1284年(弘安7年 甲申)
 

1月4日 [東寺百合文書]
**得宗家奉行人奉書案
  異賊降伏御祈りの事、御教書案文此の如し。当国中の寺社に於いて、顕密に付け御祈
  請を致すべきの由、別当、神主等に相触れらるべし。且つ御祈祷の次第、注文を進ぜ
  らるべく候。仍って執達件の如し。
    弘安七年正月四日        加賀権守(在御判)
                    沙彌(在御判)
                    右衛門尉(在御判)
  若狭国守護御代官殿

1月23日 [薩摩八田家文書]
**島津忠宗施行状案
  鎮西警固の事、下し給う所の去年十二月二十一日の関東御教書案此の如し。子細見状、
  所詮、仰せ下さるるの旨に任せ、近日中役所に向かい、警固致さるべきなり。この上
  猶以て懈怠の儀有らば、不忠の由、関東に注し進ぜしむべく候。仍って執達件の如し。
    弘安七年正月二十三日      前の下野守(在判)

1月29日 [摂津勝尾寺文書]
**六波羅施行状案
  異国降伏御祈りの事、関東の御教書案二通此の如し。仰せ下さるるの旨に任せ、顕密
  に付け、御祈請の忠勤を致すべきの由、摂津国中の寺社の別当、神主等に相触れしめ、
  且つ御祈りの次第、早速執り進ぜらるべく注文の状件の如し。
    弘安七年正月二十九日      修理亮(兼時在御判)
  安東平右衛門入道殿
[肥前龍造寺文書]
**北條時定覆勘状
  警固番役の事、正月分勤仕せられ候いをはんぬ。早く帰国せしめ、異国の事聞き候ば、
  急ぎ役所に向かわるべく候。謹言。
    弘安七年正月二十九日      時定(花押)
  龍造寺小三郎左衛門代又三郎殿
 

2月28日 [薩藩旧記]
**関東寄進状案
  寄進奉る
   正八幡宮宝前
   豊前国上毛郡勤原村地頭職の事
  右、聖朝安穏、異国降伏の為に、殊なる御祈願有って、避け進せらる所なり。てえれ
  ば、鎌倉殿の仰せに依って、奉書件の如し。
    弘安七年二月二十八日      正五位下行駿河守平朝臣業時(在判)
                                        正五位下行相模守平朝臣時宗(在判)
 

3月25日 [太宰管内誌]
**大友頼泰施行状
  異国降伏御祈りの事、関東御教書の旨を守り、且つは慇懃の祈祷を致し、且つは勤行
  の次第を注し申さるべきなり。仍って執達件の如し。
    弘安七年三月二十五日
  六郷山供僧御中
 

4月4日 壬午 晴
  法光寺入道卒す。同日白虹日を貫く。日の辺赤くして朦朧たり。
[保暦間記]
  時宗三十四歳にして出家(時に法名道果、寶光寺と号す)、同日酉時死去をはんぬ。
[勘仲記]
  上皇今日八幡宮御幸。思圓上人五部大乗経を転読す。異国報賽に依ってなり。

4月8日 丙戌 晴 [勘仲記]
  早旦参院。按察卿を以て灌佛散状を奏聞す。世上物騒の事有り。関東相州時宗所労危
  急の間、去る四日出家す。件の日夭亡の由その聞こえ有り。天下の重事何事に如くべ
  きや。或いはすでに有事の由披露、或いは出家に及ぶと雖も未だ事切らずと云々。そ
  の説区分実否を知らざるの最中なり。

4月9日 丁亥 晴 [勘仲記]
  参院。相州の事一定の由その聞こえ有り。去る月二十八日より所労出来すと云々。日
  数程無きか。(中略)仙洞より御書を以て申されて云く、穢たるべきの上は、諸社の
  祭延引すべきの由、定光に仰せらるべき旨仰せ下さるの間、予御教書を書き仰せ遣わ
  しをはんぬ。

4月10日 戊子 雨降る [勘仲記]
  弘安七年四月十日宣旨
   近日柳営穢気触れ来るに依って、花洛祭礼行われ難し。宜しく賀茂祭、中山祭、
   大神祭等、日吉祭、吉田祭を停止すべし。穢限以後吉日を撰びこれを祭る。また大
   祓は例に任せこれを行うてえり。
               蔵人頭左中将藤原公敦(奉る)

4月12日 [筑後五條文書]
**少貳景資書状写
  筑後国大小屋地頭香西小太郎度景申す、弘安四年閏七月五日肥前国御厨子崎海上に於
  いて、蒙古賊船三艘の内、大船を追い懸け合戦を致し、敵船に乗り移り、度景分取り
  しめ、舎弟廣度異賊に従い海中に入り、親類□被□疵を被る。郎従或いは打ち死にし
  め、或いは手を負う。分取りしめ候子細、見知致し候由、證人を立て申す所なり。然
  れば、彼の度景合戦の次第、実正に任せ、起請文を□□致すべく候。
    弘安七年四月十二日       景資(判)
  神山四郎殿

4月13日 辛卯 [勘仲記]
  今日頭卿奉行として殺生禁断を宣下せらる。関東の事に依ってその沙汰有ると云々。
  先例この儀無きと雖も、今度の事別儀たるか。
 

閏4月16日 [龍造寺文書]
**北條時定覆勘状
  肥前国役所姪濱警固番役の事、四月分当番、次いで閏四月十五日これを加え、勤仕せ
  られ候いをはんぬ。謹言。
    弘安七年閏四月十六日      時定(花押)
  龍造寺小三郎左衛門入道代又次郎入道殿

閏4月17日 己丑 雨降る [勘仲記]
  洪水隘路中、烏丸川、西洞院川等人馬通に及ばず。一條前殿今出川等水底たりと云々。
  近衛殿烏丸面棟門流失し、築地等悉く顛倒す、町並びに西の洞院等小屋多く流失す。
  洛陽の水害頗る先規無きか。

閏4月21日 己巳 天曙の後晴に属す [勘仲記]
  相州の事以後今日御評定を行わる。殿下今日洪水に依って御参無し。烏丸川、西洞院
  川等車馬不通に依ってなり。
[薩摩比志島文書]
**島津宗忠覆勘状
  満家院内比志島分筥崎石築地の事、五丈壹尺四寸、最前に勤仕せられをはんぬ。仍っ
  て執達件の如し。
    後四月二十一日         宗忠(花押)
  比志島太郎殿
 

5月
  引付頭、一宣時、二公時、三時基、四顕時、五宗景
 

6月19日 [野上文書]
**大友頼泰書下
  野上太郎資直申す蒙古軍功證人の事、子細を相尋ねられんが為に、今月中上府せしめ
  給うべし。但し要害番もし指し合いせしめば、その隙を以て、参府有るべきなり。仍
  って執達件の如し。
    弘安七年六月十九日       沙彌(花押)
  森三郎殿
 

7月7日 [保暦間記]
  嫡子貞時(時に左馬権頭)生年十四歳にて、彼の跡を継で将軍の執権す。

7月21日 丁酉 晴 [勘仲記]
  今日出仕せず。関東の椙本判官叙留の事宣下すべきの由師卿の奉書到来す。即ち内覧
  宣下せしめをはんぬ。本儀に任せ先ず従五位下の位記を給うべし。検非違使は元の如
  し。件の書き用、
    左衛門の少尉平宗明
     検非違使元の如し、宣に従五位下の位記を賜う。

7月22日 戊戌 晴 [勘仲記]
  多武の峯の三綱召し置く所なり。興福寺と多武の峯と喧嘩の事種々御問答有り。峯申
  して云く、城廊を徹却する事は、南都の沙汰静謐に属さざる上は、左右無く徹却する
  の條豫儀有るべきと雖も、深く思し召す子細有り。慇懃に仰せ下さるるの上は、御定
  に随うべきの由衆徒これを申す。(後略)
 

8月の比
  修理権の亮時光(越後の守時盛息)陰謀の事露顕するの間、種々の拷問を歴るの後、
  土佐の国に配流す。満実法師と同意と云々。

8月8日 [鎌倉大日記]
  業時(重時五男)陸奥の守。
[勘仲記]
  今夕小除目を行わる。頭大蔵卿奉行す。関東申し請う名を国司等に任ぜらるべしと云
  々。頭卿昼間目六を持参し、奏聞すべきの由仰せ下されをはんぬ。聞書に云く、
    駿河の守平政長         下総の守藤原宣光
    陸奥の守平業時         加賀の守藤原範顕
    従四位下籐冬平(前関白殿御息) 正五位下平時村(六波羅) (以下略)

8月19日 甲子 晴 [勘仲記]
  早旦殿下より御書到来す。興福寺衆徒多武の峯に発向する事、峯の申し状を以て急ぎ
  奏聞を経るべし。武家使を差し遣わされ制止せらるの趣なり。師卿に付すの処に、今
  日精進を始むるの間難治の由これを申す。仍って按察卿に付けをはんぬ。

8月23日 [甲斐大善寺文書]
**関東御教書
  当寺本堂大善寺造営の事、勧進甲斐国中、その功を終しむべきの由。仰せ下さるる所
  なり。仍って執達件の如し。
    弘安七年八月二十三日      左馬権頭(貞時御判)
                    陸奥頭(業時御判)

8月28日 癸酉 晴 [勘仲記]
  今日興福寺の衆徒多武の峯に発向し、四ヶ郷の内浅古萩田等に襲来し焼き払うと云々。
  この両三年興福寺土打を相論する事根元なり。今に落居せず。終に以て合戦に及ぶ。
 

9月1日 丙子 雨降る [勘仲記]
  多武の峯喧嘩の事勅問有り。予日来沙汰の次第を申し上ぐるなり。

9月2日 丁丑 雨降る [勘仲記]
  南都の衆徒宗たるの輩十人召し上げらる。今日御問答有る所なり。日来南都の衆徒事
  に於いて非拠に張行し、多武の峯等に発向する事なり。今度蜂起を止むべきの由院宣、
  長者の宣を下さるると雖も、一切叙用せず。此の如き諸悪相積むの間、或いは懸け仰
  せられ、或いは張本等を尋ね捜さると云々。

9月8日 癸未 晴 [勘仲記]
  興福寺衆徒去る月二十八日より合戦を始め、日々多武の峯に発向す。寺郷の内大概焼
  失す。廟門を守護すべきの由院宣を以て武家に仰せ下すと雖も、関東に申し合わさず
  んば難治の由これを申す。使者を差し遣わし南都の発向を制止せしむべきの由仰せ下
  されをはんぬ。未だ分明の左右を申さざるか。合戦日々休まず。興福寺方寄手の損命
  はその数を知らずと云々。

9月12日 丁亥 晴 [勘仲記]
  今日住吉の御装束を奉献せらる。出納俊景、小舎人維景奉行す。当年武家公事用途五
  千疋、その外一向の成功、或いは宣下せられ或いは除目を任ぜらる。

9月15日 庚寅 晴 [勘仲記]
  興福寺と多武の峯と合戦の事、当時両方の次第長者の宣に載せ関東に仰せらるべし。
  書き進すべきの由南曹弁経頼朝臣に仰せらるるの処固辞す。仍って内々御奏聞有り。
  仍って厳密に仰せ下さるの間、書き進すべきの由今日領状を申すと云々。衆徒の威を
  恐れ、長者の仰せに背く、太だ道理に叶わず。
 

10月7日 辛亥 晴 [勘仲記]
  興福寺の衆徒六人召され、長者仰せ含めらる。蜂起の衆徒退かるべし。今宿老の輩蜂
  起せしむ寺社の事穏やかに奉行すべきの由仰せ含めらると云々。
 

12月9日 癸丑 晴 [勘仲記]
  今日新日吉の小五月会なり(去る五月本社の事に依って延引す)。競馬有り。(略)
  流鏑馬上馬、第七番筑後の前司基頼法師の流鏑馬の馬俄に走り出で乗る人落馬すと云
  々。次第にこれを射る。
  流鏑馬
   一番 武蔵の守平時村(武家北方)
      射手 伊賀の右衛門六郎藤原光綱
      的立 福田寺太郎兵衛の尉藤原行實
   二番 備後民部大夫三善政康
      射手 牧右衛門四郎藤原政能
   三番 葛西三郎平宗清
      射手 富澤三郎平秀行
   四番 肥後民部大夫平行定法師(法名寂圓)
      射手 宮地彦四郎清原行房
   五番 東六郎左衛門の尉平行氏法師(法名素道)
      射手 遠藤左衛門三郎盛氏
   六番 頓宮肥後の守藤原盛氏法師(法名道観)
      射手 奥野二郎太郎源景忠
   七番 後藤筑後の前司基頼法師(法名寂基)
      射手 舎弟壱岐十郎基長
        落馬するの間当座射手を差し替ゆと云々。

12月13日 [法華堂文書]
**関東御教書
   右大將家法華堂領相模の国林郷大多和村内の田三町、畠壹町、在家参宇の事
  禅衆分として領知せしむべきの状、仰せに依って執達件の如し。
    弘安七年十二月十三日      左馬権の頭(貞時花押)
                    陸奥の守(業時花押)
  民部阿闍梨(尊仲)御房

12月21日
  評に云く、安堵の御下文の事御成敗に准うべからず。訴訟出来するの時は、理非に就
  いて裁許せらるべし。