3月1日 [皇年代略記]
後二條院誕生。
4月18日 [保暦間記]
貞時相模の守に任ず。
*[保暦間記]
爰に泰盛(貞時外祖)、頼綱(貞時が内官平左衛門尉、先祖人を知らず)、中悪して
互に失はんとす。共に種々の讒言を成程に、泰盛が嫡男秋田城介宗景と申けるが、驕
の極にや。曽祖父景盛入道は右大将頼朝の子故なればとて、俄に源氏に成けり。その
時頼綱入道折を得て、宗景が謀叛を起して、将軍に成らんと企て源氏に成由訴ふ。
11月17日
申の時、城の陸奥の入道覺眞の一族悉く誅せらる。但し丹後の守頼景法師殃を脱しを
はんぬ。合戦の日、余炎将軍の御所に移り焼失しをはんぬ。越後の守顕時、泰盛入道
の縁坐たるの間、総州埴生の庄(永仁四年に召し返さる)に左遷さる。合戦の時非分
に誅せらるる輩、刑部卿相範、三浦対馬の前司、懐島隠岐の入道、伴野出羽の入道、
太宰の少貳、大曽禰上総の前司、足利上総の三郎、南部の孫次郎等と云々。
[武家年代記]
城の陸奥入道一族(泰盛(法名覚真)、同城介宗景、美濃入道長景、舎弟弥九郎已上
の輩)誅されをはんぬ。余火に依って御所炎上しをはんぬ。越後守顕時流刑(永仁元
年四月二十七日召し返さる。赦免)
[熊谷直之所蔵文書]
**安達泰盛乱自害者注文
弘安八年十一月十七日鎌倉合戦に於いて人々自害
前の陸奥入道 秋田城の介 前の美濃入道 秋田大夫判官入道
前の上総の守 大曽祢左衛門入道 伴野出羽の守 小笠原十郎
田中筑後五郎左衛門の尉 田中筑後四郎 殖田又太郎入道 小早河三郎左衛門の尉
三科蔵人 和泉六郎左衛門の尉 筑後伊賀四郎左衛門の尉 同子息
葦名四郎左衛門の尉 同六郎 足立太郎左衛門の尉 武蔵少輔左衛門の尉
同太宰少貳 有坂三郎 伊藤太郎左衛門の尉
**安達泰盛乱聞書
城の入道並びに城助、美乃入道、十郎判官入道、一門皆伐たれをはんぬ。奥州入道十
七日巳の刻まては、松か上に住、その後世の中動くに依って、塔の辻の屋方へ午の時
に出られけるに、守殿参らると云々。死者三十人てをいは十人ばかり(以下不明)
**安達泰盛乱聞書
陸奥入道、城の介、三乃入道、城大夫判官入道、上総の介、太宰の少貳、四郎左衛門
の尉、隠岐の入道、出羽の守、対馬の前司、加賀の太郎左衛門の尉、同六郎、殖田又
太郎入道、城左衛門次郎、葦名四郎左衛門の尉、美作三郎左衛門の尉、桐嶋二郎入道、
池上籐内左衛門の尉、行方少二郎、伊東三郎左衛門の尉、足立太郎左衛門の尉、南部
孫二郎、和泉六郎左衛門の尉 その人を始として、五百人或いは自害(以下不明)
11月23日 [廣嶺胤忠氏文書]
**廣嶺長祐着到状写
播磨国御家人廣峯兵衛大輔子息長祐、関東の御事に依って参上仕り候、この旨を以て、
御披露有るべし。恐惶謹言。
弘安八年十一月二十三日
平左近将監殿
12月2日 [熊谷直之所蔵文書]
**安達泰盛乱自害者注文
上総三郎右衛門の尉 加賀太郎左衛門の尉 同六郎 三浦対馬の守
城の七郎兵衛の尉 鎌田弥籐二左衛門の尉 小笠原の四郎 城の太郎左衛門の尉
城の五郎左衛門入道 伴野三郎 同彦二郎 武田小河原四郎
鳴海三郎 隠岐の入道 城の三郎二郎 城の左衛門太郎
秋山の人々、この外、武蔵、上野の御家人等自害は注進に及ばず。先ず以て承り及ぶ
ばかりこれを注す。
同十二月二日到来
12月18日 [坂口忠智氏文書]
**千葉宗胤書下
「ゑちせん殿いくさの御かきくたし」
越前々司盛宗追討騒動の間、折節訴訟に依って當参の刻、馳せ向わるるの条、神妙に
候、今に於いては、世間無為、警固の当番衆に非ざれば、下国せしめ給うべく候、恐
々謹言。
弘安八年十二月十八日 宗胤(花押)
佐汰彌九郎(定親)殿
12月21日 [賜蘆文庫文書]
**金澤顕時書状案
態と専使を以て申せしめ候、城入道追討を仰せ付く事、因縁たるに依って、御不審を
残され候か、仍って配流の由仰せ下され候、今に於いては、生涯の向顔不定に覚え候、
殊に丹誠を抽んで御祈念に預かるべく候、それに付いて候には、文永六年より何事と
候わす世上騒乱の間、人の上か、身の上か、安不更に弁じ難き時分に候き、仍って寄
進状並びに絵図を認め置き候、その後同九年正月十四日名越尾張入道・遠江守兄弟、
倶に非分に誅せられ候いをはんぬ。同年二月十五日六波羅式部丞誅せられ候、今年ま
た城入道、十一月十七日誅せられ候いをはんぬ。皆御存知の事に候と雖も、無常の理、
心腑に銘じ候、凡そこの十余年の式、ただ薄氷を踏むが如く候き、今既にその罪身に
当たり候の間、不運の至り、思い設くる事に候、明日払暁総州に下向し候、寺家敷地
の事、副え進す所の絵図を以て際目として、向後御知行有るべく候、金澤郷の事、子
細有るべからざるの由、仰せ下され候の間、歎きの中の喜びこの事に候、猶々祈祷偏
に憑み存じ候、この旨を以て御披露有るべく候、恐惶謹言。
十二月二十一日 越後守顕時(在判)
進上 称名寺方丈(侍者御中)
12月24日 [吉田家本追加]
**関東御教書
猪俣右衛門四郎入道蓮覺自由に出家するの由、これを訴え申すと雖も、前々出家の事、
御沙汰に及ばざるの由、定め下さるるの間、蓮光の訴訟を棄て置かるる所なり。存じ
知らしむべきの旨、仰せに依って執達件の如し。
弘安八年十二月二十四日 相模守(貞時)
陸奥守(業時)
(これは越後国御家人なり)安江太郎入道殿、奉行人皆由四郎