1288年(弘安11年、4月28日改元 正応元年 戊子)
 

1月18日 甲辰 [伏見天皇宸記]
  今日関東の使者入洛すと云々。

1月19日 乙巳 天陰雨下る [公衡公記]
  明暁八幡御幸供奉すべきの間、知嗣の許に於いて出立すべし(六条殿より出御有るべ
  きが故なり)。仍って家君向かわしめ給う。予舎弟小童、右衛門督、実時朝臣、実綱
  丸等を相具して参向す。而るに関東の御使い伊勢入道行覚(二階堂、俗名盛綱)俄に
  上洛す。今日上着すと云々。仍って八幡御幸延引す(子の刻ばかりに延引の由相触れ
  らる)。来二十六日たるべしと云々。仍って丑の刻に今出川に帰る。

1月20日 天晴 [公衡公記]
  申の刻に東使伊勢入道行覚(墨染衣袴)参る。家君東面に於いて対面せしめ給う(観
  證これを引導す)。條々の事書一通これを進入す。また去る冬下さるる所の万里小路
  殿御返事一合(御所に進すの間、家君聞かしめ給わず)同じくこれを進入す(これ無
  実御虚名の事、謝し仰せらるるの御返事なり。全く信受せざるの由これを申すと云々)。
  東使帰出するの後、家君常磐井殿に参らしめ給う(衣冠、前駈一人)。関東の状並び
  に事書等を進入せしめ給う。次ぎに万里小路殿に御参、関東の御返事を進入せしめ給
  う。次ぎに御参内と云々。後聞、東使今朝先ず関白の許に向かう。函有りと云々。凡
  そ執柄の威珍重々々か。
   條々の事行覚を以て申さしむるの由申すべきの旨候所なり。この旨を以て披露せし
   め給うべく候。恐惶謹言
     正月四日           前の武蔵の守宣時判
                    相模の守貞時判
   進上 右馬権の頭入道(三善為衡)殿
    條々
  一、御政の事
   執柄諸事計り申さるべきか
  一、議奏公卿並びに評定衆の事
   御計らいたるべきか
  一、任官加爵の事
   理運の昇進、次第を乱さずこれを行わるべきか
  一、僧侶、女房政事口入の事
   一向停止せらるべきか
  一、諸人相伝の所領の事
   道理に任せ本主に返し付けらるべきか
  一、御所の事
   御計らいたるべきか
  一、新院御分国の事
   御知行国無くば難治たるべきか。進ぜらるるの条宜しかるべきか
  この外詞を以て申して云く、任官、叙位、所領の事、関東の所存と称し、猥に所望致
  すの輩等これ有るか。向後一切御信受有るべからず。ただ道理に任せ行わるべし。も
  しまた関東存じ知らむ事有らば申し上ぐべしと云々。

1月22日 戊申 [公衡公記]
  今日関東使(行覚)召しに依って参上す。家君対面せしめ給う。先日七ヶ条の篇目の
  内、議奏の人数計らい申し難きの由これを載せらる。然れども御使いもし内々存知の
  旨有るや。また諸人由緒相伝の所領、本主に返し付けらるべきかの事、年限を限るべ
  きか。また長講堂領、院の御領等に限るべきか。若しくはまた凡の諸人の事か。この
  条同じく存知の旨有るや。以上の両条一切存知の旨無し。ただ給う御事書を進入する
  ばかりなり。御使い更に存知無きの旨これを申す。東使退出の後、予院に参りこれ等
  の趣を奏す(家君御労に依って御出仕無し)。また万里小路に参り使者の申す詞を進
  入す。
    使者(行覚)申す詞
   先度の御返事に就いて、子細委しく申し入れ候いをはんぬ。而るに重ねて仰せ下さ
   れ候の趣殊に恐れ入り候。武家に於いて御別心の由風聞の事、この條に於いては、
   関東一切存ぜざる事に候の上は、所存の旨無く候

1月25日 辛亥 [伏見天皇宸記]
  関白参る。対面。また西園寺大納言参る。関東條々の御返事の間の事等関白に相談す
  と云々。

1月26日 壬子 天晴 [公衡公記]
  東使行覚今日家君の亭に参り御返事を給うと云々。その間の事聞き及ばず。
    関東御返事案(博経に仰せこれを書く)
   條々の事、行覚を以て申せらるるの趣、聞こし食されをはんぬ。子細また仰せ含め
   らるるの由、御気色候所なり。仍って執達件の如し。
     正月二十五日         権大納言実兼
   事書の書き様
   条々
  一、政道の事
  一、任官加爵の事
  一、僧侶、女房世事口入の事
  一、御所の事
  一、御分国の事
   聞こし食されをはんぬ。
  一、評定衆の事
   一位(堀川基具)    土御門大納言
   西園寺大納言      前平中納言
   此の如く候べきか。この内若しくは用捨有るべきや。将又召し加えらるべきの仁有
   らば、計り申さるべきか。
  一、伝奏人数の事
   猶計り申さるべきか。
  一、諸人相伝の所領の事
   近年の訴訟に就いて、且つはその沙汰有るべきか
  一、任大臣の事
   土御門大納言 右大将
   一条大納言  左大将
   前々所望の仁此の如く候か。今度右大将登用せらるの条、人路を披からるべきか
  一、一位所望の事
   款状これを遣わさる。所望の躰頗る過分、朝の為に軽忽か。この上の事何様沙汰有
   るべきや
  一、天台座主の事
   慈実僧正の申し状これを遣わさる。何様沙汰有るべきや
  一、御即位用途の事
   任官の功少々召し進すの条何様たるべきや

  一位款状案、慈実僧正申し状、また万里小路殿より御書(御函一合)有り。仍って御
  函二合、今日(二十六日)行覚を今出川の御第に召しこれを給う。また事書以下両通
  の款状等同刻にこれを給い、子細を仰せ含めらると云々。
  今日太上天皇石清水の宮に臨幸有り。去る二十日臨幸有るべきの処に、関東使上洛す
  るの間延引し、今日幸す所なり。

1月27日 癸丑 [公衡公記]
  昨日の条々に就いて東使重ねて申す旨有りと云々。家君問答せしめ給う。指して奏聞
  に及ばず。

1月28日 甲寅 [公衡公記]
  家君御参有るべきの処に、東使未だ下向せざるに依って御逗留、明日参らしめ給うべ
  しと云々。

1月29日 乙卯 [公衡公記]
  東使今日下向すと云々。家君今日八幡に参らしめ給う。
 

2月3日 [皇年代略記]
  後伏見院誕生。

2月19日 甲戌 天陰、終日雨下る [公衡公記]
  妙音講例の如し。但し音楽無し。今日前の源大納言(母儀禅尼(宇都宮頼綱女)同じ
  く渡さしめ給う)この北山の第に光臨す。家君御対面。彼是盃酒を勧めしめ給い数刻
  に及ぶ。晩頭に帰られをはんぬ。翌朝牛一頭を引き遣わさる。

2月23日 戊寅 [公衡公記]
  夜に入って蔵人大輔顕世御使いとして参る。経清これを申次ぐ。御即位武家用途の事
  これを仰せ合わさる。また奉幣を奉行せしめ給うべし。
 

3月12日 丁酉 晴 [伏見天皇宸記]
  今夜俄に除目有り。これ関東より越後の守兼時を挙し申すなり。その次いでに、即位
  の功人少々これを任ず。

3月15日 庚子 [公衡公記]
  御即位儀(伏見院、太政官廰)。

3月27日 壬子 [公衡公記]
  伝聞、今日仙洞評定始めと云々(前の平中納言時継これを奉行す)。その衆五人、関
  白、一品(堀川基具)、土御門大納言(定實)、西園寺大納言(實兼)殿、前の平中
  納言等なり。先々関東に仰せ合わさると雖も、分明計り申すの旨無し。仍って大概重
  ねて関東に仰せ遣わす。所詮聖断在るべきの由これを申す。仍って治定しをはんぬ。

3月28日 癸丑 天陰雨下る。晩に及び雨止む [公衡公記]
  今日より北山の第(南屋寝殿)に於いて七ヶ日普賢延命法を修すべし。この事予今年
  重厄の間、旁々その慎み有り。二十一日より始行すべきの処に、臣下この法を修する
  の條先例無きの由、御室(性仁法親王)頻りに御抑留有り。(略)内法の徳益に於い
  ては、強ち一人、凡人を論ずべからざるや。且つ内々御気色を伺うの処に、叡慮また
  此の如し。例を引勘するの処、建保四年五月十二日、関東将軍家(源実朝)に於いて
  これを修す(阿闍梨忠快法印)。(以下略)
 

4月7日 [勘仲記]
**伏見天皇宣旨
  弘安十一年四月七日 宣旨
   近日の天、普天の下、病痾頗る流布し、尊卑愁緒有り。東大・興福・延暦・園城・
   法勝寺等五ヶ寺、来十日より三ヶ日を限り、本寺の浄場に於いて、智徳の禅侶を屈
   し、宜しく金剛般若経を転読せしむべし。殊に丹祈を致さば、盍ぞ玄応を顕わさん
   や。その供料は本寺の物を用いしめよ。
                    蔵人兵部権大輔藤原顕世(奉)

4月10日 甲子 雨降る [勘仲記]
  召しに依って参院す。以平宰相仰せ下されて云く、香取社の瓦木績用すべきの條、如
  何様たるべきやの由、関東執奏する所なり。この事社家に仰せ合わし、急ぎ申すべき
  の由、仰せ下さるるものなり。

4月23日 [陸奥留守文書]
**将軍家政所下文
  将軍家政所下
   早く左衛門の尉藤原家政陸奥国宮城郡高用名内余部村・村岡村・椿村の地頭職を領
   知せしむべき事、
  右、亡父兵衛の尉家廣法師文永二年三月二日の譲り状に任せ、先例を守り、沙汰を致
  すべきの状、仰せの所件の如し。以て下す。
    弘安十一年四月二十三日     案主菅野
  令左衛門の少尉藤原         知家事
  別当左馬権頭兼相模守平朝臣(貞時花押)
  前の武蔵守平朝臣(宣時花押)
 

5月13日 [摂津勝尾寺文書]
**後深草上皇院宣案
  異国降伏祈請の事、勧進帳叡覧を経て、これを返し遣わさる。早く諸寺諸山に廻り触
  れ、不日にこれを勤行せしめ、巻数を注進せしむべし。てえれば、院宣此の如し。こ
  れを悉せ。以て状す。
    五月十三日           雅言
  円琳上人御房
[東寺古文]
**関東御教書
  若狭国一宮造営の事、禰宜光景申し状、税所代光範注進の状此の如し。先例に任せ、
  役所等を相催し、その功を終うべきの由、下知せらるべきの状、仰せに依って執達件
  の如し。
    正応元年五月十三日       前の武蔵守(御判)
                    相模守(御判)
  越後守殿(兼時)
  越後左近大夫将監殿(盛房)

5月晦日 [肥前深堀文書]
**北條為時覆勘状
  肥前国役所姪濱警固番役の事、五月分勤仕せられ候いをはんぬ。仍って執達件の如し。
    弘安十一年五月晦日       為時(花押)
  深堀彌五郎殿
 

6月1日
  評に云く、当知行の仁罪科に依って所領を召さる事、祖父母の後子孫知行すべきの所
  は、知行の仁罪科の期たると雖も収公せらるべしと云々。
 

7月1日 [早稲田大学所蔵]
**島津忠宗勘状案
  異国警固夏番として、勤仕せられ候いをはんぬ。恐々謹言。
    七月一日            忠宗(在判)
  原田四郎殿
[東寺古文]
**六波羅御教書案
  若狭国一宮造営の事、去る五月十三日の関東の御教書此の如し。早く仰せ下さるるの
  旨を守り、先例に任せ、役所等を相催し、その功を終うべきなり。仍って執達件の如
  し。
    正応元年七月一日        左近将監(判)
                    越後守(判)
  美作左近大夫将監殿
  多伊良兵部殿

7月5日 [摂津勝尾寺文書]
**関東御教書案
  異国降伏御祈りの事、先度仰せ下されをはんぬ。六波羅奉行の国々の寺社、殊に懇丹
  を抽んずべきの由。重ねて守護人等に相触れしむべきの状、仰せに依って執達件の如
  し。
    正応元年七月五日        前の武蔵守(御判)
                    相模守(御判)
  越後守殿
  越後右近大夫将監殿
 

8月 [新編追加]
**関東評定事書
  一 鎌倉中僧徒官位の事、
   恣に昇進するの條、甚だ濫吹なり。免許を蒙らず任叙せば、その科を師匠に懸けら
   るべし。且つは寺社供僧違犯せば、別当注し申すべきなり。

8月1日 [原口忠智氏文書]
**千葉宗胤覆勘状
  異国警固皆参の事、関東の御教書の旨に任せ、去る四月中より勤仕せられ候いをはん
  ぬ。恐々謹言。
    正応元年八月一日        宗胤(花押)
  佐汰彌九郎殿

8月5日 [摂津勝尾寺文書]
**六波羅施行状案
  異賊降伏御祈りの事、今年七月五日の関東の御教書此の如し。仰せ下さるる旨に任せ、
  殊に懇丹を抽んずべきの由、摂津国中の寺社に相触れらるべきなり。仍って執達件の
  如し。
    正応元年八月五日        右近将監(御判)
                    越後守(御判)
 

10月3日 乙卯 晴 [勘仲記]
  参院。御八講條々の事奏聞する所なり。申の斜に関東の使者二人(隠岐前司時清、矢
  野豊後権守倫益)参入し、前の平中納言中門に於いて問答す。文箱二合を進入す。数
  刻問答し、秉燭の後退出す。條々重事等を含むか。

10月13日 乙丑 和暖 [勘仲記]
  御禊大甞會の用途、一昨日十萬匹関東よりこれを進ず。

10月晦日 [肥前青方文書]
**北條為時覆勘状案
  肥前国役所姪濱警固番役の事、十月分勤仕せられ候いをはんぬ。仍って執達件の如し。
    正応元年十月晦日        為時(在御判)
  白魚九郎殿
 

11月2日 [皇年代略記]
  後醍醐院誕生。