1285年(弘安8年 乙酉)
 

3月1日 [皇年代略記]
  後二條院誕生。
 

4月18日 [保暦間記]
  貞時相模の守に任ず。
 

*[保暦間記]
  爰に泰盛(貞時外祖)、頼綱(貞時が内官平左衛門尉、先祖人を知らず)、中悪して
  互に失はんとす。共に種々の讒言を成程に、泰盛が嫡男秋田城介宗景と申けるが、驕
  の極にや。曽祖父景盛入道は右大将頼朝の子故なればとて、俄に源氏に成けり。その
  時頼綱入道折を得て、宗景が謀叛を起して、将軍に成らんと企て源氏に成由訴ふ。

11月17日
  申の時、城の陸奥の入道覺眞の一族悉く誅せらる。但し丹後の守頼景法師殃を脱しを
  はんぬ。合戦の日、余炎将軍の御所に移り焼失しをはんぬ。越後の守顕時、泰盛入道
  の縁坐たるの間、総州埴生の庄(永仁四年に召し返さる)に左遷さる。合戦の時非分
  に誅せらるる輩、刑部卿相範、三浦対馬の前司、懐島隠岐の入道、伴野出羽の入道、
  太宰の少貳、大曽禰上総の前司、足利上総の三郎、南部の孫次郎等と云々。  

[武家年代記]
  城の陸奥入道一族(泰盛(法名覚真)、同城介宗景、美濃入道長景、舎弟弥九郎已上
  の輩)誅されをはんぬ。余火に依って御所炎上しをはんぬ。越後守顕時流刑(永仁元
  年四月二十七日召し返さる。赦免)

[熊谷直之所蔵文書]
**安達泰盛乱自害者注文
  弘安八年十一月十七日鎌倉合戦に於いて人々自害
  前の陸奥入道  秋田城の介     前の美濃入道    秋田大夫判官入道
  前の上総の守  大曽祢左衛門入道  伴野出羽の守    小笠原十郎
  田中筑後五郎左衛門の尉 田中筑後四郎 殖田又太郎入道  小早河三郎左衛門の尉
  三科蔵人    和泉六郎左衛門の尉 筑後伊賀四郎左衛門の尉 同子息
  葦名四郎左衛門の尉 同六郎     足立太郎左衛門の尉 武蔵少輔左衛門の尉
  同太宰少貳   有坂三郎                伊藤太郎左衛門の尉

**安達泰盛乱聞書
  城の入道並びに城助、美乃入道、十郎判官入道、一門皆伐たれをはんぬ。奥州入道十
  七日巳の刻まては、松か上に住、その後世の中動くに依って、塔の辻の屋方へ午の時
  に出られけるに、守殿参らると云々。死者三十人てをいは十人ばかり(以下不明)

**安達泰盛乱聞書
  陸奥入道、城の介、三乃入道、城大夫判官入道、上総の介、太宰の少貳、四郎左衛門
  の尉、隠岐の入道、出羽の守、対馬の前司、加賀の太郎左衛門の尉、同六郎、殖田又
  太郎入道、城左衛門次郎、葦名四郎左衛門の尉、美作三郎左衛門の尉、桐嶋二郎入道、
  池上籐内左衛門の尉、行方少二郎、伊東三郎左衛門の尉、足立太郎左衛門の尉、南部
  孫二郎、和泉六郎左衛門の尉   その人を始として、五百人或いは自害(以下不明)

11月23日 [廣嶺胤忠氏文書]
**廣嶺長祐着到状写
  播磨国御家人廣峯兵衛大輔子息長祐、関東の御事に依って参上仕り候、この旨を以て、
  御披露有るべし。恐惶謹言。
    弘安八年十一月二十三日
  平左近将監殿
 

12月2日 [熊谷直之所蔵文書]
**安達泰盛乱自害者注文
  上総三郎右衛門の尉 加賀太郎左衛門の尉  同六郎     三浦対馬の守
  城の七郎兵衛の尉  鎌田弥籐二左衛門の尉 小笠原の四郎  城の太郎左衛門の尉
  城の五郎左衛門入道 伴野三郎       同彦二郎    武田小河原四郎
  鳴海三郎      隠岐の入道      城の三郎二郎  城の左衛門太郎
  秋山の人々、この外、武蔵、上野の御家人等自害は注進に及ばず。先ず以て承り及ぶ
  ばかりこれを注す。
    同十二月二日到来

12月18日 [坂口忠智氏文書]
**千葉宗胤書下
  「ゑちせん殿いくさの御かきくたし」
  越前々司盛宗追討騒動の間、折節訴訟に依って當参の刻、馳せ向わるるの条、神妙に
  候、今に於いては、世間無為、警固の当番衆に非ざれば、下国せしめ給うべく候、恐
  々謹言。
    弘安八年十二月十八日      宗胤(花押)
  佐汰彌九郎(定親)殿

12月21日 [賜蘆文庫文書]
**金澤顕時書状案
  態と専使を以て申せしめ候、城入道追討を仰せ付く事、因縁たるに依って、御不審を
  残され候か、仍って配流の由仰せ下され候、今に於いては、生涯の向顔不定に覚え候、
  殊に丹誠を抽んで御祈念に預かるべく候、それに付いて候には、文永六年より何事と
  候わす世上騒乱の間、人の上か、身の上か、安不更に弁じ難き時分に候き、仍って寄
  進状並びに絵図を認め置き候、その後同九年正月十四日名越尾張入道・遠江守兄弟、
  倶に非分に誅せられ候いをはんぬ。同年二月十五日六波羅式部丞誅せられ候、今年ま
  た城入道、十一月十七日誅せられ候いをはんぬ。皆御存知の事に候と雖も、無常の理、
  心腑に銘じ候、凡そこの十余年の式、ただ薄氷を踏むが如く候き、今既にその罪身に
  当たり候の間、不運の至り、思い設くる事に候、明日払暁総州に下向し候、寺家敷地
  の事、副え進す所の絵図を以て際目として、向後御知行有るべく候、金澤郷の事、子
  細有るべからざるの由、仰せ下され候の間、歎きの中の喜びこの事に候、猶々祈祷偏
  に憑み存じ候、この旨を以て御披露有るべく候、恐惶謹言。
    十二月二十一日         越後守顕時(在判)
  進上 称名寺方丈(侍者御中)

12月24日 [吉田家本追加]
**関東御教書
  猪俣右衛門四郎入道蓮覺自由に出家するの由、これを訴え申すと雖も、前々出家の事、
  御沙汰に及ばざるの由、定め下さるるの間、蓮光の訴訟を棄て置かるる所なり。存じ
  知らしむべきの旨、仰せに依って執達件の如し。
    弘安八年十二月二十四日     相模守(貞時)
                    陸奥守(業時)
  (これは越後国御家人なり)安江太郎入道殿、奉行人皆由四郎