1月3日
丹後の次郎左衛門の尉行貞出仕するの処に、二階堂小路に於いて射らる。自身は疵を
被らず。所従一両人疵を被る。
1月15日 [防長風土記注進案]
**為俊施行状
異国降伏御祈祷の事、去年十一月二日関東御教書此の如し。早く仰せ下さるるの旨に
任せ、今年十月迄、懇誠を致さるべく候。恐々謹言。
正応三年正月十五日 為俊(在判)
松巖寺院主御房
1月16日 [紀伊崎山文書]
**湯浅浄智用途請取状案
将軍関東御下向の狩装束用途、田殿上方分壹貫五百文、慥に請け取り候いをはんぬ。
正月十六日 浄智(在判)
*[保暦間記]
甲斐国小笠原一族に源為頼(浅原八郎と号す)と云者あり。所領なんども得替して強
弓大力なりければ、諸国にて悪党狼藉を致す。いづくにても見合はん所にて誅すべき
由諸国へ触らる。叶い難きに依って如何なる企にや有けん。
3月3日
朝原八郎為頼内裏(富小路殿)の南庭に走り入り、紫宸殿に上がり自害す。子息、若
党同じく自害す。三条宰相中将實盛朝臣与党人として六波羅に召し渡さる。この事に
依って、下野の入道蓮瑜、出羽の前司行藤使節として同二十一日上洛す。
3月8日 [武家年代記]
朝原八郎源為頼父子三人内裏に於いて自害しをはんぬ。
3月9日 [増鏡]
夜、衛門の陣より、おそろしげなる武士三四人、馬に乗りながら、九重の中へはせ入
りて、上にのぼりて、女嬬が局の口に立ちて「やゝ」といふを見あげたれば、丈高く
おそろしげなる男の、赤地の錦の鎧直垂に、ひおどしの鎧着て、只赤鬼などのやうな
るつらつきにて、「御門はいづくに御よるぞ」と問ふ。「夜のおとどに」といらふれ
ば、「いづくぞ」とまた問ふ。「南殿より東北のすみ」とをしふれば、南ざまへ歩み
ゆく間に、女嬬内にまゐりて、権大納言典侍殿、新内侍殿などにかたる。うへは中宮
の御方に渡らせ給ひければ、対の屋へ忍びて逃げさせ給ひて、内侍劔璽を取りて出づ。
女嬬は玄象、鈴鹿をとりて逃げけり。春宮をば、中宮の御方の按察殿抱きまゐらせて、
常磐井殿へかちにて逃ぐ。この男浅原のなにがしとかいひけり。中宮の御方の侍長景
政といふ者、名のり参りて、いみじく戦ひ防ぎければ、疵かうぶりなどしてひしめく。
かかる程に、二條京極の篝屋びんごの守とかや、五十余騎にて馳せ参りて鬨をつくる
に、合する声僅に聞えければ、心やすく内にまゐる。御殿どもの格子ひきなぐりて乱
れ入るに、かなはじと思ひて、夜のおとどの御茵のうへにて浅原自害しぬ。太郎なり
けるをのこは、南殿の御帳の内にて自害しぬ。おととの八郎といひて十九になりける
は、大床子のあしの下にふして、寄るものの足をきりしけれども、さすがあまたして
搦めむとすれば、かなはで自害するとて、腸をば皆繰りいだして、手にぞもたりける。
そのままながら、何れをも六波羅へかき続けて出だしけり。ほのぼのと明くる程に、
内、春宮、御車にて忍びて帰らせ給ふ。(略)この事、次第に六波羅にて尋ね沙汰す
るほどに、三條宰相中将實盛も召しとられぬ。三條の家につたはりて、鯰尾とかいふ
刀のありけるを、この中将、日比もたれたりけるにて、かの浅原自害したるなどいふ
事ども出できて、中院もしろしめしたるなどいふきこえありて、心うくいみじきやう
にいひあつかふ。(略)猶内よりの仰など、厳しき事ども聞ゆれば、中の院、新院も
おぼし驚く。いとあわただしきやうになりぬれば、いかがせむにて、知ろしめさぬよ
し誓ひたる御消息など、あづまへ遣されて後ぞ、事しづまりにける。
3月25日 [古簡雑纂七]
**関東下知状案
東大寺勧進圓乗上人申す造国周防・肥前所務の事、
右、圓乗上人に下さる如き去年十二月二十九日の院宣は、両国を知行し造営の事、殊
にその沙汰を致すべしと云々。守護・地頭・御家人等自由の違乱を停止し、先例に任
せ、国務に相従うべきの状、鎌倉殿の仰せに依って、下知件の如し。
正応三年三月二十五日 前の武蔵守平朝臣(判)
相模守平朝臣(判)
4月18日
評に云く、遺跡相論の時、子息に非ざるの由を称し申すの輩の事、悪口に准わらると
雖も、自今以後はその咎有るべかず。各祖父母知行の子孫所領の事、内々尋ね究めら
れ沙汰有るべし。
4月21日 [入来院岡元家文書]
**渋谷重村着到状
美作国河倉郷地頭渋谷五郎四郎重村、朝原八郎の事に依って、参洛せしめ候。この旨
を以て、洩らし御披露有るべく候。恐惶謹言。
四月二十一日 平重村(裏花押)
謹上 御奉行所
承りをはんぬ。(兼時花押)
[出雲千家文書]
**出雲泰孝代政行着到状
出雲国御家人大庭田尻地頭国造泰孝代雲三政行、折節在京仕るの間、朝原八郎狼藉の
事に依って、當参仕り候。この旨を以て、御披露有るべく候。恐惶謹言。
四月二十一日 国造泰孝代政行(状)
謹上 御奉行所
承りをはんぬ。(花押)
4月25日 [中臣祐春記]
**伏見天皇綸旨
近日異国襲来の浮説有り。朝家第一の重事たり。偏に尊神の威力非ずんば、爭か殊俗
の怨念を退かんや。早く三七日に限り、殊に丹精を抽んで、玄応空しからず。天気、
執達件の如し。
四月二十五日 中宮大進光泰(奉)
謹上 神祇伯殿
[華頂要略]
**後宇多上皇院宣
蒙古の凶族今年覬覦の疑い有りと云々。御祈りの事、過日その沙汰有るべし。三七ヶ
日に限り無貮の懇丹を抽んで、祈請せらるべきの由、院宣候所なり。仍って言上件の
如し。俊定恐惶謹言。
四月二十五日 参議俊定(奉)
進上 十楽寺僧正御房(政所)
5月6日 [長門毛利家文書]
**源景頼着到状
備後国泉庄踊喜村地頭尼詣阿子息六郎景頼、朝原八郎為頼の事に依って、参上仕り候。
この旨を以て、洩らし御披露有るべく候。恐惶謹言。
正応三年五月六日 源景頼上
進上 御奉行所
承り候いをはんぬ。(兼時花押)
6月30日 [早稲田大学所蔵]
**島津忠宗覆勘状案
異賊警固筥崎番役の事、三ヶ月勤仕件の如し。
六月三十日 忠宗(在判)
原田四郎殿
8月23日 [武家年代記]
一遍寂す。
9月8日 [田代文書]
**六波羅御教書案
和泉国大島庄雑掌快賢申す、宗綱以下の輩悪行の事、重ねて訴状具書此の如し。関東
の御下知に背き、御家人の威に募り、雑掌を追い出し、苅田狼藉を致すと云々。事実
ならば、太だ濫吹なり。早く御下知の旨に任せ、彼等御家人の号を停止し、且つは苅
田以下の狼藉を相鎮めらるべきなり。仍って執達件の如し。
正応三年九月八日 丹波守(在判)
越後守(在判)
吉河彌五郎殿
守護代
10月1日 [薩藩旧記]
**島津忠宗覆勘状案
警固番役の事、三箇月勤仕件の如し。
正応三年十月一日 忠宗(在判)
国分掃部助殿
11月
六波羅の李部時輔が次男、三浦の介入道(頼盛)を憑み忍び来たり。仍ってこれを搦
め進ず。種々の拷問を歴て首を刎ねらる。
11月29日 [高野山金剛三昧院文書]
**関東過書
下 西海道関渡沙汰人
早く高野山金剛三昧院領筑前国粥田庄上下諸人並びに運送船を勘過せしむべき事、
右、関々津々、更にその煩いを致すべからず。勘過せしむべきの状、鎌倉殿の仰せに
依って下知件の如し。
正応三年十一月二十九日 陸奥守平朝臣(在判)
相模守平朝臣(在判)
12月1日 [皇年代略記]
日吉の神輿を石清水に振り棄つと云々。