1283年(弘安6年 癸未) [武家年代記]
 

* 山門と三井と天王寺別当を争い、神輿入洛す。

1月6日
  辰の刻、日吉の神輿入洛す。八王子、十禅寺、客人宮、祇園、赤山(已上五社)紫宸
  殿、大炊御門高倉に振り上げ奉る。
[増鏡]
  日吉の社の訴訟、勅裁なしとて、神輿は都へ入らせ給ふ。六波羅の武士ども、けしき
  ばかり防ぎ奉りけれど、まめやかに、神には向ひ奉りて、弓いるものもなければ、紫
  宸殿、清涼殿などにふりすてまいらせて、山法師はのぼりぬ。
 

2月30日 [山城萬寿寺文書]
**関東御教書
  三聖寺の事、関東御祈祷所たるべきの由、聞こし食されをはんぬ。仰せに依って執達
  件の如し。
    弘安六年二月三十日       相模守(時宗花押)
  慈一御房
 

3月7日 [肥前高志神社文書]
**北條時定書下写
  神崎執行兼篤並びに伴氏等悪口を申す事、去年尋ね沙汰せしめをはんぬ。その上、す
  でに今京都の文書を取り下すと云々。子細を糺明せんが為に、早く文書を出帯せらる
  べく候。仍って執達件の如し。
    弘安六年三月七日        平(花押影)
  本告執行殿

3月8日 [豊後日名子文書]
**北條兼時書状
  大友左近蔵人泰廣去々年合戦の時、忠を抽んずる由の事、訴訟の為参上せしむべきの
  旨、歎き申し候と雖も、今一両月は、故更異国警固の事、緩怠有るべからず候の間、
  先ず使者を以て、子細を申すべきの由、口入れしめ候なり。内々御心得として、申せ
  しめ候。恐々謹言。
    三月八日            修理亮(花押)
  平左衛門尉殿

3月19日 [山代松浦文書]
**北條時定書下
  去年の蒙古合戦の事に就いて、参差の子細有り。来二十六日以前に、兵衛太郎を召し
  進し、明らかに申せらるべく候。仍って執達件の如し。
    弘安六年三月十九日       平(花押)
  山代又三郎殿

3月22日 [山代松浦文書]
**北條時定書下
  肥前国御家人山代又三郎申す度々の合戦證人の事、申し状此の如し。子細見状、見知
  実正に任せ、起請文の詞に載せ、注し申せらるべきなり。仍って執達件の如し。
    弘安六年三月二十二日      平(花押)
  志佐三郎入道殿
  津吉圓性御坊
  平戸平五郎
  益田大夫御房
  有田次郎殿
  大嶋又次郎殿

3月29日 [肥前龍蔵寺文書]
**北條時定覆勘状
  警固番役の事、四月三十ヶ日、勤仕せられ候いをはんぬ。謹言。
    弘安六年四月二十九日      時定(花押)
  龍蔵寺小三郎左衛門殿
 

4月
  引付頭、一宣時、二公時、三時基、四顕時、五泰盛
 

5月1日 [鹿島大禰宣家文書]
**北条時宗巻数請取写
  異国降伏巻数(大賀村分)給い候いをはんぬ。謹言。
    五月一日            (花押影)
  鹿島大禰宣殿(御返事)

5月10日 [豊後植田文書]
**関東御教書
  豊後国利行次郎妙直申す当国田原別府、同利行名並びに中尾清水寺の事、訴状これを
  遣わす。早く弁え申すべきの状、仰せに依って執達件の如し。
    弘安六年五月十日        駿河守(業時花押)
                    相模守(時宗花押)
  大友豊前二郎蔵人殿
 

6月13日 [長府毛利家文書]
**関東下知状
   早く藤原知家石見国大家庄内東郷地頭職を領知せしむべき事
  右、亡父右衛門尉光房の跡を以て、宛行わるる所なり。てえれば、早く先例を守り、
  沙汰を致すべきの状、仰せに依って下知件の如し。
    弘安六年六月十三日       駿河守平朝臣(花押)
                    相模守平朝臣(花押)

6月30日 壬子 晴 [勘仲記]
  今日関東の使者二人(判官入道行一、城美濃の守長景)上洛す。山門の事その沙汰た
  るなり。
 

7月1日 癸丑 天晴 [公衡公記]
  伝聞、関東の使者美濃の守長景(城)、信濃の判官入道行一(二階堂、俗名行忠)上
  洛す(日吉の神輿の事に依ってなり)。去る夜入京と云々。今明の間仰せに随い参る
  べきの由、今朝(三善)為衡法師を以て家君(西園寺實兼)に申す。(但し今日窮屈、
  明日参るべきの由聊か存ずるか)明日宜かるべきかの由仰せらると云々。予不在。所
  悩の余気猶不快の故なり。また聞く。東使今日猶参るべしと云々。酉の刻に参る。家
  君(御布衣、下袴を着せしめ給う)御対面有りと云々。為衡法師これを引導し、今夕
  参院せしめ給う。その旨所労に依って知り及ばず。事毎に行一を以て上臈と為すと云
  々。且つは長景行一の聟たるが故か。

7月2日  [公衡公記]
  昨日の東使の御問答次第、関東申さしむるの趣、暦記に注付すべきの由家君より賜り
  注す。
  弘安六年七月一日
    関東の使者二人(行一、美濃の守長景入来す。対面の如し)
  (関東の状の趣)山門衆徒悪行の事、行一、長景を以て申さしむるの由これを載す。
  彼の状直に御所に持参するの間書き止むるに及ばず。案また使者随身せず。事書はた
  だ詞を以てこれを申す。
  天王寺別当の事、一門に付せらるべからざるの由と云々。而るに正道の輩に於いては
  浄行と雖も、延暦、園城、東寺、南都の外は、その仁に有るべからざるかの由内々尋
  ねらるるの処に、ただ先ずこの趣を申すべしと云々。
  また神輿帰坐の事申す旨無し。仍って関東の沙汰の趣存知有るかの由、使者に尋ねら
  るるの処に、これを存じ知らざると云々。但し使者密々に相語りて云く、神輿帰坐の
  事、訴訟を裁許せられざるの外は治まり難きか。その条に於いてはまた然るべからざ
  る趣と云々。仍ってその由内々申し入れをはんぬ。
  仰木門跡の事、先ず最源管領を止めらるべしと云々。その仁に計り申さず。
  一、前座主最源山を治むるの間、山門衆徒等神輿を中堂に振り上げ、大訴に及び候の
   処、この最中猥に山務を辞退するの条、自由の至り、太だ狼藉に候か。罪科遁れ難
   く候や。仰木門跡の事、管領を止めらるべく候か。
  一、今度神輿入洛の事、張本と云い下手と云い、殊に尋ね究められ、その身を召し出
   さるべく候か。兼ねてまた彼等知行の所領同じく尋ね究めらるべきか。
  一、神輿入洛の時、防御の沙汰に及ばず、剰え狼藉に及び候の条、併しながら武家緩
   怠の故に候か。京都の守護頗るその詮無きに似たり候か。然らば六波羅と云い、門
   々並びに篝屋守護の武士と云い、その科を遁るべからず候。但し異国の事近日その
   聞こえ候。今年秋襲来すべきの由これを申さしむと云々。就中文永の牒状に至元二
   十一年を以て大軍を発し襲来すべきの由これを載せ候か。明年その年限に当たり候
   か。防御の計らい他事有るべからず候。此の如きの時勇士一人も大切に候か。然か
   らば彼等の罪科の事宥めらるべく候や。
  一、天王寺別当の事、聖徳太子草創の上、仏法最初の地なり。諸寺の末寺たるの条、
   その理然るべからざるか。自今以後この儀を止められ、殊に浄行持律の仁を撰びそ
   の職に補せらるべく候か。
  一、天台座主の事、以前の條々洛居せば、後日追ってその沙汰有るべく候や。
  今日前の藤大納言(為氏)参り、家君に御対面と云々。晩に及んで憲実法印参る。同
  じく御対面と云々。

7月3日 [公衡公記]
  所労の後初めて家君の御前に参る。二位入道参られ候。法勝寺御八講、山門の事に依
  って行われざるか。将又如何に。尋ね記すべし。後聞、法勝寺御八講停止。

7月4日 [公衡公記]
  新院(亀山上皇)日来禅林寺殿を御所と為すべし。而るに東使上洛するの上、辺土の
  御所如何の由家君申さしめ給うか。仍って今日俄に靡殿に還御す。両使(行一、長景)
  今日仙洞に参る。家君(御布衣、下袴を着せしめ給う)参らしめ給う(諸大夫一人景
  衡(布衣、上括り)、御車下品の間予の車に乗らしめ給う)。中門に於いて御問答再
  三と云々。家君申次せしめ給う。秉燭の間家君退出せしめ給う。今日前の籐大納言参
  り御対面と云々。靡殿大番の事、師卿の奉書到来す。即ち武家に仰せられをはんぬ。

7月10日 天晴 [公衡公記]
  行一馬を予に引く。鴾毛、その勢粧比類無し。殊勝の馬なり。去る比、馬一疋(鹿毛)、
  砂金(五十両)家君に進ず。重ねてまた予に引く。志の至りなり。長景また去る比馬
  (栗毛)を家君に進ず。今日観證御使いとして東使の許に向かう。勅書並びに梶井の
  宮並びに妙法院法印の請文等進ぜらる。家君仍って一見の為に御使いの許に遣わされ
  をはんぬ。

7月16日 [円覚寺文書]
**関東下知状
  円覚寺の事、将軍家(惟康親王)御祈祷所として、相模の国司(時宗)申請に任せ、
  尾張国富田庄並びに富吉加納、上総国畔蒜南庄亀山郷を寄進せらるる所なり。てえれ
  ば、仰せに依って下知件の如し。
    弘安六年七月十六日       駿河守平朝臣業時(花押)

7月18日 [公衡公記]
  寅の刻ばかりに家中鼓操す。予驚いてこれを聞く。今出川忽ち流入し、すでに海の如
  しと云々。仍って立ち出てこれを見る。板敷と平頭に水溢流す。家形は船の如し。殆
  ど水上縁の上の程なり。件の元は今出川を懸け入ること(その路室町前の大納言亭を
  通り、北の築地に水門有り)。而るに去る夜大雨洪水先々に超過す。仍って源すでに
  この亭に向かう。仍って室町大納言(實藤)亭とこの亭中築地壊頽す。

7月21日 癸酉 [公衡公記]
  (前略)家君の御前に参る。仰せに云く、今朝新院より御書有り。これ関東の使者明
  日御所に召し進ぜらるべし。また家君参会せられ給うべし。もし御所労不快出仕に及
  び給わざれば、公衡参会すべきの由と云々。仍って御返事を申すの趣は東使の事急ぎ
  仰せ遣わすべし。自身参るの条叶い難く候。所労熱すと雖も未だ快らず。仍って装束
  を着すこと能わず。また公衡参るべき事、未練の上、此の如き重事の執奏旁々猶予す
  る所なり。然からば師の如きを以て御問答宜しかるべきか。(中略)然れども内々東
  使に仰せ合わす。猶公衡申次ぐべし。師卿申次の条御猶予と云々。予退出しこの趣を
  家君に申す。然れども猶ただ所労を相扶け御参有るべきの由命ぜしめ給う。公私神妙
  の事なり。仍って参るべきの由これを申す。

7月22日 天晴 [公衡公記]
  両使今日靡殿(新院御坐)に召し参るに依って、家君参会せしめ給う(御直衣下括り)。
  前駈一人(道衡、衣冠上括り)。張本の事三門主(青蓮院、梨下、妙法院)交名を注
  進す。今日東使に下し賜ると云々。予参会せず。
 

8月15日 天晴 [豊原政秋記]
  今日石清水放生会なり。次第例の如し。但し今年武家より警固有り。神人怖畏するが
  故か。また駕籠丁神人訴え申す津多里田園の事に依って、神輿御行を押すべきの由張
  行せしむると雖も、頭の中将(経氏朝臣)奉行として、昨日(十四日)院宣を下され、
  宥めらるるの間違乱無し。

8月17日 [公衡公記]
  伝聞、神輿入洛の時狼藉の宮仕六人、今日使の廰に渡さる。廷尉六人(大判事章澄、
  明法博士明成、五位尉以光、同章名、同盛隆、六位尉家康等)四條橋爪に於いてこれ
  を請け取る。則ち禁獄と云々。

8月22日 癸卯 天晴 [公衡公記]
  (前略)申の終刻、院の廰官季重(布衣、下括り)院宣を持参す(経清これを申次ぐ)。
  予家君の御命に依って案を書き留む。
   延暦寺執当法眼兼覚、同三綱権寺主定意武家に召し遣わさるる事、経氏朝臣奉書此
   の如し。子細見状候か。仍って執達件の如し。
     八月二十二日申の刻      太宰権師経任奉る
   謹上 春宮大夫(西園寺實兼)殿

   執当法眼兼覚、権寺主法眼定意、武家に召し遣わされ候。兼覚は当時寺務たるの仁、
   定意は関東に差す所の使節なり。然からば造意結構の輩と云い、狼藉張行の族と云
   い、定めて存じ知らしむるかの由度々の勅問有りと雖も、更に弁え申すの旨無し。
   これ則ち衆勘を恐怖せしめ、勅命を忽緒するに非ずや。殊に子細を尋ね注し申すべ
   きの由、武家に下知せしむべきの旨、春宮大夫に仰せ遣わさるべし。てえれば、御
   気色に依って言上件の如し。
     八月二十二日申の刻      左中将経氏
   謹上 師殿
    逐って言上
     定意法眼は、天王寺別当職訴訟の事、関東に申さんが為に使節に差し定めらる
     る所なり。則ち衆徒の会合に向かうの砌、その旨趣を存じ知らしむるか。然れ
     ば蓋し彼の輩を見知るや。而るに一人と雖も注し申さざるの条、御不審無きに
     非ざるの由その沙汰候なり。重ねて謹言
  この御教書観證の許に遣わさば定めて遅々に及ぶか。仍って家君の御前に於いて博経
  に仰せ御教書を書かる。
   延暦寺執当法眼兼覚、同三綱権寺主定意等召し遣わさるる由の事、院宣此の如し。
   子細見状候かの由、春宮大夫殿申すべくの旨候なり。恐々謹言
     八月二十二日         沙彌観證奉る
   謹上 武蔵の守(北條時村)殿
  則ち書を廰官に賜りをはんぬ。廰官この御教書を持ち、兼覚、定意等を相具して、今
  夕即ち武家に向かうと云々。後聞、両人即ち武家に預け置き、廰官子の刻ばかりに帰
  参すと云々。
 

9月12日 [公衡公記]
  今日小除目を行わる。(略)酉の一点に束帯を着し、則ち新院に参る。召しに依って
  御前に参り、家君の申さしめ給う条々を奏す(時村、顕時一級の事、頼泰諸司長官の
  事、能成侍従の事、良康権侍医還任の事)。勅答の趣、時村、顕時一級並びに頼泰兵
  庫の頭等の事、その沙汰有る所なり。
  聞書、雑任これを略す
   従四位下藤原定教    従五位上平時村 平顕時 安倍宗俊
   従五位下清原季兼 藤原景氏
  去る夜の除目任人の折紙謹んで進上し候。中納言殿御方に進入せしめ給うべく候。良
  季恐惶謹言
    九月十三日           大外記清原良季上
  進上 大内記殿
 

10月3日 癸未 晴 [勘仲記]
  多武峯の三綱等入来し、南都の衆徒寺領濫妨の事を問答す。この事奏聞を経られ院宣
  を武家に下さると云々。

10月20日 庚子 晴 [勘仲記]
  今日日吉の神輿御帰座。本訴聖断無きと雖も、先ず帰座有る所なり。無為無事朝家の
  大慶なり。今夕二條殿新御所御幸(歩儀)。頭の中将奉行す。予参内。(中略)法師
  一人小袖を纏い堂上に昇る。予これを見付け、隠間より庭上に追い下げ、見物の輩こ
  れを搦め取る。蔵人次官雅藤の青侍次郎左衛門の尉景有と云々。大番の武士これを請
  け取り緬縛すと云々。後日勧賞を行わると云々。

10月21日 [皇年代略記]
  新内裏遷幸。

10月22日 壬寅 晴 [勘仲記]
  関東相模の守時宗円覚寺の額の事を申す。普門上人を以て内々これを申す。その間の
  事申し入れんが為なり。
[禰寝文書]
**大隅守護千葉宗胤覆勘状
  異国警固番役の事、去る六月一日より八月晦日に至る迄、九十日の内五十四日、勤仕
  仕られ候いをはんぬ。恐々謹言。
    弘安六年十月二十二日      宗胤(花押)
  佐汰弥九郎殿

10月26日 丙午 晴 [勘仲記]
  今日春日の神主に泰長(前の神主泰通子息)補せらる。新権の神主に兼時(神主経世
  子)補せらる。泰通社務の時、武家の訴えに依ってこれを改易し、経世を補せられを
  はんぬ。泰通罪科をすでに謝せしむの間、還補せらるべきの由、武家また内々これを
  執し申す。仍ってこれを補せらる。泰通子息を挙補しをはんぬ。経世また指せる罪科
  無きの処に、御改替の処、不便思し食すかの間、子息を以て新権官に加え置きをはん
  ぬ
 

12月12日 [白河本東寺文書]
**関東御教書
  異賊降伏御祈りの事、武蔵、伊豆、駿河、若狭、摂津、播磨、美作、備中国等の寺社
  に於いて、懇懃の祈祷を致すべきの由、普く下知せしめ給うべきの旨、仰せ下され候
  なり。仍って執達件の如し。
    弘安六年十二月十二日      駿河守(在判)
  謹上 相模守殿

12月16日 [後藤文書]
**覆勘状案
  越後国御家人後藤刑部丞光忍、大番役十箇日(五月二十七日より同六月七日に至る)
  院の御所屏中門、勤仕せられをはんぬ。仍って執達件の如し。
    弘安六年十二月十六日      沙彌(在判)
                    平(在判)
  後藤内記殿