1月5日
白虹出現す。
1月6日 癸酉 晴 [勘仲記]
参院、春日行幸の次第日次の事を奏聞す。(中略)橋渡の官人並びに供奉の衛府、例
に任せ関東に仰せらるべきか。早く仰せ遣わすべきの由、春宮大夫に仰すべし。
1月8日 乙亥 晴 [勘仲記]
参院、橋渡の官人並びに供奉の衛府の事、例に任せ沙汰し進すべきの由、武家に仰す
べきの旨、御教書を以て春宮大夫に仰す。
2月21日 [坂口忠智氏文書]
**大隅守護代唯道書状
仰せを蒙り候去年分(弘安八)警固役御勤仕の條、御書下の事、今朝の程これを申し、
進せしむべきの由相存じ候の処、今夜私宅焼亡し候間、物騒がしく候、後便宜に取り
進せしむべく候、努めて疎略有るべからざるの儀に候、恐々謹言、
弘安九年二月二十一日 唯道(花押)
佐汰彌九郎殿(御返事)
5月9日 乙亥 晴 [勘仲記]
新日吉小五月会。流鏑馬次第、
一番 相模修理亮平兼時
射手 金田又二郎源頼兼
的立 直上左衛門の尉平基久
二番 三河の守藤原経親法師(法名寂観)
射手 堤山四郎五郎安部盛遠
三番 前加賀の守三善政康
射手 副田七郎三郎大蔵頼種
四番 佐々木壱岐四郎左衛門の尉源長綱法師(法名道西)
射手 箕田二郎兵衛の尉源吉
五番 出羽二郎左衛門の尉籐長家
射手 今村兵衛二郎藤原久盛
六番 式部孫右衛門の尉藤原頼康
射手 贅田左衛門四郎多々良盛朝
七番 相模修理亮平兼時
射手 岩田八郎丹後政房
武家北家武蔵の守軽服の間、両方南方沙汰し進しをはんぬ。
6月
引付頭、一宣時、二道鑑、三道西、四時兼、五政長
6月11日 [山田家譜]
**関東御教書
新造御所御持仏堂渡廊用途の事、薩摩国谷山郡司資忠対捍すと云々。早く先例に任せ、
催勤せしむべきの状、仰せに依って執達件の如し。
弘安九年六月十一日 相模守(在判)
陸奥守(在判)
土用熊殿
6月14日 [肥後大慈寺文書]
**源泰明書状案
大渡大慈寺伽藍敷地の間の事、橋辺に就いて興行有るべきの由、所望せられ候に依っ
て、最小分に候と雖も、寺地一所これを寄進せしめ候、将又、彼の仏性燈油修理用と
して、荒野少々開発有るべく候、この条且つは故相模守(時宗)殿の御菩提の為、且
つは関東御祈祷を申され候事、尤も然るべく相存じ候、恐々謹言、
六月十四日 源泰明(在判)
7月16日 [新編追加]
**関東評定事書
一 鎮西の輩訴訟の事
守護人尋ね沙汰せしむべきの由、先日仰せられをはんぬ。然ると雖も、猶地頭御家
人・寺社別当神主供僧神官・所々の名主庄官以下、参訴を企つ。自今以後に於いて
は、別なる仰せに非ざるの外、関東・六波羅に参るべからず。住国せしめ異国警固
を致すべし。訴訟有らば、少貳入道(経資)・兵庫入道(大友頼泰)・薩摩入道(宇
都宮通房)・渋谷権守入道寄り合い尋ね成敗せしむべし。もし国難裁許に於いては、
注進せしむべし。越訴たると雖も、尋ね究め注し申すべし。関東居住の輩訴え申す
鎮西の族は下向せしめ、沙汰を経るべし。関東に於いてその沙汰有るべからず。
7月18日 [筑後大友文書]
**関東御教書案
鎮西の輩訴訟の事、守護人尋ね沙汰せしむべきの由、先日仰せ下されをはんぬ。而る
に尚地頭御家人・寺社別当・神主・供僧・所々の名主・庄官已下、関東に参訴をせし
むと云々。自今以後に於いては、別なる仰せに非ざるの外、関東・六波羅に参るべか
らず。訴訟有らば、兵庫入道・少貳入道・薩摩入道・河内権守入道寄り合い、裁許せ
しむべし。国難成敗に於いては、子細を注進せしむべし。越訴たると雖も、早く尋ね
究め注し申すべし。但し奉行人中敵対の事有らば、残りの人尋ね沙汰せしむべし。こ
の旨を以て相触れせしむべきの状、仰せに依って執達件の如し。
弘安九年七月十八日 相模守
陸奥守
大友兵庫入道殿
7月29日 [新編追加]
**関東評定事書
一 鎮西御家人所領の事
異国警固落居せざるの程は、女子に譲るべからず。男子無くば、親類を以て養子と
為し、これに譲るべし。
一 鎮西御家人訴訟の事
急ぎ沙汰有るべし。且つは九、十、十一、十二の四箇月、事切らるるべきか。
日来の如く相違無く各々領掌すべし。縦え御使の下知有ると雖も、先ず元の如く沙汰
し付けしむべし。但し非分の押領並びに新儀の濫妨の事は、各々寄り合い尋ね明かし、
注進せしむべきの由、少貳入道・兵庫入道・薩摩入道・河内権守入道等に仰せらるべ
し。
8月27日 [肥前青方文書]
**少貳経資書下案
筑後国役所博多庄濱石築地内友清内七段二丈分、所課□□、不日勤仕せらるべく候、
依って執達件の如し。
弘安九年八月二十七日 太宰少貳(花押影)
友清又次郎入道殿
8月晦日 [坂口忠智氏文書]
**千葉宗胤覆勘状
異国警固今津番役の事、九十ヶ月の内五十四日は、代官治部房了親を以て、勤仕せら
れ候いをはんぬ。残る日数は、九郎二郎殿分の由承り候いをはんぬ。恐々謹言。
弘安九年八月晦日 宗胤
佐多彌九郎殿
10月19日 [筑後立花大友文書]
**関東御教書案
蒙古合戦勲功の事、交名並びに田数注文これを遣わす。早く検注を遂げ、注文を守り、
これを分け付けしむべし。屋敷・在家・畠地等は、追々田数分限、省き充てしむべし。
次に神社仏寺の免田並びに甲乙人の給分、河海野畠山等は、暗に配分し難く、然れば、
所出並びに所務の故実、分明に注進せしむべし。彼の状到来の時、面々御下文を成す
べきなり。但し今年の所當に於いては、収納せしめ、員数を注し申すべきの状、仰せ
に依って執達件の如し。
弘安九年十月十九日 相模守
陸奥守
兵庫頭入道殿
太宰小貳入道殿
10月29日 [肥前有浦文書]
**関東下知状案
早く斑島右衛門三郎、筑前国那珂東郷岩門拾分壹(金田六郎左衛門の尉跡)を領知
せしむべき事、
右、去年石門合戦の忠に依って、充て行わるる所なり。てえれば、早く先例を守り、
領掌せしむべきの状、仰せに依って下知件の如し。
弘安九年十月二十九日 相模守平朝臣
陸奥守平朝臣
12月5日 [法華堂文書]
**北條貞時寄進状
御剱入るの状公朝に付す
右大將家御剱(髭剪と号す)、後御上洛の時、或いは貴所御悩に依って、御護りの為
にこれを進ぜらる。その後或いは霊社に籠めらるるの処に、陸奥入道眞覚(安達泰盛)
これを尋ね取らしむと云々。去年十一月の合戦の後、不慮に尋ね出さるるの間、殿中
に於いて装束を加えられ、法華堂の御厨子に籠められんが為に、工藤右衛門入道杲禅
を以て、昨日これを送らる(赤地の錦の袋に入る)。仍って随身せしめ、御堂に籠め
奉るの状件の如し。
弘安九年十二月五日 貞時(花押)
別当法印公朝
12月14日 丙午 晴 [勘仲記]
法光寺の事に依って、関東の状と称して、仙瞬律師(法光寺別当)構え出す。これに
依って両人連署を加え奏聞す。而るに関東よりその儀無きの由、妙法院僧正に返答す
るの間、僧正頻りに欝訴す。武家仙瞬に相尋ぬる処、所労と称し出対せず。終に以て
夭亡す。遺跡を譴責するの間、擬作の状を進覧せしむ。武家奏聞するの間、この儀出
来すと云々。
12月30日 [薩藩旧記]
**関東御教書案
異賊警固の為、兼時・時家を鎮西に下し遣わす所なり。防戦の事、評定を加え、一味
同心して籌策を運すべし。且つは合戦の進退、宜しく兼時の計に随うべし。次に地頭
御家人並びに寺社領本所一圓地の輩の事、守護人の催促に背き、一揆せざるは、注し
申すべし。殊にその沙汰有るべき由、薩摩国中に相触るべきの状、仰せに依って執達
件の如し。
弘安九年十二月三十日 相模守(在判)
島津下野三郎左衛門の尉殿
閏12月22日 [肥前田尻家文書]
**関東下知状
早く田尻三郎種重子息、薩摩国麑嶋郡職内拾分壹を領知せしむべき事、
右、蒙古合戦の忠に依って、充て行わるる所なり。てえれば、早く先例を守り、領掌
せしむべきの状、仰せに依って下知件の如し。
弘安九年閏十二月二十二日 相模守平朝臣(花押)
陸奥守平朝臣(花押)