1287年(弘安10年 丁亥)
 

正月29日 [肥前龍造寺文書]
**北條為時施行状
  異賊防御の事、去年十二月三十日の関東の御教書今月二十五日に到来す。案文此の如
  し。早くこの旨を存じらるべきなり。且つは今年殊に異国用心有るの間、肥前国中の
  地頭御家人、本所一円預かり所等、六番結定せしむ所なり。三月九月役所に参勤せら
  るべく候、仍って執達件の如し。
    弘安十年正月二十九日      前遠江守(花押)
  龍蔵寺三郎兵衛入道殿
 

3月3日 [近江朽木文書]
**佐々木頼綱譲状案
  一 大刀一(名明劔) 同ほろ一
  この大刀ハ、弘安八年十一月十七日の合戦の時、かたきをあまたうつといへとも、聊
  もしらます、つたへたる宝物なり。身をはなつへからす。ならひにほろ一相具して、
  譲り渡す所件の如し。
    弘安十年三月三日        左衛門の尉源頼綱(御在判)

3月4日 甲午 晴 [勘仲記]
  閭巷物騒、武士等干戈を捧げ東西に馳せ走る。何の由緒か知らず。武家馳せ集まるの
  由その説有り。秉燭の程に帰宅す。

3月11日 辛丑 晴 [勘仲記]
  北面重兼下人腹巻きを着し、女房侍従の局に罷り向かう。局大番の武士これを搦め捕
  る。而るに彼の局蔵人親雄を以て、門守護の武士に問答す。然れども一切叙用せず。
  女房当番の小舎人秀任を召し、御使いと称し武士正員を差し遣わし、佐々木備中の前
  司頼綱に先ず進ずべきの由示し遣わす。頗る勅定の由を称すか。この事叡聞に達すか
  の間、予を召され仰せ下さるるの子細等有り。大番の武士を召し仰す所なり。小舎人
  を召し問答の子細、驚き思し食すの体なり。

3月12日 壬寅 晴 [勘仲記]
  去る夜狼藉人の間の事院の御所に訴え申さる。事の次第尤も驚き思し食し、蔵人親雄
  出仕を止めらる。小舎人秀任月奏を除かる。北面重兼同じく出仕を止めらる。

3月30日 [肥前龍造寺文書]
**北條為時覆勘状
  肥前国役所姪濱警固番役の事、三月当番勤仕せられ候いをはんぬ。謹言。
    弘安十年三月三十日       為時(花押)
  龍蔵寺六郎入道殿
 

5月10日 庚子 雨降る [勘仲記]
  霖雨休まず。鴻水その難有り。法成寺総社の後の築地流失するの間、検知せんが為に
  彼の辺に参る。先規頗る稀か。その次ぎに二條河原に向かい鴻水を歴覧す。大略滔水
  の如し。青苗流失し、諸庄園損亡す。兆民多くそれを愁うか。

5月11日 辛巳 今日適々晴に属す [勘仲記]
  今日任官功の員数の事評定有り。近年減少するの間、興行の御沙汰有り。
    成功員数の事
   八部丞  七百疋(但し民部丞千五百疋)
   諸司助  千五百疋        同允   五百疋
   諸国権守 千五百疋        近衛将監 八百疋
   靭負尉  千五百疋        兵衛尉  千疋
   馬允   六百疋         叙爵   千五百疋
    追ってこれを定めらる。
   法眼   千五百疋        法橋   千疋
 

6月3日 壬戌 晴 [勘仲記]
  関東使(時清)昨日上洛す。今日春宮大夫の亭に向かう。即ち仙洞に参ると云々。重
  事等を含むか。

6月4日 癸亥 晴 [勘仲記]
  今日延暦寺六月会、予奉行す。右中為俊朝臣、関東の使者上洛し申して云く、将軍御
  昇進の事これを申す。

6月5日 甲子 晴 [勘仲記]
  今夕小除目を行わる。頭左京大夫信輔朝臣奉行す。関東の征夷大将軍中納言並びに右
  大將に任ぜしめ給う。

6月10日
  申の刻、三嶋社の南門の小社の戸西南の角を向かしむ。同七月二十九日辰の刻、元の
  如く向き直さしむと云々。

6月26日
  入道正五位下行陸奥の守平の朝臣業時卒す。

6月晦日 [肥前青方文書]
**北條為時覆勘状
  肥前国役所姪濱警固番役の事、六月分勤仕せられ候いをはんぬ。仍って執達件の如し。
    弘安十年六月晦日        為時(在御判)
  白魚九郎殿
 

8月16日
  新造の御所に御移徙。

8月24日
  二階堂の修理供養。導師は公朝僧正。
 

9月5日 [服部玄三氏文書]
**関東御教書
  鶴岡八幡宮供僧圓幸法眼申す、武蔵国高柳村所當未進の事、重ねて訴状これを遣わす。
  度々御教書に背き、その道を遣わさずと云々。甚だ自由なり。所詮、員数に任せ、早
  速究済せしむべし。猶以て叙用せざれば、殊に御沙汰有るべきの状、仰せに依って執
  達件の如し。
    弘安十年九月五日        前武蔵守(宣時花押)
                    相模守(貞時花押)
  高柳八郎後家

9月26日  甲寅 晴 [勘仲記]
  去る夕東使能登の前司宗綱上洛すと云々。定めて重事を含むか。今日春宮大夫の亭に
  向かうと云々。

9月27日 乙卯 晴 [勘仲記]
  東使申す事等春宮大夫去る夕参院し申し入ると云々。幕下並びに納言を辞し申され、
  親王宣旨を蒙らしめ給うべしと云々。また造閑院の事を申し入ると云々。殿下御参有
  って、御対面有り。立親王の事申し合わさるるか。
 

10月 [増鏡]
  この御門(後宇多)位に即かせ給ひて、十三年ばかりになりぬらむ。本院(後深草)
  待遠にあぼさるらむと、いとほしく推し量り奉るにや。例の東より奏する事あるべし。
  おりゐさせ給ふ。もとのうへは二十一にぞならせ給ひける。春宮(伏見)位に即き給
  ひぬれば、天下本院におしうつりぬ。

10月12日 己巳 晴 [勘仲記]
  関東の使者宗綱文函を随身し、只今春宮大夫の許に罷り向かうの由、その聞こえ有り。
  即ち下向すと云々。これ春宮受禅の事計らい申すの由、その説有り。(中略)少時し
  て上皇出御有り。殿御参、師已下の人々参り評定有り。この間予春宮に参り御膳の陪
  膳を勤む。龍輿有るべきの由関東計らい申すと云々。御所中の上下騒動し、人々の群
  参雲霞の如し。新院より師卿を以て御使いとして執柄申されて云く、重事御沙汰有る
  べしと云々。

10月13日 庚午 晴 [勘仲記]
  新院に伺うべきの由仰せ有り。頭大夫を召され、御譲位の事奉行すべきの由、陰陽の
  助在秀朝臣に仰せ含めらる。

10月16日 癸酉 晴 [勘仲記]
  御譲位日次の事、二十一日一定の由、頭大夫示し送る。

10月17日 甲戌 陰 [勘仲記]
  今暁按寮頼親卿新院の御使いとして関東に下向す。吉田親秀の宿所より進発すと云々。

10月19日 丙子 晴 [勘仲記]
  本院常磐井の第に御幸す。明後日より富小路殿皇居たるべきが故なり。御幸は時経奉
  行す。公卿は四條前の大納言、大理、殿上人中将為兼朝臣以下と云々。

10月21日 戊寅 晴 [伏見天皇宸記]
  今日譲位なり。去る十二日関東より申すに依ってなり。日時在秀朝臣兼ねてこれを撰
  び申す。関白これを仰すと云々。
 

11月26日 癸丑 天晴 [伏見天皇宸記]
  夕関白参る。関東の進物等到来す。金四百五十両、絹、綿。長橋の妻より、蔵人説春
  これを取り上ぐ。貢馬院の御所に進ず。即ち御覧有ると云々。

11月27日 甲寅 天晴 [伏見天皇宸記]
  昨日の進物等、男女に分かち遣わす。金は院の御所に進ず。

11月29日 [肥前深堀家文書]
**北條為時覆勘状
  肥前国役所姪濱警固番役の事、十一月分勤仕せられ候いをはんぬ。仍って執達件の如
  し。
    弘安十年十一月二十九日     為時(花押)
  深堀彌五郎殿
 

12月24日
  円覚寺焼失す。
  引付頭、一時村、二道鑑、三道西、四時兼、五政長

12月晦日 [肥前青方文書]
**北條為時覆勘状案
  肥前国役所姪濱警固番役の事、十二月分勤仕せられ候いをはんぬ。仍って執達件の如
  し。
    弘安十年十二月晦日       為時(在御判)
  白魚九郎殿