1月15日 乙未 天晴 [公衡公記]
今日新宰相為兼朝臣拝賀を申す。秉燭の程この亭に参り中門に立つ。家司道衡(束帯)
相逢う。内々堂上に昇り、家君の御前に参り見参に入る。次ぎに予の方に来たりまた
対面す。
2月1日 辛亥 晴陰不定 [勘仲記]
関東掃部助より一行を送り云く、総州禅門、去る月二十日下総の国に於いて夜打ちせ
らるるの由告げせしむ。凡そ不慮の横死、夢かただ夢にあらざるか。仰天の外他事無
きものなり。香取社造営奉行として、去年八月下向せしめをはんぬ。随分関東に於い
て沙汰を申す最中なり。事の違乱比類無し。
2月2日 壬子 [勘仲記]
禅門の穢に依って、三十ヶ日蝕穢。祈年祭奉行を辞し申しをはんぬ。
2月3日 [薩摩八田家文書]
**安定警固催促状案
異国警固の事、正安元年七月十六日付け関東御教書、急ぎ役所に向かわるべき由、催
促せしむと雖も、今に参勤せられず候云々。何様の事に候や。所詮、今月二十日以前
に警固致されず候ば、仰せ下され候旨に任せ、関東に注進せしむべく候、仍って執達
件の如し。
正応二年二月三日 左衛門の尉安定(在判)
薩摩国地頭御家人并本所一円地及び収納使御中
2月26日 丙子 陰 [勘仲記]
昨日右大弁雅藤朝臣興福寺衆徒の為に氏を放たるると云々。件の濫觴は、近年寺主・
名主寺僧年貢不済の間、使者を以て検注を遂ぐべきの由、武家に下知すと云々。武家
長者に申し、長者また両院家に仰せ含めらる。寺務等領状に就いて政所の御使いを下
さる。武家を使者に相副え、その節を遂げんと欲するの処に、衆徒蜂起し使者を追い
上ぐと云々。この事に依って氏を放つ。頗る理不尽の張行か。
閏2月3日 [鎌倉市立図書館所蔵]
**関東御教書
陸奥の国伊達郡東昌寺住寺職の事、聡賀越訴の趣、謂われ無きに依って棄損せらるる
所なり。早くその旨を存じ知るべきの状、仰せに依って執達件の如し。
正応二年閏二月三日 右馬権の頭(茂時花押)
相模の守(守時花押)
俊雄蔵主禅師
4月5日 [薩摩川田家文書]
**島津忠宗覆勘状
薩摩国役所筥崎石築地満家院内比志島分五丈一尺四寸裏加佐、去年五月勤仕せられを
はんぬ。仍って執達件の如し。
四月五日 忠宗(花押)
比志島孫太郎殿
4月6日 乙卯 [公衡公記]
今暁乗船吹田に向かう。相伴の人々同前。
4月9日 戊午 [公衡公記]
家君、二位殿今日上洛せしめ給う。予今日より吹田に於いて温泉湯に浴す。
4月13日 壬辰 [公衡公記]
京より御文有り。一昨日関東より御函の事書を進らす。その内立坊(内裏の宮、胤仁
親王)、執柄(左右大臣以下)等の事、沙汰有るべきの由これを申す。これに就いて
立坊の事若しくは今月中急ぎその沙汰有り。てえれば、上洛すべきかの由仰せ有り。
4月16日 乙丑 [公衡公記]
今暁吹田を出て、秉燭の程今出川に着く。去る十三日関白宣下、右大臣(近衛家基)
と云々。左府(九條忠教)肩を並ぶ。忽ち超越するの条言語の覃ぶ所に非ず。但し関
東の気色の由沙汰有るか。立坊来二十五日と云々。また去る比天台座主(慈助法親王、
青蓮院若宮、上皇御連枝)宣下と云々。
4月21日 [華頂要略]
**後深草上皇院宣
今夕より立坊御祈りとして、五大尊合行護摩を始行せらるべし。御勤仕有るべきの由、
御気色候所なり。この旨を以て、洩れ申さしめ給うべく候、仍って執達件の如し。
四月二十一日 右衛門権佐俊光
謹上 兵衛督法印御房
4月25日 甲戌 [公衡公記]
今日立太子なり(当今第一の皇子胤仁親王、新中納言典侍(経子、故経氏卿女)の腹
なり(但し中宮御猶子の儀と云々)。予出仕せず。大将殿酉の一点に参らしめ給う。
5月14日 [大和春日神社文書]
**後深草上皇院宣
蒙古の凶族今年覬覦の疑い有りと云々。御祈りの事、兼日その沙汰有るべし。春日社
並びに興福寺に於いて、三七箇日を限り、各々無貮の懇丹を抽んで、祈り申すべきの
由、仰せ遣わさるるべきの旨、院宣候所なり。この旨を以て、申し沙汰せしめ給うべ
し。仍って執啓件の如し。
五月十四日 中宮大進光泰(奉)
謹上 左中弁殿
5月21日 [肥前青方文書]
**北條為時施行状案
関東御分鎮西七年米穀並びに異賊警固要害所々、厳密の用意を加うべきの由の事、
今年四月二十九日関東の御教書並びに宰府施行各案文此の如し。所詮、番役の事に於
いては、先度結番の次第を守り、勤仕せらるべきなり。もし懈怠の輩有らば、子細を
注進せしむべく候。仍って執達件の如し。
正応貮年五月二十一日 前の遠江守(在判)
青方太郎入道殿
5月23日 [肥前青方文書]
**維景書下案
異賊警固要害構舟蔟釘以下所役の事、
御領田数分限に随い、不日にその沙汰を致さるべく候、仍って執達件の如し。
正応二年五月二十三日 維景(在判)
白魚九郎殿
5月28日 [禰寝文書]
**六波羅施行状
早く建部清親大隅国禰寝南俣院地頭職を領知せしむべき事、
右、去年九月二十七日関東安堵の御下文に任せ、沙汰を致さしむべきの條件の如し。
正応二年五月二十八日 丹波守平朝臣(盛房花押)
越後守平朝臣(兼時花押)
5月晦日 [肥前深堀文書]
**北條為時覆勘状
肥前国役所姪濱警固番役の事、五月分勤仕せられ候、仍って執達件の如し。
正応二年五月晦日 為時(花押)
深堀彌五郎殿
7月19日 [高野山文書]
**関東御教書
高野山雑掌申す紀伊国阿弖河庄の事、申し状これを遣わす。子細状に載す。関東元暦
元年十二月九日の御下知状正文の有無、圓満院に触れ申し、不日に注進せしむべきの
状、仰せに依って執達件の如し。
正応二年七月十九日 陸奥守(花押)
相模守(花押)
越後守殿
丹波守殿
7月21日 [東大寺文書]
**後宇多上皇院宣案
東大寺申す造興福寺土打段米の事、先例の勤否を注進するの間、先ず譴責を止むべき
の由、興福寺に仰せられをはんぬ。この上は且つは門戸を開き、御願に随うべきの由、
院宣せしむべく候所なり。仍って執達件の如し。
七月二十一日 参議俊定
謹上 別当僧房御房
8月15日 [鎌倉大日記]
鶴岡の放生会、将軍家参詣。
[増鏡]
関の東にも、若宮ときこゆる社おはしますに、都の放生会をまねびて行ふ。そのあり
さま誠にめでたし。将軍もまうで、位あるつはもの、諸国の受領どもなど、いろいろ
の狩衣、思ひ思ひの衣重ねて出でたちたり。あかはしといふ所に、将軍御車とヾめて
おり給ふ。上達部はうへのきぬなるもあり、殿上人など、いと多く仕うまつる。この
将軍は、中務の宮(宗尊)の御子なり。この頃、権中納言にて右大將かね給へれば、
花を折らせてさうぞきあへるさま、都めきておもしろし。法会のありさまも、本社に
かはらず、舞楽、田楽、獅子かしら、やぶさめなど、さまざま所にしつける事ぞおも
しろし。
8月16日 [増鏡]
猶かやうの事なり。桟敷どもいかめしく造り並べて、いろいろの幔幕などひき続けて、
将軍の御桟敷の前には、相模守(貞時)をはじめ、そこらの武士どもなみゐたるけし
き、さまかはりて、このましううけばりたる、心地よげに、所につけては又なく見え
たり。
9月7日 癸未 天陰、時々雨灑ぐ [公衡公記別記]
今日中院(亀山上皇)御出家の事有り。この事この一両日俄にその沙汰有り。これ御
脚気連々不快の上、清浄の叡念を催さる。楚忽に思ぼし食し立つ所なり(春秋四十一)。
今日彼岸結願すでにその事を遂げらる。
9月14日
将軍二品惟康親王御上洛。
[鎌倉大日記]
貞時使飯沼判官等久明親王を迎え奉る。旧将軍惟康親王を避く。親王過ぐる所に路、
足柄山、改めてその途にて入洛す。網代輿を寄せこれに載せ奉る。時に諸人云く、親
王洛陽に流さると云々。惟康嵯峨の辺に於いて出家、二十六歳。
[増鏡]
将軍都へ流され給ふとぞ聞ゆる。めづらしき言の葉なりかし。近く仕うまつる男女、
いと心ぼそく思ひなげく。たとへば、御位などのかはる気色に異ならず。さてのぼら
せ給ふありさま、いと怪しげなる網代の御輿を、さかさまに寄せて乗せ奉るも、げに
いとまがまがしき事のさまなり。うちまかせては、都へ御のぼりこそ、いとおもしろ
くもめでたかるべきわざなれど、かく怪しきはめづらかなり。(略)文永三年より今
年まで二十四年、将軍にて、天下のかためといつかれ給へれば、日の本の兵をしたが
へてぞおはしましつるに、今日はかれらにくつがへされて、かくいとあさましき御有
様にてのぼり給ふ。いと、いとほしうあはれなり。道すがらも、おぼし乱るヽにや、
御畳紙の音しげう漏れ聞ゆるに、猛きものヽふも涙おとしけり。
*[増鏡]
このかはりには一院の御子、三條内大臣公親の御女(房子)、御匣殿とて候ひ給ひし
御腹なり。当代(伏見)の御はらからにて、今少しよせ重く、やむごとなき御有様な
れば、受禅の心地ぞする。もとの将軍おはせし宮をば、造り改めて、いみじうみがき
なす。つはものヽ勝れたる七人、御むかへにのぼる中に、いひぬまの判官といふもの、
前の将軍のぼり給ひし道も、まがまがしければ、あとをも越えじとて、足柄山をよぎ
てのぼるとぞ。あまりなる事にや。
9月21日 晴 [吉続記]
関東の使者昨日右大将の許に向かう。将軍御元服来月六日たるべし。その儀勅問に預
かり、省略の儀を以て参内すべきの由、申し入れをはんぬ。任槐の事、今度東使便宜
を申せしむの由、その説有り。
9月28日 雨下る [吉続記]
若宮(将軍)立親王来月一日たるべし。件の日同じく御元服定め有るべしと云々。御
元服の事左大弁雅藤朝臣奉行なり。
10月3日 [増鏡]
みこは、御元服したふ。久明の親王ときこゆ。
10月5日
久明親王御元服、同九日征夷大将軍と為す。
10月9日 乙卯 晴 [勘仲記]
親王今夜征夷大将軍を宣下せらるる事、頭中将冬季朝臣奉行す。上卿内大臣殿奉行せ
しめ給う。坊門中納言、冷泉宰相、左大弁宰相参陣すと云々。
10月10日 [増鏡]
院よりやがて六波羅の北方、さきざきも、宮わたり給ひし所へおはして、それよりあ
づまに赴かせ給ふ。
[崎山文書]
**久明親王関東下向女騎狩装束用途催促状
案
関東御下向女騎狩装束用途の事
壹貫五百文
右、田殿上方分として、不日にその沙汰有るべきの状件の如し。
正応二年十月十日 信正(在判)
覺願(在判)
[勘仲記]
今日将軍関東に下向す。先ず未明に六波羅に入御す。劔を帯す武士十余人御迎えに進
み、御車前を歩行せしむ。出御、御車寄せに三條大納言(實重卿)祇候すと云々。上
臈女房御車の中に参る。下臈出車に乗り六波羅に参る。巳の刻粟田口を過ぎしめ給う。
路次の行列、先ず女房等騎馬、次いで女房輿四五挺か。次いで将軍の御輿、武士二十
余人歩行先行す。公卿堀川中納言、殿上人資藤朝臣、経親朝臣、上北面一人(仲良)、
已上布衣上括懸け総鞦、医師一人、陰陽師一人供奉す。その後甲斐の前宮内大輔宗秀、
佐々木能登守宗綱、飯沼判官助宗、武士従い後塵雲霞の如し。上皇右府禅門の桟敷に
於いて密々に叡覧有ると云々。
10月13日 [鎌倉大日記]
久明親王征夷大将軍に任ず。
10月16日 [皇年代略記]
三品久明親王征夷大将軍として、関東に下向す。
10月19日 [華頂要略]
**後深草上皇院宣
来二十五日より、将軍御祈りとして、宜しく六観音合行護摩を勤修せしめ給うべきの
由、院の御気色候所なり。この旨を以て、十楽院前の大僧正御房に申し入れしめ給う
べし。仍って執達件の如し。
十月十九日 左衛門権佐時経(奉)
謹上 兵衛督法印御房
逐って申す、
支度献ぜしめ給うべく候。七ヶ日以後、供を為すべきの由、同じく仰せ下され候な
り。この御意を得らるべく候か。
10月22日 [華頂要略]
**後深草上皇院宣
桂林院の事、両方の申し状を以て、関東に申し合わせらるべきの由、二品親王頻りに
申せられ候の間、仰せ合わさるるの外、別の子細無きの由、御気色候なり。この旨を
以て、十楽院僧正御房に申せしめ給うべく候、仍って執達件の如し。
十月二十二日 忠世
三位法印御房
10月25日
當将軍久明親王(後深草院宮、御歳十六)御下着。
[増鏡]
鎌倉へつかせ給ふにも、御関迎とて、ゆゆしき武士ども、うちつれてまゐる。宮はき
くのとれんじの御輿に、御簾あげて、御覧じ習はぬえびすどもの、うち圍み奉れる。
たのもしく見給ふ。しのぶをみだれ織りたる萌黄の御狩衣、紅の御衣、濃き紫の指貫
奉りて、いとほそやかになまめかし。いひぬまの判官、とくさの狩衣、青毛の馬にき
かなものの鞍おきて、随兵いかめしくして、お輿のきはにうちたるも、都にたとへば、
行幸にしかるべき大臣などの、つかまつり給へるによそへぬべし。
[鎌倉大日記]
即ち吉書始め、評定始め。
貞時、惟康親王の旧舘を壊し御所を新造す。但し旧将軍の息女を嫁す。
*[増鏡]
三日が程は、わうばんといふ事、また馬御覧、何くれといかめしき事ども、鎌倉うち
のけんめいなり。宮の中のかざり、御調度などは更にもいはず、帝釈の宮殿もかくや
と、七寶を集めて磨きたるさま、目もかがやく心地す。関の東を、都の外とて、おと
しむべくもあえあざりけり。都におはしますなま宮たちの、より所なくただよはしげ
なるには、こよなく勝りて、めでたくにぎはゝしく見えたり。時宗朝臣といひしも、
また頭おろして、円覚寺の入道とて、いとたふとく行ひて、世をもいろはず、貞時と
いふ太郎相模守にぞ、よろずいひつけける。のぼり給ひにし前の大将殿(惟康)は、
嵯峨のほとりに、御ぐしおろし、いとかすかに、さびしくておはす。
10月29日 [厳島文書]
**関東御教書案
御劔一腰、神馬一疋の事、例に任せ、諸国一宮に献らるる所なり。能登・安藝両国分
沙汰致し、請取を執り進せらるべきの状、仰せに依って執達件の如し。
正応二年十月十九日 陸奥守(宣時御判)
相模守(貞時御判)
備前前司殿
閏10月24日 [早稲田大学所蔵]
**島津忠宗覆勘状
警固役の事、三箇月(夏分)勤仕せられ候いをはんぬ。謹言。
後十月二十五日 忠宗
原田四郎殿
11月2日 [防長風土注進案]
**関東御教書案
異国降伏御祈祷の事、周防・長門宗寺社に於いて、明年十月に至り懇誠を致すべきの
由これを触る。請文を執り進さるべきの状、仰せに依って執達件の如し。
正応二年十一月二日 陸奥守(御判)
相模守(御判)
上総前司殿
12月12日
円覚寺焼失。
12月15日 [薩摩比志島文書]
**島津忠宗覆勘状
要害警固役の事、三箇月、西俣又三郎勤仕候いをはんぬ。恐々。
十二月十五日 忠宗(花押)
比志島孫太郎殿