、或いはこれを召し取り、或いは責め平
  せしむべきなり。更に遁避有るべからず。且つ御制法の旨に任せ、盗賊を相鎮めらる
  べく候。仍って執達件の如し。
    弘安五年十一月九日       平御判

11月17日 癸酉 晴 [勘仲記]
  秉燭の程に、正親町の辺焼亡出来するの由、世間騒動す。西風吹き覆い、内裏、院、
  所々より御使馳せ参る。程無く消えをはんぬ。御所無為大慶なり。

11月25日 辛巳 晴陰不定 [勘仲記]
  神木帰座の事、関東の使者今に上洛せず。先ず飛脚を以て申す旨有り。急ぎ御返事を
  仰せらるべきの由、内々仙洞に申せらる。彼の使者下着の後定めて上洛か。聖断両條
  伺い申すと云々。

11月26日 壬午 晴 [勘仲記]
  夜半冷泉朱雀より火災出来し、常磐井仙洞焼亡す。泉屋並びに京極面北門等焼き残す
  と云々。

11月29日 乙酉 晴 [勘仲記]
  北野に参る。去る月二十五日より門戸を閉づ。山門大訴に依ってなり。天王寺別当の
  訴訟再盛の故なり。聖断たるべきの由、関東御返事を申す。
 

[冬] 大円覚寺を達つ。
[武家年代記]
  平の時宗円覚寺を建つ。仏光開山たり。

12月6日 壬辰 晴 [勘仲記]
  東使今日西園寺大納言の第に向かう。亞相参院す。関東の子細を含むか。院より経頼
  朝臣御使いとして参入し、急ぎ御参有るべしと云々。御帰座の事等定めてその沙汰有
  るか。伝聞、因幡の守頼重、弾正の忠職直流罪せらるべきの由、関東武家に下知すと
  云々。

臘月8日 [鹿山略記]
  弘安二年時宗工匠を大宋国に渡し、径山諸堂の規模を学ばしむ。本朝に帰り以て円覚
  寺を造立す。弘安五年壬午造畢なり。その美麗観るべし。同年臘月八日、平公佛光禅
  師を拝誦し、剏業第一祖と為すと云々。

12月14日 庚子 晴 [勘仲記]
  御帰座の事南都未だ分明の左右を申さずと云々。

12月21日 [武家年代記]
  神木御帰座、関白以下供養。